2月は、日曜始まりのカレンダーでは、7×4でぴったり4行(週)で収まる。コンパクトで美しい。そして今日は13日の金曜日。必然的に来月も13日は金曜日である。
昨夜は、私にしては珍しく寝つきが悪く(普段は寝床に入って5分で意識を失う)、しかもようやく眠りに入ったと思ったら、眠りが浅く、夜が明ける前に目が覚めてしまった。原因には心当たりはあるが、ここでは書けない。思うようにいかないのが人の世であるとだけ言うに留めておく。こんなときのためにとってある睡眠薬(2年前に処方されたものだが「賞味期限」みたいなものはあるのだろうか)を一錠飲んで、しかし熟睡とはいかず、昼近くまでうとうとする。
朝食(兼昼食)はウィンナーソーセージとキャベツの炒め、トースト、グレープフルーツジュース。食事を終えて散歩に出る。丸の内ルーブルで『007慰めの報酬』を観る。前作以上にアクションシーンが多い。これでもかというくらいのアクションシーンの連続で観客は息が継げない。酸欠状態になりそうだ。いくらなんでも過剰ではなかろうか。アクションシーンが007シリーズの重要な要素であることは間違いないが、エスプリの利いた会話やとぼけたユーモアというものもそれと負けず劣らず重要な要素だったはずで、それがダニエル・グレイグのボンドになってからは重心がアクションシーンに大きく移動した。しかもボンドの表情はサイボーグのようにクールだが、ときに人間的な苦悩を表出する。まるでマット・デイモン主演の『ボーン・アイデンティティ』シリーズのようである。
スクリーンの中でボンドに随伴して観念的殺人を連続して実行していくらか気分が晴れた私は、「兎屋」といううどん屋で遅い昼食(すき焼鍋うどん、白玉ぜんざい)をとった後、「玉屋」で苺豆大福を家族の土産に買い求め、そのまま銀座通りを京橋方面へ歩いて「ブリジストン美術館」へ行った。印象派とそれ以後の絵画を中心としたコレクションだが、名品揃いで、素晴らしい。コローの「ヴィル・ダヴレー」はソローの『森の生活』を連想させる。私も世俗を離れてしばらく(ずっとは無理だと思うが)こんな土地で暮らしたい。同じくコローの「森の中の若い女」は、もし森の中にこんな素敵な女性がいるのであれば、ずっと(しばらくでなく)暮らしていけそうな気がする。ブーダンの「トルーヴィル近郊の浜」は浜辺にテーブルや椅子を運んできてピクニックをしている富裕階級の人々(みんな正装だ)を描いた作品。こういう習慣は日本にはない。せいぜいバーベキューだろう。海の上の空の空気感が清々しい。ピサロの「ブージヴァルのセーヌ河」も広々とした空が清々しい作品だ。セーヌ河はパリの空の下だけを流れる川ではなくて、上流をたどれば、フランスの田舎を流れる川なのだ。セザンヌの「サント=ヴィクトール山とシャトー・ノワール」は画集で観るよりもずっと立体的で色彩も豊かで、魅了される作品だ。ルオーの「郊外のキリスト」は今回の展覧会の中で私は一番好きな作品だ。場末の貧しい夜の町を歩く親子三人連れ。蕪村の「月天心貧しき町を通りけり」を彷彿とさせる。隣には同じくルオーの「ピエロ」が展示されている。このピエロ、目を閉じていると解説されているが、私には開いているのではないかと思えるときあって、心の中を見透かされるようでちょっと怖い。ローランサンの「女と子犬」、ユトリロの「サン=ドニ運河」、モディリアーニの「若い農夫」、いずれも独自の静謐な世界をキャンバスの中に造り出している。普段はローランサンの作品の前で立ち止まることはないのだが、観念的殺人を遂行した直後だからだろうか、魂の救済を求めるように作品の前でたたずんだ。そして、ピカソ。「カップとスプーン」のような小品から「腕を組んですわるサルタンバンク」のような大きなものまで8点の作品が展示されていたが、どれも素晴らしい。圧倒的な才能とテクニック。他の画家たちは、演奏家に喩えれば、特定の楽器の名手である。ユトリロはつねにユトリロ的世界を奏で、モディリアーニはつねにモディリアーニ的世界を奏でる。しかし、ひとりピカソだけは、さまざまなジャンルの曲をさまざまな楽器で奏でる。しかもつねに超一流の水準で。それにしても私立の美術館がよくこれだけの作品を所蔵しているものである。帰りに売店で図録と、ポストカードと、それから所蔵品(の中から源泉された50作品)の音声解説付きDVDを購入。帰宅してさっそくDVDを視聴したが、びっくりした。映像がとても美しいのだ。現物よりも美しい。これは昔の映画のDVDがデジタル処理をされて往時のきれいな映像として甦るのと同じ理屈であろう。たとえばコローの「ヴィル・ダヴレー」は、現物で観ると黒ずんでいる草木の部分が、本来の明るさ瑞々しさを取り戻している。製作された当初はきっとこんなだったに違いない。他の美術館でもこうした所蔵作品のDVDカタログを作成・販売してほしい。
昨夜は、私にしては珍しく寝つきが悪く(普段は寝床に入って5分で意識を失う)、しかもようやく眠りに入ったと思ったら、眠りが浅く、夜が明ける前に目が覚めてしまった。原因には心当たりはあるが、ここでは書けない。思うようにいかないのが人の世であるとだけ言うに留めておく。こんなときのためにとってある睡眠薬(2年前に処方されたものだが「賞味期限」みたいなものはあるのだろうか)を一錠飲んで、しかし熟睡とはいかず、昼近くまでうとうとする。
朝食(兼昼食)はウィンナーソーセージとキャベツの炒め、トースト、グレープフルーツジュース。食事を終えて散歩に出る。丸の内ルーブルで『007慰めの報酬』を観る。前作以上にアクションシーンが多い。これでもかというくらいのアクションシーンの連続で観客は息が継げない。酸欠状態になりそうだ。いくらなんでも過剰ではなかろうか。アクションシーンが007シリーズの重要な要素であることは間違いないが、エスプリの利いた会話やとぼけたユーモアというものもそれと負けず劣らず重要な要素だったはずで、それがダニエル・グレイグのボンドになってからは重心がアクションシーンに大きく移動した。しかもボンドの表情はサイボーグのようにクールだが、ときに人間的な苦悩を表出する。まるでマット・デイモン主演の『ボーン・アイデンティティ』シリーズのようである。
スクリーンの中でボンドに随伴して観念的殺人を連続して実行していくらか気分が晴れた私は、「兎屋」といううどん屋で遅い昼食(すき焼鍋うどん、白玉ぜんざい)をとった後、「玉屋」で苺豆大福を家族の土産に買い求め、そのまま銀座通りを京橋方面へ歩いて「ブリジストン美術館」へ行った。印象派とそれ以後の絵画を中心としたコレクションだが、名品揃いで、素晴らしい。コローの「ヴィル・ダヴレー」はソローの『森の生活』を連想させる。私も世俗を離れてしばらく(ずっとは無理だと思うが)こんな土地で暮らしたい。同じくコローの「森の中の若い女」は、もし森の中にこんな素敵な女性がいるのであれば、ずっと(しばらくでなく)暮らしていけそうな気がする。ブーダンの「トルーヴィル近郊の浜」は浜辺にテーブルや椅子を運んできてピクニックをしている富裕階級の人々(みんな正装だ)を描いた作品。こういう習慣は日本にはない。せいぜいバーベキューだろう。海の上の空の空気感が清々しい。ピサロの「ブージヴァルのセーヌ河」も広々とした空が清々しい作品だ。セーヌ河はパリの空の下だけを流れる川ではなくて、上流をたどれば、フランスの田舎を流れる川なのだ。セザンヌの「サント=ヴィクトール山とシャトー・ノワール」は画集で観るよりもずっと立体的で色彩も豊かで、魅了される作品だ。ルオーの「郊外のキリスト」は今回の展覧会の中で私は一番好きな作品だ。場末の貧しい夜の町を歩く親子三人連れ。蕪村の「月天心貧しき町を通りけり」を彷彿とさせる。隣には同じくルオーの「ピエロ」が展示されている。このピエロ、目を閉じていると解説されているが、私には開いているのではないかと思えるときあって、心の中を見透かされるようでちょっと怖い。ローランサンの「女と子犬」、ユトリロの「サン=ドニ運河」、モディリアーニの「若い農夫」、いずれも独自の静謐な世界をキャンバスの中に造り出している。普段はローランサンの作品の前で立ち止まることはないのだが、観念的殺人を遂行した直後だからだろうか、魂の救済を求めるように作品の前でたたずんだ。そして、ピカソ。「カップとスプーン」のような小品から「腕を組んですわるサルタンバンク」のような大きなものまで8点の作品が展示されていたが、どれも素晴らしい。圧倒的な才能とテクニック。他の画家たちは、演奏家に喩えれば、特定の楽器の名手である。ユトリロはつねにユトリロ的世界を奏で、モディリアーニはつねにモディリアーニ的世界を奏でる。しかし、ひとりピカソだけは、さまざまなジャンルの曲をさまざまな楽器で奏でる。しかもつねに超一流の水準で。それにしても私立の美術館がよくこれだけの作品を所蔵しているものである。帰りに売店で図録と、ポストカードと、それから所蔵品(の中から源泉された50作品)の音声解説付きDVDを購入。帰宅してさっそくDVDを視聴したが、びっくりした。映像がとても美しいのだ。現物よりも美しい。これは昔の映画のDVDがデジタル処理をされて往時のきれいな映像として甦るのと同じ理屈であろう。たとえばコローの「ヴィル・ダヴレー」は、現物で観ると黒ずんでいる草木の部分が、本来の明るさ瑞々しさを取り戻している。製作された当初はきっとこんなだったに違いない。他の美術館でもこうした所蔵作品のDVDカタログを作成・販売してほしい。