8時半、起床。妻の身体の具合は、タミフル+ロキソニンが効いて、だいぶ楽になっているようだ。昼過ぎに家を出て、大学へ。昼食は「鈴文」で。ランチのとんかつ定食(950円)ではなく、普通のとんかつ定食(1300円)を注文する。肉は200グラム(ランチは150グラムで、特製ロースかつは300グラム)。私にとって過不足のないボリュームである。塩とレモンで2切れ、醤油で1切れ、とんかつソースと辛しで3切れ、最後の一口まで肉の旨さを味わいつつ食べた。ごちそうさまでした。
2時半から日本社会学会大会(今年の9月に早稲田で開催される)の準備委員会。早稲田大学のあちこちの学部に所属している社会学の教員が集まり、あれこれの仕事の分担を決める。
2時間ほどで終り、その後、教務室で7時頃まで雑用。あゆみブックスで、以下の本を購入。
村上春樹『雑文集』(新潮社)
瀬尾まいこ『おしまいのデート』(集英社)
柴田元幸責任編集『モンキービスネス』12号
村上春樹が読者から、就職試験のときに「原稿用紙4枚で自分自身について説明しないさい」という問題を出されて苦労したが村上さんだったらどうしますかと尋ねられて、自分自身について原稿用紙4枚で書くことは困難であったとしても、牡蠣フライについてなら可能なのではないかと答えている。
「あなたが牡蠣フライについて書くことで、そこにはあなたと牡蠣フライのあいだの相関関係や距離感が、自動的に表現されることになります。それはすなわち、突き詰めていけば、あなた自身について書くことでもあります。それが僕のいわゆる『牡蠣フライ理論』です。今度自分自身について書けと言われたら、ためしに牡蠣フライについて書いてみてください。もちろん牡蠣フライについてじゃなくてもいいんです。メンチカツでも、海老コロッケでもかまいません。トヨタ・カローラでも青山通りでもレオナルド・ディカプリオでも、なんでもいいんです。とりあえず、僕が牡蠣フライが好きなので、そうしただけです。健闘を祈ります。」(22頁)
これはサルトルが『嘔吐』の中で言っていることと同じである。「一番いいのは、その日その日の出来事を書くことだろう」。主体を客体化する(描写する)ことは不可能だが、主体が認識したものについて書くことは間接的に主体について書くことである。まあ、わざわざサルトルを持ち出すまでもなく、われわれが日頃、「文は人なり」と言っているのはそういうことである。だから今日も私は「鈴文」のとんかつについて書くわけである。ちなみになぜ村上春樹は牡蠣フライを例に出したのか。「僕が牡蠣フライが好きなので、そうしただけです。」と彼自身は説明しているが、それは意識レベルの説明で、おそらくは「牡蠣」=「書き」という作家ならではの連想が働いているに違いない。「フライ」は「揚げる」であるから、「牡蠣フライ」=「書き上げる」ということであり、原稿を書き上げたときの満ち足りた気持ちがここには重ねられているのである。
「僕はそれを静かに口に運ぶ。ころもと牡蠣が僕の口に中に入る。かりっとした衣の歯触りと柔らかな牡蠣の歯触りとが、共存すべきテクスチャーとして同時的に感知されると、僕は今幸福であると感じる。僕は牡蠣フライを食べることを求め、そうしてこうして八個の牡蠣フライを口にすることができたのだから。そしてその合間にビールを飲むことだってできるのだ。そんなものは限定された幸福にすぎないじゃないか、とあなたは言うかもしれない。しかし僕がこの前限定されていない幸福に出会ったのはいつだったろう? そしてそれは本当に限定されていなかっただろうか?」(31-32頁)