前回のつづきで、今回は哲学用語の話。
あくまで自己流の理解の仕方、と言うかほとんど勝手な解釈に近いので異論もあるだろう。が、せっかく入口に近づこうという時に直前で躓いてしまって中に入れないのではもったいない。なので、ひとつの入り方と考えてもらいたい。
欧米諸国以外で、自国の言葉で西洋哲学の本を読める国は日本しかない、とも言われている。その意味では、先人たちの労苦には感謝しなくてはいけない。しかし、現在でも使われている哲学用語は主に明治期に訳出されたもので、漢字・漢文の基礎知識を前提にしている言葉が多い。明治期の知識人の多くが漢詩を作れたとも言われている。それだけの漢文の知識を前提にされた訳語は今の時代にそぐわないものも多いのだ。実際、専門の研究者でさえも訳出された語の元の原語が思い浮かばないことすらあるという。逆に言えば、簡単な英語の知識があればけっこう基本的な意義は理解しうる言葉も多い。そこからは入れれば、あとはそれぞれの哲学者が思い入れている意味を汲み取っていくようにすればいいわけだ。すこし例をあげてみよう。
『形而上学(metaphysic)』―以前、どこかの国語の入試で、この言葉が出て原註が付いていた。それによると、「物事の本質を究明する学問」とあった。この註を見て、ああそうか、とわかる人の方がどうにかしてる。わたしだったら余計にわからなくなる。まあ、それはともかく、要はフィジカル=physical(もの及び体)のあと=metaにくる学、が原義なのだ。つまりは、物理的なものを何を根拠にして、いかに制御するのか、裏付けを考える学問。それは、「人の道」であるともいえる。もともと、「形而上」とは四書五経のうち『易経』にある言葉「形よりして上なるもの、これを道と謂い、形よりして下なるもの、これを器(道具)という」から来ており、すなわち人道的な方法論―倫理学の基礎を探求する学問と言える。新井白石が『西洋紀聞』で「西洋の学は形而下にすぐれ、東洋の学は形而上にすぐれている」、と書いたところから「形而上学」という言葉が近代以降に好んで使われるようになったとも言われている。昔の人の言葉に対する知識と言うのは奥が深くすごいなあ、とも思うが、それが却って今の我々には理解するのを困難にしている側面がある。
原発の事故以来、科学技術を利用するための指針を考える学問が必要になっている。その基礎としての「形而上学」が確立される必要があるだろう。
『様態(mode)』―この言葉も哲学関係の本にはよく出てくるが、いまではモードと言えば子どもでも知っている外来語になっている。たとえば、エアコンでは「除湿から冷房にモードを変える」と言ったり、携帯電話でも「マナーモードにしている」と言ったりする。つまりは、同じものが形や機能を変える時の現れかたを意味する言葉なのだ。実は、音楽でもモード奏法というものがある。「旋法」と訳されいるが、ドレミのレから始まると「ドリアン」、ミからだと「フリージアン」などと名前が付いている。もともとは「チャーチモード」なので教会音楽から来ているらしいが、わたしなどはジャズや現代音楽で耳にすることが多い。
この例のように英語ではmodeというひとつの言葉が哲学では「様態」になり、音楽では「旋法」と訳される。さらに同じ哲学用語でも、哲学者の思い入れにより使われ方が異なる時は訳語が変わったりもする。混乱したら、元の言葉―できれば原語が理想的だが無理なら英語―で参照した方が却って理解が早くなることも多い。今は電子辞書もあるし、こまめに辞書を使いたいものだ。
余談だが、。作家の宮城谷昌光さんは漢文を理解するのに一度英語にして理解したら簡単だった、とどこかで書いていた。語順が近いからだが、漢文に帰り点を打つ様な理解の仕方は今では遠回りになっているとも言えるだろう。
時代は変わっている。日本語の混乱を憂う声も聞かれるが、憂うべきは言葉本来の意味がきちんと理解され使われていないことだ、とわたしは考えている。漢語だろうが、欧米の言葉だろうが、意味をちゃんと理解していれば「外来語」でもさほど心配することはないだろう。
あくまで自己流の理解の仕方、と言うかほとんど勝手な解釈に近いので異論もあるだろう。が、せっかく入口に近づこうという時に直前で躓いてしまって中に入れないのではもったいない。なので、ひとつの入り方と考えてもらいたい。
欧米諸国以外で、自国の言葉で西洋哲学の本を読める国は日本しかない、とも言われている。その意味では、先人たちの労苦には感謝しなくてはいけない。しかし、現在でも使われている哲学用語は主に明治期に訳出されたもので、漢字・漢文の基礎知識を前提にしている言葉が多い。明治期の知識人の多くが漢詩を作れたとも言われている。それだけの漢文の知識を前提にされた訳語は今の時代にそぐわないものも多いのだ。実際、専門の研究者でさえも訳出された語の元の原語が思い浮かばないことすらあるという。逆に言えば、簡単な英語の知識があればけっこう基本的な意義は理解しうる言葉も多い。そこからは入れれば、あとはそれぞれの哲学者が思い入れている意味を汲み取っていくようにすればいいわけだ。すこし例をあげてみよう。
『形而上学(metaphysic)』―以前、どこかの国語の入試で、この言葉が出て原註が付いていた。それによると、「物事の本質を究明する学問」とあった。この註を見て、ああそうか、とわかる人の方がどうにかしてる。わたしだったら余計にわからなくなる。まあ、それはともかく、要はフィジカル=physical(もの及び体)のあと=metaにくる学、が原義なのだ。つまりは、物理的なものを何を根拠にして、いかに制御するのか、裏付けを考える学問。それは、「人の道」であるともいえる。もともと、「形而上」とは四書五経のうち『易経』にある言葉「形よりして上なるもの、これを道と謂い、形よりして下なるもの、これを器(道具)という」から来ており、すなわち人道的な方法論―倫理学の基礎を探求する学問と言える。新井白石が『西洋紀聞』で「西洋の学は形而下にすぐれ、東洋の学は形而上にすぐれている」、と書いたところから「形而上学」という言葉が近代以降に好んで使われるようになったとも言われている。昔の人の言葉に対する知識と言うのは奥が深くすごいなあ、とも思うが、それが却って今の我々には理解するのを困難にしている側面がある。
原発の事故以来、科学技術を利用するための指針を考える学問が必要になっている。その基礎としての「形而上学」が確立される必要があるだろう。
『様態(mode)』―この言葉も哲学関係の本にはよく出てくるが、いまではモードと言えば子どもでも知っている外来語になっている。たとえば、エアコンでは「除湿から冷房にモードを変える」と言ったり、携帯電話でも「マナーモードにしている」と言ったりする。つまりは、同じものが形や機能を変える時の現れかたを意味する言葉なのだ。実は、音楽でもモード奏法というものがある。「旋法」と訳されいるが、ドレミのレから始まると「ドリアン」、ミからだと「フリージアン」などと名前が付いている。もともとは「チャーチモード」なので教会音楽から来ているらしいが、わたしなどはジャズや現代音楽で耳にすることが多い。
この例のように英語ではmodeというひとつの言葉が哲学では「様態」になり、音楽では「旋法」と訳される。さらに同じ哲学用語でも、哲学者の思い入れにより使われ方が異なる時は訳語が変わったりもする。混乱したら、元の言葉―できれば原語が理想的だが無理なら英語―で参照した方が却って理解が早くなることも多い。今は電子辞書もあるし、こまめに辞書を使いたいものだ。
余談だが、。作家の宮城谷昌光さんは漢文を理解するのに一度英語にして理解したら簡単だった、とどこかで書いていた。語順が近いからだが、漢文に帰り点を打つ様な理解の仕方は今では遠回りになっているとも言えるだろう。
時代は変わっている。日本語の混乱を憂う声も聞かれるが、憂うべきは言葉本来の意味がきちんと理解され使われていないことだ、とわたしは考えている。漢語だろうが、欧米の言葉だろうが、意味をちゃんと理解していれば「外来語」でもさほど心配することはないだろう。