フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月22日(火) 曇りのち晴れ

2010-06-23 11:38:42 | Weblog

  10時、起床。昼食までの時間が短くなりそうなので、朝食は目玉焼きだけ(トーストなし)にしておく。
  午後から大学へ。出がけにベランダの洗濯物を仕舞う。毎日、雨が降るのかどうか微妙な空模様で、こういう場合は、安全策をとって洗濯物を取り込んでから外出することになる。結果論だが、今日は取り込むべきではなかった。蒸し暑い一日。「屏南」で五目粥セットの昼食。
  4限は「現代人間論系総合講座1」。大薮先生の担当の2回目。配布された資料の中で驚いたのは、1990年と2000年で子どもが主として遊ぶ場所が「友だちの家」から「自分の家」に劇的に変化していたこと。一体、その10年間に何があったのか。ゲーム機の普及が一番考えられる要因だが、「友だちの家」でゲーム機で遊ぶのではなく「自分の家」でゲーム機で遊ぶ、つまり一人で遊ぶ子どもが増えたということだ。子どもの遊びの個人化である。伝統的な発達心理学の教科書には、子どもは友だちとのゲーム遊びを通じて、役割分業や連帯の仕方を習得するのだと書かれていたが、一人遊びが主流になった時代ではそういう説明は成り立たなくなる。個人化した時代の発達心理学とはどのようなものなのだろうか。
  5限は研究室で二文生のMさんの卒論指導。約束の時間を過ぎてもMさんがやってこないので、メールをしたら、6限と勘違いしていたとのことで、慌ててやってきた。9月卒業をめざしているので、卒論の提出締め切りは7月22日、残りちょうど1ヵ月である。文献を読んだりインタビューをしたりというインプット作業はこの1週間(最長でも2週間)で終らせて、あとはアウトプット作業に徹しなければならない。これから必要なのは、知識ではなく、一種の狂気である。
  6限は演習「現代社会とセラピー文化」。「香山リカ」をテーマにしたグループ発表はまずまずだったが、ディスカッションが低調だった。「何か意見はありませんか。何でもいいんで」と司会者がフロアーの意見を促していたが、このこと自体がディスカッションの低調さを端的に物語っている。ただ発表を聴いているだけでよいのであれば、演習は楽チンな授業である。しかし、発表というのはディスカッションとワンセットで発表なのであり、その意味で、聞き手も発表の共同制作者なのである。聞き手は観客ではなく、共演者なのである。聞き手は聞き手の役割を演じなければならない。
  帰路、「水山」で夕食。ちゃんぽんうどんを野菜大盛で。帰宅して、風呂を浴び、『チームバチスタ2 ジェネラル・ルージュの凱旋』の最終回をリアルタイムで観る。原作のストーリーを本線にして、そこに毎回、『ドクターハウス』を思わせる一話完結のエピソード(患者の病気の原因の探求)が付加されたドラマだった。いい出来栄えだったと思うが、ラスト、映画では速水が系列の地方病院へ赴任するときに花房婦長も一緒に付いて行くのだが、こちらではそのシーンはなかった。いいシーンだったので、残念だ。