ちょっと堅い本、というか哲学書の話。
わたしは、大学の時には哲学を専攻していた。が、知識の幅は狭く理解度も浅いので、あまり人に話せる程のことはない。それは自分でもよくわかっている。卒業して30年以上の歳月が流れ、いつか読み直したいと思って手元に置いておいた哲学・思想関係の本も、仕事と介護に追われる日々の中で、いつしか黄ばんでいる。
それでも、新たに訳された名著が出るとどうしても欲しくなる。昨年出た岩波文庫の『存在と時間』もそんな一書だ。
幸い、今年の夏は時間が取れたので、暑さの中でもどうにか読み終えることができた。
一番下はドイツ語の原書『Sein und Zeit(Max Niemeyer Verlag)』。ドイツ語で読めるわけではないが、キイワードだけでも参照しようと思って持っている。ただ、この岩波新訳では、かなり詳しい解説が段落ごとに付いていて、原語と訳語(重要な語は英訳・仏訳)の対比もしているので特に原書を参照する必要はないと感じた。良い仕事をする人がいるものだ。
さて、そのキイワードだが、やはり「存在」だろう。なかなか理解しにくい言葉だが、「存在論」は英語ではontology―この最初の「on」に着目したい。すなわち、スウィッチのオンON―オフOFFのオンと捉えて、すべてオンになっている状態と考えればわかりやすくて良いのではないだろうか。全てのものがオンONになっている世界の中で「生活」している我々は、今を生きているので「現存在」。さらにハイデガーは、この存在に「時間性」に基づく意味と可能性を見出している。いわば、動的な世界観を哲学化したところにこの本が「20世紀最大の哲学書」と言われる所以があるのだろう。しかし、動的な世界観からはイデアといわれるような「理想」は導き出せない。変化の中にいるので、固定的な理念は見出すことは出来ないのだ。そこに残るのは、サルトルの言葉を借りれば「吐き気がするほどの不安」だ。人は、不安の中での選択を余儀なくされる。
このあたりがギリシャ以来の伝統的な西洋哲学とは異なる所で、相いれない点でもあるのだろう。新しいものが全て良いものだとは限らないのは、科学でも哲学でも同じだ。ただ今を生きる人間の一人としては、肩の力を抜いて、先人のたどった轍を眺めながら何を基準にしながら考えれば良いのかを学べればそれでいいわけだ。
学生時代はレポートや論文の締め切りに間に合わすために無理やり読み進めることが多く、いわば義務的な読書をしていたので、あまり楽しかった記憶は無い。しかし、歳を重ね、時間的にゆとりをもって読書できる今は、堅い本もけっこう楽しく読み進めることができる。論争する為でもないし、教授に認めてもらう為でもないもんね。
哲学書が取っつきにくいのは、その用語の特殊性に一因がある。そこで、先の「存在―ontology」で紹介した簡単な英語の知識を使っての自己流の解釈法をすこし紹介したいが、話が長くなってきたので、この続きは次回にしよう。
わたしは、大学の時には哲学を専攻していた。が、知識の幅は狭く理解度も浅いので、あまり人に話せる程のことはない。それは自分でもよくわかっている。卒業して30年以上の歳月が流れ、いつか読み直したいと思って手元に置いておいた哲学・思想関係の本も、仕事と介護に追われる日々の中で、いつしか黄ばんでいる。
それでも、新たに訳された名著が出るとどうしても欲しくなる。昨年出た岩波文庫の『存在と時間』もそんな一書だ。
幸い、今年の夏は時間が取れたので、暑さの中でもどうにか読み終えることができた。
一番下はドイツ語の原書『Sein und Zeit(Max Niemeyer Verlag)』。ドイツ語で読めるわけではないが、キイワードだけでも参照しようと思って持っている。ただ、この岩波新訳では、かなり詳しい解説が段落ごとに付いていて、原語と訳語(重要な語は英訳・仏訳)の対比もしているので特に原書を参照する必要はないと感じた。良い仕事をする人がいるものだ。
さて、そのキイワードだが、やはり「存在」だろう。なかなか理解しにくい言葉だが、「存在論」は英語ではontology―この最初の「on」に着目したい。すなわち、スウィッチのオンON―オフOFFのオンと捉えて、すべてオンになっている状態と考えればわかりやすくて良いのではないだろうか。全てのものがオンONになっている世界の中で「生活」している我々は、今を生きているので「現存在」。さらにハイデガーは、この存在に「時間性」に基づく意味と可能性を見出している。いわば、動的な世界観を哲学化したところにこの本が「20世紀最大の哲学書」と言われる所以があるのだろう。しかし、動的な世界観からはイデアといわれるような「理想」は導き出せない。変化の中にいるので、固定的な理念は見出すことは出来ないのだ。そこに残るのは、サルトルの言葉を借りれば「吐き気がするほどの不安」だ。人は、不安の中での選択を余儀なくされる。
このあたりがギリシャ以来の伝統的な西洋哲学とは異なる所で、相いれない点でもあるのだろう。新しいものが全て良いものだとは限らないのは、科学でも哲学でも同じだ。ただ今を生きる人間の一人としては、肩の力を抜いて、先人のたどった轍を眺めながら何を基準にしながら考えれば良いのかを学べればそれでいいわけだ。
学生時代はレポートや論文の締め切りに間に合わすために無理やり読み進めることが多く、いわば義務的な読書をしていたので、あまり楽しかった記憶は無い。しかし、歳を重ね、時間的にゆとりをもって読書できる今は、堅い本もけっこう楽しく読み進めることができる。論争する為でもないし、教授に認めてもらう為でもないもんね。
哲学書が取っつきにくいのは、その用語の特殊性に一因がある。そこで、先の「存在―ontology」で紹介した簡単な英語の知識を使っての自己流の解釈法をすこし紹介したいが、話が長くなってきたので、この続きは次回にしよう。