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わたしのレコード棚ーブルース139 James Cotton

2021年06月24日 | わたしのレコード棚
 シカゴブルースを支えたハーピスト・ヴォーカリストの一人で、後に癌を患いながらも長く演奏を続けたジェームス・コットン。この人に関しては何度も来日しているし、残された音源も多く、多くの人が語っている。わたしも2度ほど生の演奏に接しているで、その思い出などを簡潔に書いておくことにしたい。
 生まれは、1935年7月1日ミシシッピ州Tumica。少年期にKFFAラジオのブルース番組「キング・ビスケット・タイム」を聞いてアーカンソー州ヘレナまで行き、サニーボーイ・ウィリアムソン2(ライス・ミラー)に直接ブルースハープを教えてもらったりした、という。その後は、1950年頃にメンフィスへ出て、18歳でサンレコードからデビュー。1955年頃にシカゴへ出て、リトルウォルターの後任ハーピストとしてマディー・ウォータースのバンドに参加。その後は、ブルースという枠にとらわれない活動をして、様々な音楽シーンで才能を発揮した。1990年代半ばに喉頭がんを患い声を失いつつも演奏を続け、2017年3月16日にテキサス州オースチンで81歳で亡くなった。


 CHESS原盤のLP1449で、国内からP-VainがPLP-814として発売したもの。マディーウォータース・バンドが1960年7月3日に、ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した際のライブ盤。ジェームス・コットンのハーモニカ、パット・ヘアのギター、オーティス・スパンのピアノ、アンドリュー・スティーブンソンのベース、フランシス・クレイのドラムス。今となっては伝説のライブとも言え、コットンが存在感を示した記念すべき1枚でもある。解説は、髙地明氏。


 東京の神保町にある日本教育会館ホールで、1985年12月13日に行われた「ザ・ジェームス・コットン・バンド」の公演の半券。
 コットンは、この時50歳。ブルースナンバーが多かったが、ブルースという枠を超えたライブだった印象が強い。ブルースファンの中には、それが物足りないと感じた人もいたかもしれない。が、わたしは、ジャンルはどうあれ良い音楽であればそれで良い、と思っている。
 この時の招へい元であるブルースインターアクジョンズの髙地明氏は、ロード・マネジャーとして各地の公演に同行し、後に著書『ブルース決定版(1994年音楽之友社刊)』の中で次のように語っている。「・・ぼくがこれまで実際に接したブルースマンの中でも、ジェームス・コットンはとてつもなく豪放で意欲的な”ブルース馬鹿”であった。素晴らしくファンキーな人柄だった。・・」(P52)


 TELARCレーベルのCD83497 。1999年9月、メイン州ポートランドでの録音。ギターはリコ・マクファーランド、ピアノにデヴィッド・マックスウェル。この時すでに喉頭がんにより声を失いつつあり、コットン自らは振り絞るような声でヴォーカルを数曲とっている。他に、ダリル・ニューリッチという人が、2曲ヴォーカルで加わっている。ブルースファンとしては、どんなに悪声でも「コットンの最後の歌声」とも言える録音で貴重なものなのだが、ブルースに馴染みの薄い人には「何だこりゃ」と感じるかもしれない。なので、ロックやソウルが好きな人は下のCDをお薦めする。


 同じくTELARCレーベルのCD83550。こちらは2001年6月の録音で、やはりメイン州ポートランドでの録音。この時すでにコットンは、声を失っていたようで、ココ・テイラーやケニー・ニールなど9人のヴォーカリストを迎えて、自らはハーモニカに徹している。


 CD83497のジャケット裏の写真。手にしているハーモニカは、10穴のブルースハープではなく、ボタンを押して半音階が出せる音域の広いクロマッチック・ハーモニカだ。上の2枚のCDで、コットンは主にこのクロマッチック・ハーモニカを使っていて、それにより音楽性の高い演奏になっている。
 この人も音楽大学などで教育を受けていれば、ジャンルを超えて、例えばジャズやクラッシックのミュージシャンとも共演できる世界的なプレーヤーになっていただろう。

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