フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

10月1日(火) 晴れたり曇ったり

2024-10-02 13:13:11 | Weblog

8時15分、起床。

今日から10月。お寺さんからいただいたカレンダーは仏壇の横の壁に掛けて使っている。10月の言葉「同じ月を眺めている」というのは「離れた場所にいても」という意味だろう。肩を並べてお月見をしているわけではなくてね。

ただ、肩を並べてお月見をしていたとしても、「同じ月」を見ているとは言い切れない。それぞれの人の世界の中では頭上の月に対して違う意味付与がされていることがしばしばあるからだ(「きれいな月」「崇高な月」「薄気味悪い月」・・・)。世界の構造(遠近法)と意味は一人一人違う。そんな孤独な人間にとって、「同じ月を眺めている」と思うことは一つの願望なのである。

チーズトースト、目玉焼き、ソーセージ、サラダ、牛乳、珈琲の朝食。いつも「同じ朝食」を食べている、と読者の方は思っていることだろう。でもね・・・少なくとも、目玉の形状はいつも違う。

今朝の朝ドラ。昨日『おにぎり』と書いたけど『おむすび』ですね。西日本の方では「おむすび」が一般的なんでしょうか。もちろん私も「おむすび」という言葉は使うけれど、「おにぎり」の方が「しっかりにぎる」感じ。「にぎりずし」もそうだけど、手に持ったときに崩れてしまうようなものはいけない。

書道部の憧れの(早くも!)先輩が書いていた「青春」という文字。今回の朝ドラのテーマがここに明示されている感じだ。それにしても上手な字だ。絶対、先輩本人が書いたものではないな(笑)。

朝刊にイラストレーターの山藤章二さんの訃報が載っていた。87歳。『週刊朝日』の「ブラック・アングル」(1976~2021)は一世を風靡した連載だった。ご冥福をお祈りします。

書斎に移って、昨日のブログを書く。

今日は現代人間論系の教室会議(対面)がある。午後1時を回った頃、家を出る。

早稲田の1つ前の神楽坂で下車。

 一駅を歩ける秋となりにけり たかじ

いや、一駅歩こうというわけでありません。

駅から出たところにあるカフェ「フォンテーヌ」で昼食を食べるためである。階段を下りていく。

年配の(私より上の)ご夫婦がやっているカフェである。

キャンデーズの写真が飾ってあったりする。昭和レトロを演出しているわけではなく、自然にそうなのだ。ちなみに私はミキちゃん(左側)のファンでした。

ここの特徴の一つは和定食がメニューにあること。三種いずれも800円である。

麦とろ定食(おさしみ付)を注文する。

一番カロリー軽めなものを注文したつもり。

食事を終えて一服しながら明日が締め切りの日曜日の句会の投句を考える。

支払いのとき、店主さんご夫婦に「800円は変わらずなんですね」と言うと、「メニューが手書きなんで、変えるのが面倒なんです」と笑っておられた。半分冗談、半分本音に聞こえた(笑)。ごちそうさまでした。

早稲田に移動。

 十月や本屋一軒店仕舞 たかじ

今日が十月一日なので「十月や」としたが、「文禄堂あゆみブックス」が閉店したのは9月中旬だった。なお、ネットに出した句は句会には出さない。

3時半から現代人間論系のカンファレンス室で教室会議。

助手の櫻本さんがお茶とお菓子を用意してくださった。ありがとうございます。

けっこうなお点前です。こんな論系会議はうちだけだろう。

今日のメインの議題は来年度の時間割の作成。しかしそこに私の担当の授業はない。他の先生の授業に口出しすることもない。なので教室会議は休んでもよかったのだが、他の議題もあるので、出て来たのである。こういうときは大学院の社会学コースの教室会議のようにオンラインの方がありがたい。先生方が「この授業をこちらの曜眼に移動したらどうか」と話している傍らで7階の窓から見える空を眺めていた。「同じ空を眺めている」人はいたかな?

会議は7時過ぎまでかかった。途中で妻に「今日は外で食べて帰るから」とLINEを送った。

蒲田に戻って来て、「松家カレー」に入る。

注文を済ませて、キンドルをテーブルの上に置く。『村上ラヂオ』の2巻目に入っている(全部で3巻ある)。『アンアン』連載だが、第1巻の最初の連載のときからは10年の時間が経っている。私は村上春樹の小説の熱心な読者だが、エッセイについはそれほどではない。なのでこれは再読ではない。第2巻の巻頭の「十年ぶりに戻ってきて」にこんなことが書かれている。村上春樹の小説作法を知ることができて面白い。

 小説を書くときは、小説家は頭の中にたくさんの抽斗を必要とします。ささやかなエピソード、細かい知識、ちょっとした記憶、個人的な世界観(みたいなもの)・・・、小説を書いているとそういうマテリアルがあちこちで役に立ちます。でもそういうあれこれを、エッセイみたいなかたちでほいほい放出してしまうと、小説の中で自由に使えなくなる。だからケチをして(というか)、こそこそと抽斗に隠してしまっておくわけです。でも小説を書き終えると、結局使わずに終わった抽斗がいくつも出てくるし、そのうちのいくつかはエッセイの材料として使えそうだな、ということにもなるわけです。
 僕は本職が小説家であって、エッセイは基本的に「ビール会社が作るウーロン茶」みたいなものだと考えています。でも世の中には「私はビールが苦手で、ウーロン茶しか飲まない」という人もたくさんおられるわけだし、もちろん手を抜くことはできない。いったんウーロン茶を作るからには、日本で一番おいしいウーロン茶を目指して作るというのは、物書きとして当然の気構えです。でもまあ、そう言いながらも、僕としては肩の力を抜いて、わりに気楽にこの一連の文章を書きました。肩の力を抜いて、わりに気楽に読んでいただければなによりです。(「十年ぶりに戻ってきて」より)

私はオンデマンド講義の中のおしゃべりで、ブログに書いているようなことを話すことがあるのだが、レビューシートに「その話、ブログで読みました」と書いてくる学生がいるので、困るのである。「一番搾りのビール」でなくて「二番煎じのお茶」みたいな感じになっちゃいますからね。

鳥肉塩焼きカレー。たぶんほかの店では食べられないメニュー。うまい! 卓上に置かれたラッキョウの容器にラッキョウが1つしか入ってなかったので、店員さんを読んで、補充してもらう。ラッキョウが(福神漬けも)食べ放題というのもこの店の魅力の1つである。

帰宅して、句会の主宰の直美さんに投句のメールを送る。よろしくお願いします。

風呂から出て、今日の日記を付ける。

2時45分、就寝。遅くなってしまった。