フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月22日(水) 曇り

2012-02-23 08:40:05 | Weblog

  7時、起床。バタートーストと紅茶の朝食。

  9時半に家を出て、大学へ。10時半からカリキュラム委員会。「たかはし」のお弁当を食べながら、12時半頃まで。

  1時半から本部で総長・理事らとの懇談会。予定の1時間を15分ほどオーバーして終る。

  戸山キャンパスに戻って、夕方まで教務室で雑務。途中、30分ほど「フェニックス」で一服。コーヒーを飲みながら日誌をつける。年配の女性たちのグループと若い女性たち(うちの学生だろう)のグループがいて、それぞれにおしゃべりをしている。男性客もお一人様も私だけ。昼下がりのカフェは女性たちの世界だ。

  6時半に大学を出る。あゆみ書房で以下の書籍を購入。電車の中で読む。

    宇野常寛・濱野智史『希望論 2010年代の文化と社会』(NHKブックス)

    『セオリー』5号(講談社、2011年10月)

  「希望論」というタイトルについて「はじめに」で宇野がこんなことを述べている。「担当編集者からこのタイトルを提案されたとき、僕は強く反対した。/「こんな時代だからあえて希望を」―一九七八年生まれの僕は、思春期をそんな大合唱の中で過ごし、そしていまも同じ大合唱の中で生きている。/(中略)しかし、僕はこの大合唱に参加することは、逆に希望を見失うことになるのではないかと、ずっと思っていた。「希望」の話をしよう、と言わざるを得ないこの空気こそが、亡くしたものの数を数えることしか許されない言論空間を維持している。僕にはそう思えてならなかった。だから「希望論」というタイトルは、嫌で嫌で仕方なかった。まるで、「君たちは絶望的な世界で生きている」という前提でものをとらえ、考え、生きることを強いられているようだ。そんな気がしてならなかったからだ。/だから僕が本書で問いたいのはただひとつだ。それは、果たして現代のこの世界はそこまで「絶望的」なのだろうか、という問いだ。/こんなことを言うと、たぶん多くの人が眉を顰め、そして反感を覚えるだろう。しかし、僕はこの二〇年がそもそも「失われた二〇年」だとは思っていないのだ。もちろん、経済は停滞し、政治は混乱し、目に見えない不安がぼんやりと社会を覆っている。この現実を、僕は否定しない。しかし、単純に考えて僕はあと二〇年はやく生まれていれば良かったとは思えないのだ。」

  宇野の言わんとしていることは、個人化と情報化の進行の中で生まれる両面、社会の流動化と個人の自由の増大、さらにいえば、増大する自由の中に潜んでいる不安感と解放感、そうした正負の両面の中の負の面ばかりを見て(つまり、「君たちは絶望的な世界で生きている」という前提に立って)「希望」の話をするのはおかしいのではないかということだ。傾聴に値する見識だと思う。

  7時半過ぎに帰宅。夕食をすませてから、風呂。ブログの更新をして、録画したおいた『ハングリー!』を観る。『孤独のグルメ』は録画しないで、定時に観る。今回は一人焼肉の話だった。場所は川崎(京急の八丁畷)。川崎は多摩川を挟んで蒲田の隣町だが、どちらの町も焼肉屋が多い。