フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月23日(月) 曇り

2009-02-24 03:31:02 | Weblog
  午前9時、起床。自家製コロッケパンと紅茶の朝食。来週の金沢行きの前に終らせておかないとならない仕事がいくつかあり、今日は夕方に一度近所のコンビニに飲み物を買いに出かけた以外、ずっと自宅にこもって、簡単な仕事を2件と簡単でない仕事の最初の一歩を終らせる。
  昼食(ラーメン)のとき『おくりびと』のアカデミー外国語映画賞受賞のニュースを知る。日本中が歓喜の声を上げるのは半年前のオリンピック以来だろうか。受賞式のアナウンスで『おくりびと』の英語タイトルが「Departures」であることを知った。死を旅立ちと捉えることは同じでも、見送る側と旅立つ側、重心の置き方が違う。主人公の青年の納棺師としての成長の過程も旅立ちとして認識されている。そう考えると、原題のつつましいニュアンスは失われてしまうけれども、「Departures」というタイトルはポジティブ志向の強いアメリカ人には受けがよいだろう。ライバルとなる作品に重厚なものが多かっただけに、「死」というテーマを扱いながらもエンターテーメント性を備えた作品であることが、プラスに評価されるかマイナスに評価されるか予測が難しかったが、吉と出たわけだ。
  夜、帰宅した娘が、昨日の私のブログを読んで、「自分で自分のことを『インテリ』って書いてる」と言った。自己言及的アイロニーという技法を知らんのかな、この娘は(知っていながらからんでいるのか?)。内田樹は『大人は愉しい』(ちくま文庫)の中でウェブ日記を書くのが好きな理由を次のように説明している。

  「ウェブ日記を書く作業が私にとって楽しい娯楽であるのは、ここで造型されたヴァーチャルな「内田樹」が現実の私よりずっと自由ででたらめな人間であり、そのキャラクターのフィルターを通して、「私の現実」を追体験すると、自分の索漠として散文的な生活が何となく愉快そうなものに思えてくる、という「日常の劇化」という効果があるからです。おそらくその「日常の劇化」、あるいは「セルフ・パロディ」というワンクッションが入るせいで、「非公開の日記」を書くときよりも、私は自分の生活についてかえって嘘をつかずにすんでいるのではないでしょうか。」(16-17頁)

  わかる人にはわかるという話ですけど、みたいな!(キング・オブ・コメディの今野浩喜の口調で←という言い方自体が「知ってる人にしかわからない」みたいな!)。
  ところで、今日、ただ一度だけ外出した近所のコンビニからの帰り道で、西の空の写真を撮っていたら、「大久保先生でいらっしゃいますよね・・・」とご婦人から声をかけられる。私のブログの読者の方である(正確には、私のブログの読者である方のお姉様である)。そのときの私は、ちょっと出るだけだからいいだろうと、髭も剃っていなかった。全然インテリに見えませんから。彼女は今度妹さんと「甘味あらい」に行ってみようと思っているのだが場所がよくわからないとおっしゃるので、見かけのハンディを挽回すべく、できるだけ紳士的な口調で丁寧に説明してさしあげた。

         
                  ブロガーも歩けば読者にあたる

2月22日(日) 晴れ

2009-02-23 03:17:14 | Weblog
  9時半、起床。妻も今日は朝寝坊をしている。娘は芝居の稽古で早くに家を出ている。息子が起きてきて、朝食の支度ができていないので、妻に起きてほしいような素振りをしている。私は息子に「朝食くらい自分でささっと作って食べれば」と蒲団の中から言ってやる。その私は、今日は朝食抜きで11時半まで我慢して、「鈴文」にとんかつを食べに出た。すでに満席状態だったが、奥のテーブルで男女のカップルと、初老の男性の一人客と、相席になる。カップルの男の方がケータイの着信音の設定をあれこれ試しているのだろうか、耳障りだったので、咳払いをひとつしたら、女の方が男に「うるさいから」と注意した。世話女房のタイプらしい。私はそのとき黒革のハーフコートを着ていたのだが、黙然としていると、他人からはしばしばその筋の人間に見られる。話をすれば温和なインテリであることはすぐに理解してもらえるのだが、他人同士というのは普通は話をしないものであるから、どうしても「人は見かけが9割」(8割でしたっけ?)ということで判断されてしまうのである。カップルも初老の男性もとんかつ全体にソースをかけて食べていた。彼らより遅れて食べ始めた私は、いつものように塩→醤油→ソースという私にとっては定番の順序(正しい作法)で食べた。3人は、映画『おくりびと』の納棺師の立ち居振る舞いを見守る者たちのような目で(しかし正視はせず)、私の流儀を見ていた。私はもはや単純にその筋の人間ではなく、もうすこし複雑なバックグラウンドをもった人間として再認識されたようである。
  食後の珈琲は「ルノアール」で。「テラス・ドルチェ」はアーケードのある商店街の中にあり、「シャノアール」は地下にある。だから外光は入らない。今日はいいお天気なので、大きな窓のある「ルノアール」を選んだ。幸い明るい窓際の席が空いていたので、そこで1時間ほど読書をした。となりの席の若い男が『広辞苑』ほどの分厚い本を読んでいる。例の『百年小説』だろうかと思ったが、そうではなく、何かの専門書らしい。私も必要に迫られて分厚い本を電車の中で読むことはあるが、普通は持ち運ぶのが大変だから家で読む。車中や喫茶店での読書はありふれた行為だが、それが『広辞苑』ほどの分厚い本ということになると、話は違ってくる。たんなる「本を読んでいる人」ではなく「あんなに分厚い本を読んでいる人」として認識されるからだ。そしてそのことは本人自身が意識していて、「こんなに分厚い本を読んでいる私」という自己呈示を意図している場合が多いように思われる。清水幾太郎『倫理学ノート』の文庫版(講談社学術文庫)の「解説」で川本隆史が書いているエピソードを思い出す。

  「著者の清水幾太郎を一度だけ目撃したことがある。それは大学院に進んで彼の著作に馴染み始めた一九七〇年代の後半、東京の地下鉄(丸ノ内線)の車内だった。目の前の老紳士が猛烈なスピードで洋書のページを繰っているのに気づいた私は、即座に「清水幾太郎だ!」と直感したものの、声をかけて確認する余裕もなく次の駅で下車した。」(459頁)

  そのとき清水が読んでいた本の厚さはわからないが、「洋書」という点と「猛烈なスピードでベージを繰っている」という2点がポイントである。これはかなり強烈な自己呈示である。私がもしそれをやれば「インテリのヤクザ」として認識してもらえることは間違いないだろう。
  有隣堂で文庫本9冊を購入。硬軟とりまぜた(というよりもほとんど軟)チョイスとなった。レジで「カバーはどういたしましょうか」と訊かれたので、「どの本がどの色という指定はしませんが、それぞれ別の色で」とお願いした(有隣堂は10色の文庫本用カバーを取り揃えている)。店員は「全部違う色でですか」とあっけにとられたような顔をしていたが、全部が同じ色のカバーだったら、区別がつかないではないか。実に合理的なリクエストだと思うのだが、そうではないのだろうか。

  岡崎浩之『使える!悪用禁止の心理学テクニック』(宝島社文庫)*ブラック
  小泉今日子『小泉今日子の半径100メートル』(宝島社文庫)*グレー
  YUO『YUOのこれからこれから』(宝島社文庫) *ベージュ
  岡道祥之『北斗の拳100の謎』(宝島社文庫)*グリーン
  別冊宝島編集部編『図解この仕事の儲かる仕組み』(宝島社文庫)*イエロー
  別冊宝島編集部編『脳力200%活用「究極の勉強法』(宝島文庫)*ダークブルー
  別冊宝島専修部編『仕事がアップする!!「訊く」技術「話す」技術』(宝島文庫)*ライトブルー
  高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』(ちくま文庫)*オレンジ
  内田樹・鈴木晶『大人って愉しい』(ちくま文庫)*ワインレッド
  
         
               それぞれの内容についちはいずれそのうち。

2月21日(土) 晴れ

2009-02-22 02:23:11 | Weblog
  8時半、起床、快晴だが寒い。昨夜はフィールドノートを遅くまで書いていたので(日本アカデミー賞の過去のデータを調べて書いたので)、やや寝不足気味である。鱈子、茄子の味噌汁、ごはんの朝食。あれこれ事務的なメールを書いていたら肩が凝った。昼食はカレーうどん。少し横になってから、自転車に乗って息抜きに出る。

         
                   これが愛車のママチャリ

  呑川沿いの道を池上方面へ走る。土曜日だし、よい天気だし、梅の見頃だから、「甘味あらい」は早々に完売で店仕舞いしているだろうと思ったら、やはりそうだった。池上駅前の「浅野屋」で葛餅と珈琲のセットを注文し、30分ほど読書。普通は1時間くらい居座るのだが、今日はお客さんが順番を待っているので、それは無理。隣の席の男女が映画の話をしていて、女の方は大変な映画好きのようである。思わず本を読んでいる振りをしながら、彼女の感想に耳を傾けた。

         
                浅野屋の創業は宝暦二年(1752年)

  池上線沿いの道を蒲田方面へ走る。今日のテーマは「子ども買い」。「大人買い」の反対語で私が勝手に作った言葉だ。具体的には、食べ物を1個買って、家に持って帰らず、その場で食べることをいう。類語は「買い食い」。子どもなら平気でできるが、分別をわきまえた大人がするには多少の度胸が必要だ。私は社会学者としてのトレーニング(脱常識)の一環としてたまに意図的にこの「子ども買い」をする。けっしてがっついているとか、食いしん坊とかいうのとは違う。夏に路上で「ガリガリ君」を頬張るのもそのためである(知らなかったでしょ?)。今日は、肉屋で揚げたてのコロッケを1個、中村屋で肉まんを1個、「子ども買い」した。少し恥ずかしかったが、むしろ恥ずかしさを感じているということが社会学者として恥ずかしかった。社会学的羞恥心である。

         
       街の風景を撮ることも時として修行である(ネパール料理店の前で)

  TVドラマ『ありふれた奇跡』の毎回のエンディングのシーンの1つに、翔太(加瀬亮)が踏み切りを渡るシーンがある。あれは背景に蒲田の東急プラザ(屋上の観覧車に特徴がある)が見えるので、多摩川線の蒲田駅と隣の矢口の渡し駅の間のどこかであることは間違いない。捜してみてすぐにわかった。この踏み切りである。

         
    正しくは写っている踏切ではなく、私が立っている(写っていない)踏切である

  この辺りは思わずカメラを向けたくなる風景が多い。散歩にカメラは欠かせない。「見る」という行為に意識的になるためのメディアとして。

         
               線路脇のアパート「ユトリロ荘」(嘘です)

         
        この絶妙な配置と配色は「ありふれた奇跡」と呼べないだろうか

         
           佐伯祐三作「KAMATAの居酒屋」(もちろん嘘です)

         
                        廃屋の顔

         
             帰宅、あるいは置き去りにされた帽子の悲しみ

  夜、用事があって安藤先生のご自宅に電話したら奥様が出られて、まだ大学から戻っていないというので、教務室にかけたら本人が出られた。遅くまでお仕事ご苦労様です。

2月20日(金) 雨のち晴れ

2009-02-21 02:43:56 | Weblog
  9時、起床。ソーセージ、トースト、紅茶の朝食。先日、ドイツ-日本研究所(DIJ)の研究員の方からライフスコースの面接調査の方法について問い合わせのお手紙をいただいたので、今日、メールでご返事を書こうとして、どうも文章で書いていると長くなって(時間がかかって)しまいそうなので、面識のない方ではあったが、研究所に電話をして、直接お話をさせていただいた。手紙やメールのやり取りよりも電話での対話の方が能率的なこともある(ただし、これは私が返事をする側だから通用するやり方であって、最初に質問をする側はやはり手紙やメールによるべきだろう)。
  昼食は卵焼き、モツ煮込み、ほうれん草の胡麻和え、ごはん。夕方、雨が上がったので散歩に出る。けっこう日が長くなってきていることを実感する。「テラス・ドルチェ」で1時間ほど読書。

         

         

  今夜は日本アカデミー賞(第33回)の発表があった。主要5賞は以下の通り。

  最優秀作品賞   『おくりびと』(滝田洋二郎監督)
  最優秀主演男優賞 本木雅弘(おくりびと)
  最優秀主演女優賞 木村多江(ぐるりのこと)
  最優秀助演男優賞 山崎努(おくりびと)
  最優秀助演女優賞 余貴美子(おくりびと)

  う~む。『おくりびと』の作品賞は、本家のアカデミー賞の外国映画賞にノミネートされていることでもあり、援護射撃の意味からも妥当と思うが、他の4賞のうちの3賞も占めてしまうのはどうだろう。もう少し分散させた方がいいんじゃなかろうか。ちゃんと審査してないんじゃないかという疑念をもたれてしまう恐れがあるし、会場も『おくりびと』の一人勝ちでは白けてしまうのではなかろうか(唯一、主演女優賞を獲れなかった広末涼子も肩身が狭いだろうし)。以前から日本アカデミー賞にはこういう独占傾向があるように思う。主要5賞全部を独占したのは1997年(第20回)の『Shall we ダンス?』だけだが(最優秀主演女優賞がバレリーナの草刈民世だった・・・)、4賞を占めたのは8作品ある。1978年(第1回)の『幸福の黄色いハンカチ』(山田洋次監督)、1983年(第6回)の『蒲田行進曲』(深作欣二監督)、1987年(第10回)の『火宅の人』(深作欣二監督)、1988年(第11回)の『マルサの女』(伊丹十三監督)、2000年(第23回)の『鉄道員(ぽっぽや)』(降旗康男監督)、2003年(第26回)の『たそがれ清兵衛』(山田洋次監督)、2006年(第29回)の『ALWAYS三丁目の夕日』(山崎貴監督)、そして今回だ。ね、多いでしょ。逆に最優秀作品賞が他の4賞とからまなかったのは、1998年(第21回)の『もののけ姫』と2002年(第25回)の『千と千尋の神隠し』(共に宮崎駿監督)を別にすれば(生身の俳優が出演していないのであるから当然である)、1991年(第14回)の『少年時代』(篠田正浩監督)一作だけ。というわけで、私が今回の審査員だとしたら、次のような配分にしたろうと思う。

  最優秀作品賞  『おくりびと』(滝田洋二郎監督)
  最優秀主演男優賞 堤真一(クライマーズ・ハイ)
  最優秀主演女優賞 木村多江(ぐるりのこと)
  最優秀助演男優賞 山崎努(おくりびと)
  最優秀助演女優賞 松雪泰子(容疑者Xの献身、デトロイト・メタル・シティ)

  最優秀主演男優賞は堤真一か佐藤浩市(ザ・マジックアワー)かで迷うところだが、佐藤は1995年(第18回)の『忠臣蔵外伝四谷怪談』(深作欣二監督)で一度獲っているし、いま公開中の『少年メリケンサック』(宮藤官九郎監督)で来年もノミネートされることは間違いない(?)ので、今回は堤真一。最優秀主演女優賞は木村多江のままでいいです。私、ファンだし。ただし、小泉今日子(グーグーだって猫である、東京ソナタ)がノミネートされなかったのはなぜかという疑問は強く残る。最優秀助演男優賞も山崎努のままでいいです。『おくりびと』の最優秀作品賞は彼の存在を抜きにしてはありえない(ああ、ふぐの白子を焼いて食べたい)。最優秀助演女優賞は松雪泰子か樹木希林(歩いても歩いても)のどちらかだと思うが、樹木は去年(第31回)、最優秀主演女優賞(東京タワー)を獲ったばかりだから、今回は松雪。『容疑者Xの献身』の彼女は実によかった。以上、好き勝手に言わせていただきました。

2月19日(木) 晴れ

2009-02-20 03:02:14 | Weblog
  8時、起床。炒飯とスープの朝食。今日は午前中から教授会があり、大学へ。教授会の前後に、論系の主任としての仕事(新年度の講義要項の最終チェックと非常勤講師の嘱・解任の最終申請)を済ませる。どうにか滑り込みセーフ。
  昼食は「たかはし」の刺身定食。教員ロビーの自販機の紙コップの珈琲を飲みながら表象・メディア論系主任の千葉先生と雑談。表象・メディア論系では学生(2年生)有志が企画して今月の8日、9日に伊豆川奈のセミナーハウスで合宿を行ったそうだ。学生たちが企画したというところがいい。教員の指示で動くのが「生徒」、自分たちで考えて動くのが「学生」である。
  大学からの帰り、銀座に寄る。二丁目の交差点付近には外国の有名ブランド店が集まっているが、伊東屋に行く途中で「ブルガリ」のウィンドウをのぞいたら、素敵なネックレスが飾られていた。妻へのプレゼント(ホワイトデー)にどうかと思ったが、値札を見たら少々値が張る(最初見たとき「リラ」かと思った)。クレジットカードで払えない金額ではないが、妻は高額のプレゼントをしても決して喜ばないということを私は知っている。「していくところがないから」というのが彼女の口癖である。夫に散財をさせまいとする心遣いにあふれた言葉だ。「玉屋」でまた苺豆大福を買って帰ることにしよう。

         

  文具のメッカ伊東屋の9階には喫茶室がある。ポットに入ってカップで3杯は飲める美味しいアールグレイ(ミルクティー)が550円である。銀座の穴場といってよい場所である。同じフロアーではいま「イラストレーション2009 ザ・チョイス大賞展」が開催中である。雑誌『イラストレーション』が毎号やっているコンペの集大成である。受賞作にはそれを選んだ審査員のコメントが付いているのだが、それがとてもためになる。イラストレーションの見方が変わるといってもいいくらいためになる。来週の月曜が最終日だから、関心のある方は急いだほうがよい。
  丸の内東映で宮藤官九郎監督・脚本の『少年メリケンサック』を観る。館内は空いていたが、なぜか、私の座ったJ列の席だけ端から端までぎっしり埋まっていた。受付のお姉さんが勧めてくれた席だったのだが、きっと館内の清掃が楽なようにとの陰謀ではないかと思う。作品はまさにクドカン・ワールドで、物語そのものよりもクドカンらしさを楽しむ映画であるが、50歳の男というのはあんなに冴えないイメージなのかと思うと、素直には笑えなかった。苦笑というやつである。宮崎あおいは絶好調であった。

         

  有楽町の駅前はずいぶん変わってしまったが、果物屋のある一画だけが、昭和30年代のまま残っていて、まるで映画のセットのようである。