フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

5月20日(日) 晴れ

2012-05-21 02:31:00 | Weblog

  9時、起床。カレー、トースト、オレンジジュースの朝食。

  千鳥町の島忠ホームセンターへ息子と二人、自転車で出かける。玄関先に飾る花を買うためである。3月の母の誕生日に購入したシクラメンがとても長生きでいまでも花をつけているのだが、さすがにもう季節外れなので、新しい花と入れ替えることにした。ダリアと百日草を購入。

  午後、散歩に出る。チネチッタ川崎で上映中のアキ・カウリスマキ監督の新作『ル・アーヴルの靴みがき』を観に行く。

   先に座席の予約をすませてから、昼食をとりに出る。「大新別館」という中華料理店に入る。客が一人もいなかったので(奥の席に一組いたのだが入口からは見えなかったのだ)、店選びを失敗したかと思ったが、店のおばあさんと目があってしまったので、ラーメンと半炒飯のセット(750円)を注文した。けれんみのない味である。ラーメンというものはこういうもので、炒飯というのはこういうものだ、という私が子供の頃に形成した味覚のストライクゾーンにスポッと入る味であった。ラーメン、炒飯、餃子の旨い中華料理店は何を注文しても旨いというのが私の経験知である。焼き餃子(400円)を追加で注文。やはり餃子とはこういうものだというイメージ通りの味であった。中華検定合格である。今度来たときは今日食べた中華三大基本料理以外のものを注文してみよう。

  食後のコーヒーは「ルノアール」で、高橋源一郎『さよなら クリストファー・ロビン』の中の「星降る夜に」を読みながら。

  長いこと女に食わせてもらってきた作家志望の男が、女から三行半をつきつけられそうになり、ハローワークに通って職探しを始める。しかし、このご時勢、「大学卒。四十歳。賞罰なし。資格なし。職歴なし。特技、小説執筆」と求職申込書に書いて、「なに、あんた、これ、冷やかし? マジメにやんなよ」と窓口の係員に言われてしまうような男に簡単に職など見つかるはずもない。三ヶ月が経過して、窓口の男も彼が冷やかしでないことは理解した。そして「小説の人」―窓口の男は彼のことをそう呼ぶようになった―にある仕事を紹介する。それは海のそばにある子供の専門病院で患者に本を朗読してやる仕事だった。・・・・

  本筋とは関係ないが、私は大学院のオーバードクターの頃の自分を思い出した。もし大学に職を得られなかったら、自分は何になっていただろう。

  上映時刻が近づいたのでチネチッタに戻る。

  『ル・アーブルの靴みがき』は、フランスの港町(ル・アーヴル)を舞台にした人情劇。妻と愛犬と暮らす靴みがきの男が主人公。生活は楽ではないが、男は自分の人生に満足していた。ある日、妻が病気で入院する。重い病気だが、妻はそのことを夫に隠す。そんなとき、密入国の黒人の少年が警察の手を逃れて彼の前に現われる。男は少年をかくまい、ロンドンで働いているという少年の母親に会わせてやろうと仲間と相談して資金作りのためのコンサートを開催する。・・・悪人というほどの悪人は登場しない。美男美女も登場しない。とくに主人公の妻は、とても女優さんとは思えない。一般人の水準から見ても不美人の部類に入ると思う。しかし、そんな登場人物たちの関係はうらやましいほどに気持ちが通い合っている。こんな街の住人に自分もなりたいと誰もが思うだろう。

  映画が終って、崎陽軒の焼売と、ドーナツ(ミスタードーナツ)と花を買って帰宅した。焼売は夕食のおかず(一品追加)、ドーナツは食後の甘味、そして花は妻へのプレゼント。妻が「何の日の?」と聞いた。「とくに何の日でもない。何でもない一日だけど、君への感謝の気持ち」と答える。無論、妻は喜んでくれた。『ル・アーヴルの靴みがき』はそんなことをしてみたくなる映画なのである。


5月19日(土) 晴れ

2012-05-20 04:35:01 | Weblog

   9時、起床。ベーコン&エッグ、パン、牛乳、メロンの朝食。

  今日は土曜当番。午前中から教務室に詰める。いい天気だ。窓を開けて(網戸にして)、さわやかな空気を入れる。・・・そんなことをツイッターで呟いたら、長谷先生から、「ブログの更新忘れてませんか?」と返信があった。忘れていたわけではないのだが、まだである。草稿にちょっと手を入れて、アップする。ほどなくして長谷先生から「長編力作ありがとうございました。私は自分が誰かの夢の登場人物ではないかという妄想に苦しみました」と返信があった。 

  昼食は「五郎八」に食べに行く。揚げ餅そば。食べ終わる頃、女将さんが「お稲荷さん、めしあがります?」というので、ありがたく頂戴する。

  店を出て、横断歩道を渡ると、八百屋の店先に西瓜が出ていた。夏が近づいていることを確信する。

  生協戸山店で、高橋源一郎『さよなら クリストファー・ロビン』(新潮社)を購入。レジにもっていたら、店員のTさんがやってきて、今度学芸大学の生協に異動することになりましたと挨拶をされる。Tさんとは中原淳一つながりである。新しい職場でも元気でやってください。

  自販機でジュースを買って、36号館前の椅子に座って、『さよなら クリストファー・ロビン』の冒頭の一篇(表題作)を読む。

  「ずっとむかし、ぼくたちはみんな、誰かが書いたお話の中に住んでいて、ほんとうは存在しないのだ、といううわさが流れた。」(5頁)

  名作『さようなら、ギャングたち』を連想させる、いかにも高橋源一郎の作品らしい始まりである。そして長谷先生のツイッターの返信に通じるものがある。実際、作品の登場人物たちはみんな童話の主人公たちなのである。たとえば、浦島太郎とか。

  「その老いさらばえた元漁師は、杖をつき、毎朝、海亀を求めて、湿った砂浜を歩いていた。だが、そのさびれた岸に流れ着くのは、奇妙な文字が印刷されたラベルの瓶や、夥しいプラスチックの屑ばかりだった。そこには、いまや、海亀どころか、生きものの影すら見えなかった。もちろん海亀をつつき回す少年などひとりもいなかった。
  その元漁師は、天に向かって、杖を振り、「煙が空に消え去ったとき、その煙と共に、若さも故郷も失ってしまったが、わたしは少しも後悔などしていない。どれも、なされねばならぬことばかりだったのだから」と叫んだ。だが、元漁師に応えるものはどこにもいなかった。
  それからも、なおしばらく、元漁師が、ぶつぶつとなにかを呟きながら、脂じみた一枚の布のような服のすそを風にはためかせて、砂浜をうろつき回る姿が見られた。そして、ある朝、海に向かう、乱れた長いふたつの足跡と杖跡を残して、元漁師の姿は忽然と消えたのだ。
  あるものは、その漁師は幸運にもまた海亀と出会い懐かしい海の底へと戻っていっただといった。また、あるものは、確かにその元漁師は、海亀は見たには違いないが、それは老いた脳裏に浮かんだ幻であって、その幻を追いかけて、海へ入っていったのだといった。けれど、別のものたちは、小声で、やはりあのうわさは真実で、元漁師は誰かのお話の中の登場人物であり、彼の出番がなくなったので消え去ったのだといった。そして、そんなうわさを口にしたものは、例外なく、では自分はどうなのだと思い返し、胸の奥に冷たいなにかを感じて、すぐに口をつぐんでしまうのだった。」(6頁)

  そう、「さよなら クリストファー・ロビン」は「消え行く物語の物語」なのである。クリストファー・ロビンとは『くまのプーさん』に登場する5歳の少年で、プーさんと名付けられたテディベアの持ち主である。その少年に「さよなら」と言っているのは、もちろんプーさんである。

  「ねえ、クリストファー・ロビン。
   それでも、ぼくたちは、頑張ったよね。
   世界がどんどん「虚無」に侵されてゆく、とわかってからも、ぼくたちは絶望なんかしなかった。なぜって、それと戦う方法を見つけたやつがいたからだ。うわさを逆に利用することにしたんだ。
   「おれたちが、誰かさんが書いたお話の中の住人にすぎないのだとしたら、おれたちのお話を、おれたち自身で作ればいいだけの話さ」とそいつはいった。そして、ひとつお話を書いて、寝ることにした。そしたら、次の日には、そのお話通りのことが起こったんだ!
   ワオッ!
   あの頃、ぼくたちは、希望に満ちていた。「外」には、「虚無」が押し寄せているというのに、元気一杯だった。」(20-21頁)

  「最後に残ったのは、クリストファー・ロビン、きみとぼくだけだった。だから、ぼくときみは、力を合わせて、ふたりだけのお話を作り続けた。大好きだったものはほとんど消えてしまったけれど、ぼくたちは、手を携えて、この小屋に立てこもり、ドアのすぐ外にまで押し寄せてきた「虚無」と戦ったんだ。
  けれど、クリストファー・ロビン、きみも、ついに敗れ去る日が来た。
  楽しいお話をして、それぞれのベッドに戻ろうとした時だった。クリストファー・ロビン、きみはぼくにいったね。
  「ねえ、プー」
  「なんだい、クリストファー・ロビン」
  「ぼくは、きみのことが大好きだ」
  「ぼくもだよ、クリストファー・ロビン」
  「プー。ぼく、もう、疲れちゃった」
  「そうだね。きみは、ずいぶん頑張ったから」 
  「だから、プー。ぼくは、今日、なにも書かずに眠ろうと思うんだ。それは、いけないことだろうか」
  「クリストフォー・ロビン、きみが、そうしたいなら、そうすればいい。ぼくたちは、そんな風に生きてきたじゃないか」
  「ありがとう。そして、ごめんね。ずっと一緒にいられなくて」
  「いいんだ。いままで、ずっと一緒だったから」
  [さようなら、プー」
  「さようなら、クリストファー・ロビン」」(23-24頁) 

  注釈をつけておくと、これは作品の最後の部分ではない。もう少し話は続くのだ。

  

  大学を6時に出て、7時、帰宅。

  一週間の疲れが出たのだろう、10時頃に眠くなり、ブログの更新はせずに寝た。

  真夜中に目が醒めて、PCのスイッチを切っていなかったことを思い出し、書斎に行く。PCの画面にはツイッターのタイムラインが映し出されていた。私のゼミの卒業生の一人が、「助けて」と呟いていた。彼女は自分がなんで泣いているのかわからないようである。ゼミの仲間が二人、彼女に返信を書いていた。彼女は、今度話すね、かなりくだならに話だけどと、少しばかり元気を取戻した様子だった。

  やはりブログの更新をしてから寝ることにした。「フィールドノート」は私とよく似た人物を主人公にしたお話である。

  クリストファー・ロビン、君がやめてしまったお話作りを、私はもうしばらく続けてみることにするよ。


5月18日(金) 晴れ一時雨

2012-05-19 13:09:50 | Weblog

  9時、起床。ブロッコリーと茄子の炒め、鶏の唐揚げ、ポテトサラダ、トースト、アイスミルクティの朝食。

  昼から大学へ。1時15分んから本部で教務主任検討会。

  会議を終えて、本部キャンパスでやっていた早稲田青空古本市をのぞく。平岡敏夫『〈夕暮れ〉の文学史』(おうふつ、2004)という本を購入。4800円→2000円。

  「〈夕暮れ〉に興味を持ちはじめたのは、芥川龍之介の小説が「或日の暮方の事である」(『羅生門』)、「或曇つた冬の日暮れである」(『蜜柑』)のように、「暮方」「日暮」からはじまるものが多いということに気づいて以来だった。芥川こそは〈夕暮れ〉の魅力、方法に自覚的な作家だと思うようになった。」(あとがき) 

  教務部に寄って、来週末の高知出張のチケットを受け取る。往きはJR、還りはJALにした。

  大隈会館の「楠亭」で昼食をとる。ロース焼肉定食(1000円)を注文したのだが、運ばれてきたものを見て、肉片のあまりの小ささに思わず「えっ?」と言いそうになった。これで茶碗に大盛のご飯を食べきることができるのだろうかと思った。実際、肉だけをおかずにしたのでは無理だったと思うが、味噌汁と焼肉のつけだれをおかずに(たれをご飯にかけて)食べ切った。 

  5時から再び本部キャンパスで別の会議。会議の前にポータルオフィスによって研究室で使っている貸与PCの修理をお願いする。親切な対応に感謝。

  5時からの会議は1時間ほどで終るものと思っていたが、2時間かかった。途中で4年ゼミ長のM君に電話をして、先にグループ発表を始めていてくれるように指示する。

  教室に行くと、発表はもうおわってしまっているかもしれないとの予想に反して、まだ続いていた。それも3人組の報告のまだ2人目だ。けっこう長めの報告である。テーマは「若者とナショナリズム」。   


本日のスイーツは3年ゼミ長のN君が調達してきたミルフィーユ

  7限は学年に分かれてのゼミ。私は3年生の方に出る。M君とSさんのブックレビュー。「生きづらさ」ということがキーワードとして出てきたので、みんなはいま生きづらさを感じて日々を送っているのかと尋ねたら。そうでもないようである。もっともいきなり教室でこういう質問をして、正直に「はい、生きづらさを感じています」と答えるとも思えないので、私が子供のときに感じていた生きづらさについて話をした。
  それは2つのエピソードから成っている。1つは、小学生のある日、私は自分もいつか死ぬのだということに気づいてしまったこと。もちろんそれ以前に死ということについては知っていた。同居していた祖父の死も祖母の死も経験していたし、縁日で買ったひよこや拾ってきた子猫の死も経験していた。生物は死ぬ。しかしその中になぜか自分という人間は入っていなかった。自分を不老不死の人間と考えていたわけではない。自分もいつか死ぬということを知らなかったわけではないけれど、そのことを真剣に考えたことはなかったというのが正確だろう。ある日、どういうわけか、そのことを真剣に考えてしまったのである。ショックであった。その日の夜、私は布団の中で泣いた。田山花袋の小説『蒲団』の主人公のようにめそめそと泣いた。母がそれに気づいて、なぜ泣いているのかと尋ねた。死ぬのが悲しいのだと正直に答えると、親をからかうのかと叱られた。泣きっ面に蜂とはこのことである。
  もう1つのエピソードは、やはり小学生の頃のことで、私は自分の周りの人間はみな演技をして自分をだましているのだと考えていたこと。親は親のふりをしているが本当は親ではなく、隣のおばさんも隣のおばさんのふりをしているが本当は隣のおばさんではなく、魚屋さんも魚屋さんのふりをしているが本当は魚屋さんではないのだと。いや、周りの人だけでなく、TVの画面をとしてみる有名人たちも、野球選手や歌手や政治家のふりをしているだけで本当はそうではないのだと。私が見ていないとき、彼らは休憩している。だから私は彼らを出し抜いてやろうと、道で突然後ろを振り向いてみたり、眠ったふりをしていて突然目を開いてみたり、鏡を使って背後を見たりしてみた。しかし彼らはそんな私の作戦などお見通しでちゃんと演技を続けていた。大人になってから、ジム・キャリー主演の映画『トゥルーマンショー』を観たとき、私はそこに私が子供の頃に考えていた世界の仕掛けが描かれているのをみて驚いたものである。
  私の話を聞いた多くの学生は笑っていた。変わった子どもだったんですねという顔をしていた。しかし、数人の学生は「実は、私もそうでした」と心の奥の秘密を打ち明けるように言った。いままで誰にも言えなかった、あるいは言ったけど相手にしたもらえなかったことが、「君だけじゃない」と言われたのだから、感慨もひとしおであったろう。私の話したエピソードはピアジェの言葉を借用すれば子供に特有の自己中心的思考の一形態(いくらか病理的な)である。
  ゼミの後、次回のグループ発表の担当班が私のところに相談にきた。その3人グループのうち2人は私のエピソードに共感した学生であった。他の1人に向かって「君だけ仲間外れだな」というと、彼は「そ、そんな・・・」と困惑の表情を浮かべた。こうして彼もまた生きづらさを感じることになるのである。

  夕食は牛丼の梯子をした。昼食の恨みを晴らすためであった。

  一軒目は、最近早稲田の地下鉄の駅のそばにできた「東京チカラめし」の焼き牛丼。牛肉を炙っているのが特徴である。そしてなかなかのボリュームである。通常は320円だがいまだけ280円で食べられる。味噌汁はついてくる。ただし薄い。生卵とお新香を別注して合計420円なり。

  二軒目は蒲田の「吉野家」の牛丼。牛丼といえば吉野家であるが、新興勢力に押されて苦戦状態にあるようだ。つゆ多めの注文で、トン汁を別注。トン汁は100円出す価値がある。肉は「東京チカラめし」の後だと少ない(薄い)なと感じる。生卵と一緒のほうがよい(今回はカロリーを考えて頼まなかったが)。無料の紅ショウガは吉野家のえらいところである。会計のとき、店員さんに、「ご飯の量はそのままで、肉だけ増量してもらいたいときはどう注文したらいいの?」と尋ねたら、「そのとおりに言ったいただければ大丈夫だと思います」と答えたので、「その場合、値段はいくら?」と重ねた尋ねたら、どうも新米の店員さんだったようで、「値段は同じだと思います」と答えた。それはありえないだろう。わざわざ店長を呼び出して尋ねるほどのことではないので、そのまま店を出たが、「大盛。でも、ごはんは少な目で」とかいうのかな。  


5月17日(木) 晴れ

2012-05-18 10:12:47 | Weblog

  8時、起床。ハム、チーズ、バター、キャベツ、リンゴジュース、紅茶の朝食。

  昼から大学へ。昨日は会議漬けの一日だったが、今日は学生相手の一日になる。

  昼食は「たかはし」の刺身(初鰹)定食。

  3限は大学院の演習。

  4限はゼミ3年生のグループ発表の事前相談。

  5限は必修基礎演習のグループ発表の事前相談。

  6限は講義「日常生活の社会学」。いつもは講義資料(パワポのスライド)を前夜にコースナビにアップしておくのだが、今回はそれを忘れてしまった。アップしたつもりでアップしていなかったのだ。5限の頃に学生から問い合わせのメールが来て、そのことに気づき、すぐにアップしたが、ダウンロードできずに教室に来た学生が多かった。しかし考えてみると、事前にパワポのスライドをアップしておくことがよいかどうかは微妙なところがある。そこには授業の展開が示されているわけで、いってみれば、映画を見る前に売店でプログラムを購入してそこに書かれているストーリーを読むようなもので、いわゆる「ネタバレ」になってしまう。授業中に私がある問いを発しても、学生は自分の頭で考える前に、手元の資料をめくればそこに答えが書いてあるわけだ。授業の展開があらかじめわかってしまっていると、「この先議論はどう展開していくのだろう」という面白さは失われる。それでも資料を事前にアップするのは、学生が授業を受けながら、そこに書き込み(私が授業中に話したことや、学生自身が考えたこと)ができるようにするためである。スライドだけで資料を見せると、それを全部ノートにとろうとする学生がけっこういる。それは大変だし、ノートをとる作業に気をとられて、私の話が耳に入っていないということもある。一長一短だが、最近は、授業中に映すスライドとコースナビに事前にアップしておくスライドを多少変えて、答えの部分のスライドは事前にアップする資料からは外すとかの工夫をしている。ほかにもあれこれ試行錯誤をしているところである。

  4つ連続(午後1時から7時45分まで)はさすがに疲れた。長時間の会議は気分的に疲れ、長時間の授業は頭が疲れる。連続の授業は3つが限度のように思う。

  8時過ぎに大学を出る。夕食は蒲田の「満月」で、天ざるを食べる。

  10時、帰宅。風呂を浴びてから『37歳で医者になった僕』の第6話(録画)を観る。紺野先生が医者になった理由が明らかになる。『ハゲタカ』の鷲津が銀行マンを辞めたときのエピソードと同じだ。

  


5月16日(水) 晴れ

2012-05-17 07:35:31 | Weblog

  8時、起床。肉じゃが(のじゃが抜き)、トースト、牛乳の朝食。

  妻が「梅ちゃん先生」を見て「サザエさんみたいな話ね」と言った。面白い見方である。どちらも大家族の物語だが、「サザエさん」が時代がよくわからない、現代のようで現代でない、つまり社会の変動を感じさせない話であるのに対して、「梅ちゃん先生」は戦後日本の復興期を描いている。背景には大きな社会変動がある。にもかかわらず「サザエさんみたいな話ね」という感想が語られるということは、そうした大きな社会変動の最中にあっても、変らない家族の物語に焦点がおかれている(という印象を与えている)ということである。小さな波風は立ち、波紋は拡がるが、それは短期間のうちに収まって、あいかわらずの家族の風景が回復する。いや、小さな事件が起こってバタバタするということ自体がその家族の日常の幸福な風景の本質なのである。

  9時に家を出て大学へ。今日は会議日なり。

  10時から教務部長、国際部長らとの懇談会。

  会議と次の会議の合間にメールの処理。

  12時から大学院の社会学コース会議。会議の直前にゼミ生からメールが入る。会って相談したいことがあるという。緊急の用件だろうか。しかし今日は時間がない。とりあえずメールで相談内容を送ってもらうと、拍子抜けするほどどうってことのない話であった(しかし本人には緊急事態なのだろう)。メールのやりとりで話はすんだ。

  1時から文化構想学部運営主任懇談会。

  2時から運営主任会。

  4時半から基本構想委員会。また会議の直前にさきほどとは別のゼミ生からメールが入る。今日先生は大学にいらっしゃいますか、相談したいことがあるのですが、というメール。ゼミ論の相談のようである。これから会議が始まるので、その後であればと返信する。

  6時半から研究室でゼミ生のOさんのゼミ論相談を30分ほど。文化的資本の再生産の話。

  夕食を「maruharu」にとりにいく。長い一日だった。やれやれという気分。明日の授業の準備がなければビールを飲みたいところだが、イチゴのムースにしておく。

  本日のmaruharu定食。エビと野菜のパセリソース炒め、オニオンスープ、トマトとアボカドとレタスのサラダ、ライスはパンに換えてもらう。

  9時、帰宅。風呂を浴びてから、『リーガル・ハイ』第5話(録画)を観る。田中角栄を髣髴とさせる政治家の収賄事件。えっ?この控訴審の弁護を引き受けて逆転無罪を勝ち取るのか?(事件の真相はあからかでその政治家の黒は明白)。しかし、さすがにそういう展開にはならなかった。

  それから明日の授業の仕度をして、寝る。私は寝つきはすこぶるいい。たいてい5分で気を失う。気になることがあって眠れないということはめったにない。ただし気になることがあるときは、早く目が醒めてしまう。寝つきにではなく、眠りの深さに影響が出るのだ。