8時、起床。穏やかな曇り日。寒くはない。ブログの更新をしてから朝食。茄子とベーコンの煮物、ジャガイモと若布の味噌汁、炊き込みご飯。
午前中は11月末が締め切りの原稿の執筆。日本社会学会大会でのシンポジウムの発表原稿に加筆して50枚程度のものに仕上げる予定。すでに3分の2は出来ているので、この週末と次の週末を使えば書きあがるはずである(たぶん)。
午後、散歩に出る。少しばかり雨がぱらついてきたので傘を持って出たが、結局、使うことはなかった。「甘味あらい」へ行く。カウンター席で栗あんみつ(あんはつぶあんで、白玉を追加)を食べていたら、後から入ってきたお客さんに「大久保先生ですよね」と声をかけられる。慶応大学のA先生だった。区民会議、学会大会と続いて、「甘味あらい」でも一緒になるとはびっくりである。奥様と娘さんがご一緒で、紹介される。ご家族で散歩がてらときどき来店されるとのこと。いままで遭遇しなかったのが不思議かもしれない。池上や蒲田周辺の美味しいお店について情報交換する。奥様があんみつに入ってる求肥が美味しいと感想をもらされたので、なぜ栗あんみつには求肥が入っていないのかをご主人に尋ねたところ、求肥には桃の香りをつけているので、秋の味覚で統一している栗あんみつの調和が乱れるからという答えに感嘆する。そこまで考えて作られていたとは・・・。
「甘味あらい」ではあんみつの餡はつぶあんとこしあんをチョイスできる。A先生のご一家は、奥様と娘さんがつぶあん派で先生がどちらでも派である。私も実はどちらでも派(その日の気分で決める)なのだが、世の中全体を見渡すとつぶあん派を名乗る人たちが多い気がする。たとえば、うちの妻がそうだし、妻の後に引き合いに出すのもどうかと思うが、柴田元幸さんがそうである。先週、古本の大黒で購入した『想い出のカフェ』には柴田さんの「甘味喫茶について」という文章が載っているのだが、ここにはこんなことが書かれている。
「甘味喫茶で唯一困るのは、あんみつのあんが、つぶあんでなくこしあんであることが多いことだ。しかも、つぶあんとこしあんの違いに関して甘味喫茶関係者はしばしば無自覚である。「あんみつのあんはつぶあんですか、こしあんですか」と尋ねると、まるで「おたくのトイレットペーパーはシングルですか、二枚重ねですか」とでも訊いたみたいな顔をされことがある。」(182-183頁)
どうも、つぶあん派=本格派、こしあん派=邪道みたいな感じである。う~ん、私はどっちもそれぞれ好きなんですけどね。思うに元気なときはつぶあんの気分で、少しばかり疲れているときはこしあんの気分になるような気がする。
「甘味あらい」を出て、そのまま「薫風」に入る。おまかせ9種盛りというのを注文する。いろいろなものがちょっとずつ食べられるヘルシーなミニ懐石である。1つ1つに能書きがあったように思うが、忘れてしまった。
食後の珈琲を飲みながら、渡部昇一『知的余生の方法』(新潮新書)を読む。34年前のベストセラー『知的生活の方法』(講談社現代新書)の姉妹編というかシニア編である。教えられるところ、共感できるところはところどころあったものの、総じて文章が冗長なのは、著者の加齢のせいなのか、あるいは編集者相手に話した内容を文章化したものだからであろうか(そうは書いていないが、文章の調子が「語りおろし」風な印象を受けた)。
古本の大黒をのぞいたらいつものご主人がいたので安心する。詩人の伊藤信吉の遺作である『室生犀星 戦争の詩人・避戦の作家』(集英社)を見つけて購入する。
自宅にいったん戻ってから、ジムへ行く。筋トレ2セットと有酸素運動35分。トレーニングの終った後はゆったりした気分になる。肉体の疲労が神経の過敏さを和らげるためだと思う。筋肉の増強(基礎代謝のアップ)、体脂肪の燃焼、そしてこの鎮静作用がトレーニングの3大効果である。
くまざわ書店に寄って、以下の本を購入。
森於莬『耄碌寸前』(みすず書房「大人の本棚」シリーズ)
村山斉『宇宙は何でできているのか』(幻冬舎新書)
南後由和・加藤卓編『文化人とは何か』(東京書籍)
腕時計の電池が切れたので、街の時計店で電池交換をしてもらう。私は腕時計の電池交換を小さな楽しみにしている。時計屋さんが必ずといっていいほど私の時計を誉めてくれるからだ。セイコーのクレドールというブランドなのだが、「これはいい時計ですね」と言われることが多い。25年ほど前に婚約者からプレゼントされた(指輪のお返し)時計である。今日の時計職人さんは女性だったが、私が腕から外して渡した時計を見て、「あら、すごい・・・」と独り言のように言った。