文化逍遥。

良質な文化の紹介。

演芸資料展示室

2016年07月11日 | 落語
 7/9(土)、久々に三宅坂の国立劇場に行ってきた。
 国立劇場は、主に歌舞伎などの大掛かりな公演が行われる大劇場、文楽や演奏会などが行われる小劇場、さらに落語など演芸口演の演芸場と三つの会場に分かれている。この日は、小劇場での『日本音楽の光彩Ⅱ』という現代邦楽の演奏会を聴きに行ったのだが、時間があったので演芸場に併設されている演芸資料展示室に寄った。入場は無料。



 現在展示されているのは、二代目の桂小南師が描いた寄席の水彩画十数点と、昔の寄席のポスター・番組表・パンフレットなど。10坪くらいの狭い展示場だが、演芸好きには結構楽しめて、「へぇ~」と思わせる展示も多く、演芸場に行った時にはいつも寄るようにしている。
 小南師匠の落語は、わたしも何度か寄席で聴いたが、関東の落語家があまりやらない珍しい噺を聴かせてくれる芸の幅が広い人だった。展示されている絵を見ると、寄席や落語に対する深い愛情を感じる。師は、1996年に76歳で亡くなった。

 この後に行った、現代邦楽の演奏会についてはページを改めて書くことにしよう。

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柳家喜多八師匠を悼んで

2016年06月28日 | 落語
 先月、5月17日、柳家喜多八師匠が亡くなった。66歳だった。
いつ頃のことだったか確かな記憶は無いが、かなり以前に国立演芸場で高座に接したことがあった。けっして派手さは無いが、飄々とした中におかしみを含み、独特の味わいのある噺家さんだった。これを落語の符牒で「フラ」というが、持って生まれたもので、これだけは真似が出来ない。ある意味、代え難い噺家さんだった。最近は、若い人たちに落語の人気が出てきて、演芸場などでは開場前に列が出来ることもあるらしい。スマートフォンにイヤホンをつないで音楽などを聞くのが普通になった時代。落語に限らず、生の良さが再認識されるのは良いことと思う。

 喜多八師匠は小三治師匠のお弟子さんということだが、次代を担うべき弟子に先立たれた師匠の気持ちも察して余りある。ご冥福をお祈りしたい。

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柳家小三治独演会

2016年06月01日 | 落語
 5/31(火)夜、JR津田沼駅前にある習志野文化ホールで柳家小三治師匠の独演会を聴いた。

 昨年暮れにも友人の招待で四街道で聴いたが、今回も同じくご馳走になってしまった。なんという贅沢。ただただ感謝。
習志野文化ホールは今回初めて訪れた。駅からすぐの所だし、1400余りの座席を持つきれいなホールだった。特に、パイプオルガンが据え付けられているのには驚いた。聞くところによると、パイプオルガンは維持管理にかなりな経費が掛かるという。なので、きちんとした整備でいつでも演奏可能な状態にしておくことは簡単ではないらしい。

 それはそれとして、今回の演題は『時そば』と『転宅』。どちらも良い出来だったが、さすがに長演はきつそうだった。ファンとしてはいつまでも元気に口演を続けてもらいたいが、持病もあるとのことでお体も大切にしてもらいたい。今回、休憩の後に出た(落語の符牒で「食いつき」というらしい)三味線端唄の「柳家そのじ」という人が良かった。普段は下座さんを勤めているというが、声もいいし、三味線も音程がしっかりしていて巧み。すこし調べてみたら芸大の邦楽科出身とのこと。寄席の客席からは見えない所で普段演奏していて、裏方にしておくのは惜しい人だ。

おまけの写真。暮れなずむ津田沼の街をホールの前の広場から携帯で撮影。歩道橋の奥がJR津田沼駅。写真より実際は暗かったので、少しブレ気味。

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江戸家猫八師匠を悼んで

2016年04月09日 | 落語
 3月21日、四代目江戸家猫八師匠が亡くなった。66歳だった。
実父である三代目より受け継いだ動物の鳴き真似の芸で、寄席には無くてはならない人だった。関東の寄席のプログラムは、落語家の名前が黒字で書かれ、その他の芸人は朱色で書かれる風習がある。それゆえ、落語以外は「色もの」と言われ、落語の引き立て役のように扱われることもある。つまりは、落語が本芸でその他は一段低く見られるようなことも関東の寄席の世界ではあるようだ。実際私も、寄席で最後に出演するいわゆる「トリ」を取ったのを落語以外で見たことがあるのは、国立演芸場の名人会で内海桂子・好恵師匠の漫才だけだ。ちなみに、「トリ」と言うのは、昔の寄席では最後の主演者がその日の出演料を一度全て「取り」、その後に他の出演者に適当に配ったことに由来するらしく、品の無い言葉なので芸人さん達の間ではあまり使われないようだ。そんな芸の世界にあって一芸の脇役に徹し、目立ち過ぎず、かといって客を返さず、誰も真似できない事をさらっとやる。これは簡単ではない。三代目も、四代目も、わたしは寄席で何度か見たが、適度に客を引きつける間合いには感心させられたものだ。

 ご冥福をお祈りしたい。

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船橋での話芸公演

2016年03月08日 | 落語
 3/5(土)、船橋市民文化ホールでの『ザ・忠臣蔵ナイト』を聴いた。



 江戸城内での刃傷事件があったのが元禄14(1701)年3月14日だったということで、この時期に忠臣蔵に因んだ演目を選び、刃傷―切腹―討ち入りの順になるような演目で口演を開催したようだ。女義太夫は「殿中刃傷の段」、落語は柳亭市馬の「淀五郎」、中入り後は漫才のナイツをはさんで、講談は神田松鯉の「大高源吾」。 落語も講談も、寄席では普段持ち時間が15分程、最後を務める真打ちでも30分ほどで、なかなかこの日のような大ネタを長演で聴けない。しかも、当代の落語界・講談界を代表する二人の大ネタをじっくり聴けたのはファンとしては何よりな夜だった。

 この日の義太夫は人形浄瑠璃ではなく素の語りで、そうなると内容がなかなか理解できない。言葉使いや笑い声・泣き声などオノマトペが不自然で、正直言って、何言ってるのかよくわからない。入場時に配られたプログラムには脚本が入っていたが、会場は暗いし読んでも居られない。現代語に直せ、とは言わないが、もう少し聞く者に理解しやすい工夫をする必要があるのではないだろうか。
 落語の「淀五郎」。この話は数ある人情噺の中でもよほどの力量が無ければ出来ない大ネタだ。この日の市馬師匠は40分程の長演を無理なくこなして良い出来だった。惜しむらくは、中村仲蔵が淀五郎を諭すところが少し軽かった気もする。そこは、厳しい指導の中でも「苦労人のやさしさ」が滲み出るところで、この噺のひとつの山場。ファンとしての期待と共に、これからの楽しみにしておきたい。
 ナイツは二人とも千葉県に縁があるということで、硬い話の合間の息抜き的な役割出演、といったところか。これがけっこう難しい役割で、それを難なくこなして、自然な話しぶりはすでにベテランの域に達しているように感じた。とにかく、間がいい。間合いだけで笑いを取れる話芸は、漫才の本流と言えるだろう。二人とも38歳という若さで、これからも元気に、末長く活躍してもらいたい。
 最後の神田松鯉。この人の聴衆を引きつける力は群を抜いている。ホール後方に座っていたので、客が話に引き込まれ背もたれから身を起こして前傾姿勢になるのが良く見えた。現存する講談師の中では、私の聴いている限り、トップと感じる。

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春風亭小朝 独演会

2016年02月08日 | 落語
 2/6(土)、お隣の八千代市にある市民会館で「春風亭小朝 独演会」があったので出かけてきた。
小朝師匠くらいの人気者になるとなかなか寄席には出ないし、たとえ出ても短いネタで降りてしまうので、今まで聴きたいとは思っていたがその機会が無かった。やっと、近隣でその機会があったので3000円の入場料はちょっと惜しかったが、がんばって出かけた。なにしろ、長年の仕事をリタイアして収入がほとんど無いので節約が肝要なのだが、どうしても観ておきたいものも多い。しかし、あんまり出かけていると出費がかさんでいずれ生活が窮することになるかもしれないし・・・かといって、何にもせずに本ばかり読んでいても精神衛生上よくないだろうし・・・その兼ね合いに苦心しているところ。しかし、まあ、贅沢な悩みではある。我ながら、のん気なもんだ。



この日の演目は、「源平合戦」、「履歴書」など。テンポの良い語り口は、落語という範疇を超えた話芸だなあ、と感じた。多くの噺家さんは年とともにテンポがゆっくりになるものだが、この人はほとんど若い時と同じ感じで、くすぐりの連発、場内爆笑の渦。八代目の林家正蔵(のちの彦六)の孫弟子にあたるわけだが、八代目の間合いが取れれば名人と言われるようになるだろう。

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柳家小三治独演会

2015年12月25日 | 落語
 昨夜12/24は、古い友人がお隣の四街道市で行われた柳家小三治師匠の独演会に招待してくれたので行ってきた。さらに、車で送り迎えもしてくれたので、至れり尽くせりな夜だった。
 小三治師匠も今年76歳という高齢で、病を得ているとのこと。独演会では長演になるので、高座が心配されたが、杞憂だった。演目は「一眼国」と「時そば」の二席。いずれも古典落語の基礎とも言うべき噺で、さすが、と唸らせるだけの力量。随分以前に国立演芸場の名人会で師匠の「山崎屋」を聴いたことがあるが、その時と比べても衰えは感じなかった。実際に演じている方は、必死の思いだろうが、それを感じさせないのも芸の内なのだろう。
 生涯、忘れ得ぬ夜となりそうだ。ただただ、感謝。

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橘家円蔵師匠を悼んで

2015年10月17日 | 落語
 橘家円蔵師匠が、この7日に亡くなっていた。81歳だった。
 わたしも、何度か寄席の高座に接した事がある。タレント色が強く、登場しただけで会場が沸く、明るい芸風の噺家さんだった。噺はというと、演目も少なく、けっして上手い人ではなかったが、人気者で客を集められるので寄席には必要な芸人さんだったことは間違いない。晩年は呂律(ろれつ)が少し回らなくなり、話も途中で詰まったりしていた。そこを又明るさで塞ごうとしていたようで、聴いていても辛いものがあった。そのためか、ここ数年は高座からも遠ざかっていたようだ。
 昭和に活躍した芸人さんが、またひとり消えていった。合掌。

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入船亭 扇橋師匠を悼んで

2015年07月14日 | 落語
 入船亭 扇橋師匠が7月10日亡くなった。84歳だった。
 古典落語を地で語れる数少ない噺家さんだった。もっとも時代の変化が激しすぎるので、若手に古典落語を自然に語れ、というのも無理な話だ。わたしは1957年(昭和32年)の生まれだが、子どもの頃は家の前、道一本隔てて「長屋」があった。そこでは流しも便所も共同で、昔ながらの共同体意識も生きていた。また、近くの畑には隅に「肥溜」があり、下肥(人糞)が匂いを発していて、かくれんぼをしていた友達が落ちてちょっとした騒ぎになったりした。千葉市の中心街に近い我が家でも水洗トイレになったのは、わたしが中学生の頃なので1970年頃だった。つまりは、それ以降に生まれた、現在40代半ばより若い噺家さん達には長屋での生活を描く古典落語の世界を身を持って語ることはすでに困難になった、と言える。客も理解出来ない言葉や情景が多くなるので、古典落語を理解してもらうには情景描写によほど工夫しなければならなくなっている。

 扇橋師匠の生の高座に触れたのは、もう20年近くも前だろうか。演目は記憶していないが、三宅坂の国立演芸場だったように思う。静かに語りかけつつ、古典の世界に引き込む話芸に底力を感じたものだった。落語では首を左右に振って人物を演じ分けるが、これを落語の符牒で「上下(かみしも)を振る」と言うらしい。昔は、年長者などは必ず上座に座るので、高座に上がり上座・下座を表しつつ登場人物の「立ち位置」を明確にすることに語源があるのではないか、と個人的に考えている。この「上下(かみしも)を振る」のを大げさにやる噺家さんも多い。特に若手はいわゆるクサくなりやすい。扇橋師匠の高座は、この所作が実に自然だった。聴き終わった後、落語を聴いたという実感を得ることが出来た。晩年は体の不調に苦しんだようだった。ご冥福をお祈りしたい。

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古今亭志ん朝、三席

2014年06月28日 | 落語
6/23(月)東銀座にある「東劇」で、今は亡き古今亭志ん朝の映像を観てきた。
映画館で落語を聴くのは初めてだったが、広い座席にゆったりと腰かけて豊かな音質の環境で、なかなか良いものだと思った。

Sintyou

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この日上映されたのは、『居残り佐平次』(1978)、『宗岷の滝』(1986)、『愛宕山』(1987)、の三席。
やっぱりうまいなあ。演じ分けが絶妙。
2001年、63歳で亡くなったのは惜しい限りだ。


Tukizi
ついでに、街歩き。銀座の隣、築地の路地裏。
ここから歩いて7~8分の築地場外市場は外国からの観光客でごった返していたが、すこし裏通りに入るとけっこう静かで古い街並みが残っている。こういう場所がたまらなく好きだねえ。
実は、都心のこういった所は散歩するにはとても適している。気安く休憩することができる店や小さな公園が多いし、地下鉄の駅がたくさんあるので帰り道に迷うことも無く、疲れたらメトロを乗り継いで帰ってくればいいのだ。


Katidoki1
勝鬨橋。

Katidoki2
中央部分が開閉式になっているが、今は交通事情により長く閉じられたままだ。
幼い頃、車に乗ってここを通りかかり、船が通過する間跳ね上がった橋を前に待った記憶がある。当時から千葉に住んでいて、何のためにどこに向かっていたのかは憶えていないが、月島方面に向かっている時だったと思う。遠い日の思い出になった。

Katidoki3
隅田川下流方向。海に近いので、少し潮の香りがする。奥に見えているのは建設中の新しい橋。

Katidoki4
同、上流方向。



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国立演芸場、六月上席

2014年06月07日 | 落語
このところ遠ざかっていたが、母の四九日の供養にと思い寄席に行ってきた。

と、言うと奇異に思う人もいるかもしれないが、落語は仏僧が法話を語る際に聴き手を引きつける為に面白い話を盛り込んだのが起源とされている。
噺家が使う道具は扇子と手ぬぐいだけだが、扇子のことは落語の符丁で「風」、手ぬぐいは「曼荼羅」と言っていることに今でもその名残がある。さらに、噺家の着る物は黒紋付が基本で、テレビの「笑点」のイメージが強くカラフルな着流しを着て高座に上がる噺家が多いように思っている人もいるようだが、実際はほとんどの噺家は深い色の紋付を羽織って上がる。先代の桂文治などは黒紋付に袴を着け、いわば常に正装で高座に上がっていた。

Kokuriti

この日(6/2)も、仲入り前に上がった僧侶でもある三遊亭円歌をはじめ、他の噺家(吉窓や志ん喬など)も黒紋付の羽織だった。
特に、最後に上がった真打のさん喬は着物も深い黒で人情話『井戸の茶碗』を膨らませながら40分じっくりと語ってくれた。
すばらしい出来だった。
この人の高座は何回か聞いているが、少し考え過ぎるのか描写が過剰になるきらいがあったが、この日は迷いなく真っ直ぐな高座で胸に染みてくるものがあり、涙が出た。

国立劇場ができて今年で35年ということで、記念に手ぬぐいもくれた。

Kokuriti_0002


落語は、残しておきたい大切なこの国の文化だ、とあらためて感じた一日だった。


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国立演芸場5月中席

2013年05月25日 | 落語
5/20(月)は仕事を早めに上がれたので、国立演芸場をのぞいてきた。この日はシトシトと雨が降り続き、客席は半分ほどしか埋まっていなかった。それが却ってゆっくりと落語を楽しむにはちょうど良く、噺家さんたちもやりやすそうだった。

Kokuritu520

プログラムを見てわかるように力のある噺家さんがズラリと並んでおり、落語好きにはたまらない構成。千秋楽のこの日、真打の馬生は古典落語の名作『佃祭』。45分ほどの長演だったが、時間を感じさせない良い出来だった。母の介護と仕事に追われる日々をもう何年も送っているので、落語をじっくり聴けたのは本当に久しぶりだった。
それにしても、先代の馬生一門は良い噺家さんが多い。最近は、落語で使われる基本的な言葉が若い世代に理解されなくなってきて苦しむ噺家さんも多いと聞く。それでも、すぐれた古典落語がいつまでも続くように願わずにいられない。


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古今亭 円菊師匠を悼んで

2012年10月14日 | 落語
13日、古今亭 円菊師匠が亡くなった。84歳だった。

もう10年以上前になるだろうか、上野の鈴本で真打(トリ)をとったときに「唐茄子屋」をかけて演芸場がずいぶん湧いていたことを思い出す。けっして、うまい噺家さんではなかったが、独特の味わいがあった。これは、落語の方の符牒で「フラ」と言うらしい。「芸は人なり」という。その「人」の部分が、結局はフラなのだろう。

これで、五代目志ん生の直弟子と言える人はいなくなった。
昭和はすでに遠い。


Iwasigumo
秋の夕暮れ前の鰯雲。13日、携帯で撮影。
昼の日差しはまだ強いが、季節は移りゆく。
今週から仕事が忙しくなる。ありがたいことだ。ただ、ブログの更新は滞るかも。


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追悼 玉川スミ師匠

2012年09月29日 | 落語
音曲の玉川スミ師匠が9月25日に亡くなった。92才だった。

何度か高座に接したことがある。
最後に接した高座は、師匠が「来年は90才」とおっしゃっていた様な記憶があるので、3年ほど前になろうか。
師匠の高座には、強い印象がある。

それは、ピッチの正確さだった。

三味線を弾きながら歌舞伎のような七五調の漫談(山手線の駅名をセリフに組み込んだもの)を入れるという芸をされていた時の事。長い芸で、それでなくとも三味線は絹糸を弦にしているのでとても緩みやすく、こまめな調子合わせが必要になる。それを、笑い声が渦巻く演芸場で表情ひとつ変えずに正確にやってのけるのだから、正直言って涙が出るほど感動した。

亡くなったことは残念だが、長寿を保たれて最晩年まで90年近くに渡り心に残る芸を見せてくれたことは素晴らしいことだし、後世への遺産となるに違いない。

ご冥福をお祈りしたい・・・合掌・・・


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寄席―国立演芸場

2012年07月05日 | 落語
7/3(火)は、仕事が午前中に終わったので午後から国立演芸場を覗いてきた。演芸場は、仕事をしている場所から歩いていくことも出来る距離にある。

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折しも落語芸術協会の真打昇進披露公演を開催していて、なかなかのメンバーが出ていた。母の介護があるので、ゆっくりと見ている時間は無く、寄席の雰囲気を楽しんだ程度なので寸評は控えるが、久々に寄席に入れて何やらうれしくなった。


さて、国立演芸場の一階には「演芸資料室」というものがあって、小さなスペースながら、なかなか興味深いものが展示される事がある。今は『芝居噺と噺家芝居』の資料が展示してあり、八代目の林家正蔵のキッカケ帳などが目を引いた。

Engeisiryou1


Engeisiryou2
こちらは裏面。クリックすると拡大できる。

考えてみると、平日の昼間から芸人さんの生の芸に接する事が出来るのは寄席くらいしか無いなあ。
都内の寄席でも客の入りが悪く、風前のともし火に近いところもあるらしい。接客態度が悪くて、正直言ってあまり行きたくない寄席もあるけど、無くなって欲しくは無い。




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