先週観た映画『ラヴィング』についてはこのブログ3/10欄に書いたが、あらためて1950~60年代のアメリカ社会と、そこに生まれたブルースの中で歌われてる詞(ことば)について考えている。
ブルースあるいは広く黒人音楽の詞の中で、性的比喩が多いことは良く知られるところだ。例えば、男性の象徴として「バナナ」「さつまいも」「レモン」「黒蛇」など、他にも多数ある。今では日常的に使われる「ロックンロール(rock and roll)」や「ジャズ(Jazz)」、あるいは「グルーヴ(in the groove)」などという言葉は、もともとは性的な意味で使われていた。日本でも、「百合の花」が女性を「藤の花」が男性を象徴させることがあり特別なことではないが、ブルースのなかではそれが際立って多い。さらに、性的能力を誇示する詞も目立つ。代表的な曲を挙げれば、ベーシストのウィリー・ディクソン(W.Dixon)が1950年代終わり頃に作った『Hoochie Coochie Man』がある。そのなかで「オレは何度でもやれる」と云って性的な力を誇示している。
ブルース研究家のサミュエル・チャータースなどは、これらを「開放的なエロチシズム」(『ブルースの詩』p250)と云っている。が、その詞の奥深く意味するところを読み取ると「いずれは数で圧倒する」と云っているとも取れる。少なくとも、時代背景を考え合わせるとそういった解釈も成り立つように思えるのだ。全ての人が参加できる民主主義では多数決が基本だ。公民権運動の頃のアメリカでは、黒人の選挙権登録に対して妨害もあったと聞くが、今はそれも解消しているだろう。要は、「今は苦しくとも子や孫の時代になれば繁殖能力の強いものが多数を占め意見を通せる、それまで、せいぜい子作りに励もうじゃないか」言外にそう言っているとも取れるのだ。そうなると、日本のような社会では想像できないような問題を内に含み、詞の表面的なことだけで喜んでいるだけでは浅薄な解釈しか出来ていない、とも言える。
ちょっとかたい話になったが、言葉には様々な背景があり、内奥を捉え、把握しようとすることも大切なのだ。少なくとも、演奏する者にとっては、そうありたいものだ。自戒を込めて。
ブルースあるいは広く黒人音楽の詞の中で、性的比喩が多いことは良く知られるところだ。例えば、男性の象徴として「バナナ」「さつまいも」「レモン」「黒蛇」など、他にも多数ある。今では日常的に使われる「ロックンロール(rock and roll)」や「ジャズ(Jazz)」、あるいは「グルーヴ(in the groove)」などという言葉は、もともとは性的な意味で使われていた。日本でも、「百合の花」が女性を「藤の花」が男性を象徴させることがあり特別なことではないが、ブルースのなかではそれが際立って多い。さらに、性的能力を誇示する詞も目立つ。代表的な曲を挙げれば、ベーシストのウィリー・ディクソン(W.Dixon)が1950年代終わり頃に作った『Hoochie Coochie Man』がある。そのなかで「オレは何度でもやれる」と云って性的な力を誇示している。
ブルース研究家のサミュエル・チャータースなどは、これらを「開放的なエロチシズム」(『ブルースの詩』p250)と云っている。が、その詞の奥深く意味するところを読み取ると「いずれは数で圧倒する」と云っているとも取れる。少なくとも、時代背景を考え合わせるとそういった解釈も成り立つように思えるのだ。全ての人が参加できる民主主義では多数決が基本だ。公民権運動の頃のアメリカでは、黒人の選挙権登録に対して妨害もあったと聞くが、今はそれも解消しているだろう。要は、「今は苦しくとも子や孫の時代になれば繁殖能力の強いものが多数を占め意見を通せる、それまで、せいぜい子作りに励もうじゃないか」言外にそう言っているとも取れるのだ。そうなると、日本のような社会では想像できないような問題を内に含み、詞の表面的なことだけで喜んでいるだけでは浅薄な解釈しか出来ていない、とも言える。
ちょっとかたい話になったが、言葉には様々な背景があり、内奥を捉え、把握しようとすることも大切なのだ。少なくとも、演奏する者にとっては、そうありたいものだ。自戒を込めて。