フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月7日(金) 晴れのち曇り

2014-03-08 12:03:39 | Weblog

     6時、起床。

     マフィン、鶏のササミとポテトのサラダ、味噌スープの朝食。

       散髪に行く。本当は昨日のオンデマンド授業の収録の前に行くべきだったのだが、タイミングを逸したのである。

      散髪を終え、「天義」(てんよし)で昼食をとる。『大田区本』で取り上げられていた店である。本では「創業44年目の老舗天ぷら屋」という表現が使われていたが、「老舗」というのは何代かに渡って受け継がれてきた店のことであるから、いまのご主人が初代の「天義」を「老舗」と呼ぶのは誤用である。「昔からある天ぷら屋」でいいと思う。実際、「天義」は「老舗」という言葉から連想されるような敷居の高い店ではない。このブログにたまに登場する早稲田の「いもや」のような庶民的な店である。

    天丼(800円)を注文。お新香は沢庵と白菜と胡瓜。味噌汁の具は豆腐と葱である。

 

    天丼は天ぷらを天汁にくぐらせるタイプ。食材は海老、キス、小エビのかき揚、春菊、茄子である。

       店はご主人が一人でやっている。とても気さくな方で、私が苦手とする無口でおっかなそうなタイプの人ではない。ちょうど店内のテレビで、大食いの番組をやっていて、客は私だけだったので、ご主人もカウンターのこちら側に出てきて、「いくらなんでもあの量は無理だね」などとおしゃべりをしながら一緒にテレビを観た。

      食後のコーヒーは「phono kafe」で、アプリコットと胡桃のケーキと一緒に。

      蒲田の飲食店の紹介記事をよく書いていらっしゃる方のブログに「phono kafe」が登場していた。記事の内容から先週の木曜日にいらしたようである。たぶんこの記事を読んで来店されるお客さんがこれから増えることだろう。大原さんに教えてさしあげる。さっそくブログを見て、「このプロフィール写真、ご本人ですか?」というので、「そのようですよ」と答える。

     展示されている清水直子さんの陶器の中からさくらんぼの柄のカップを購入する。最初に見たときからいいなと思っていたもので、もう売れちゃったかなと思っていたが、量産品とは違って少々高いから(3500円)、売れずに残っていたのかと思う。ならば遠慮なく私が買わせていただきます。研究室で使おう。

    有隣堂で以下の本を購入し、「ルノアール」で目を通す。

       藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義』(角川書店)

       大理奈穂子ほか『高学歴女性の貧困―女子は学歴で「幸せ」になれるか?』(光文社新書)

       亀山早苗『婚外恋愛』(メディアファクトリー新書)

       藍川京『女流官能小説の書き方』(幻冬舎新書)

 

       場所を「まやんち」に移して、読書を続ける。買った本はとりあえずその場で(その日のうちに)ザット全体に目を通すこと。精読はあとから必要に応じてすればよい。実際には、精読レベルまでいく本は買った本の一部である。何かのときに、「ああ、あんな本があったな」と思い出せればそれでよいのである(ただし、これは資料としての本についての話。文芸作品の場合は別)。

    6時半ごろ、帰宅。今日の夕食は、蟹玉、青椒肉絲、サラダ、ワカメと葱のスープ、ご飯。

       「ごちそうさん」を録画で観る。活男(次男)の戦死の知らせがめ以子の元に届いた。「あまちゃん」では震災で登場人物が死ぬことはなかったので、「ごちそうさん」でもそうなのかと思っていた(願っていた)が、そうはならなかった。しかし、冷静に考えてみると、地震と戦争とは別物である。地震は自然現象だが、戦争は社会現象である。人々がどんなに地震が起きないことを願っても、地震はそれとは無関係に起きるときには起きる。私たちに出来ることは、地震が起きた場合を想定して、被害が最小限になるように備えることである。これに対して、戦争は人間が起こすものである。私たちはそれが起きないようにすることができる。しかし、いったん戦争への流れができてしまうと、それに抗うのがとても難しいことを私たちは過去の経験や知識から知っている。そういう流れが出来てしまう前に、そういう流れを生みだしそうな兆候に対して、私たちは敏感になり、反対していかねばならない。戦争反対はそれが言えるときに言っておかなければならない。もし「ごちそうさん」が主要な登場人物の戦争による死を含まない物語であったとしたら、「ああ、誰も死ななくてよかった」と戦争が天災のようなものになってしまったであろう。活男の戦死の報に接しため以子の姿を見て、戦争は人間が起こすものであり、それ故に、そうならないようにすることのできるものであること、そうならないようにしなければならないものであることに、私たちは改めて思い至るのである。