King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

石柱めぐりに意味を問う

2011年12月28日 23時26分47秒 | 日々のこと


久々の京都旅行は、家族が全員参加して、全員が
行ってみたくて文句が出ないところというと
京都なのでした。

ここなら色々な普段の欲求も也をひそめるのです。

家族の宿泊場所への欲求はハードルが高く、それ
を超えるのは容易ではありません。

トイレとバスは別仕切りにあることとか、ベッド
である程度部屋は広くだとか、温泉付きであるとか、
食事も朝はバイキングだとしても夜はバイキング以外
の食事場所での提供だとか大浴場とロビーの充実だとか
切りがないのです。

ところが、目的場所を京都にするとそれらのこまごま
した欲求が一旦は引っ込められるのです。

京都へ行けるんなら多少のことは目をつぶろうとなる
のです。

それだけ誰もがあこがれる地が京都と言うところです。

京都であれもしたいこれもしたいという希望を誰もが
持っています。

常に旅番組で特集が組まれ、あらゆる謎が京都につながって
いるかのような京都に来て謎の原因を探るテレビ番組や
文科芸術を訪ねる番組をいつもみることができます。

私は家族の様々な欲求を整理して、最大限の魅力を
感じられ、かつ、私自身が持つ京都への長年の憧れや
欲求を果たす旅にすべく多くの資料やテレビやネットの
情報を当たりました。

年末ということで、貴重な文化財や寺自体が年末年始
休みで閉まってしまい、観たいと思っていたものが
多くは諦めざるを得ませんでした。

京都は未だに往復はがきに見学希望を書いて出すと
許されることもあるという方式の寺も多く、本当に
観たいものは長年の計画と努力が要ります。

ただ、多くのテレビ番組でもうそういうものは特別に
今回見せてくれたみたいなのをやっているので、
どうしても実物に触れたいというものに限ることに
なります。

ですが、どうでしょう。

京都自体が応仁の乱で大方焼けた町なのです。

そして、その後も信長、豊臣と戦乱の世は続き、
明治にも大火やら騒乱やら都はいつも焼いては
再建されているのです。

今建っているものは再建されたもので、そうで
ないものは石の石碑があるだけというのが多々
あります。

もともと建物ではなく、ここで誰が歌を詠んだと
いうような石碑も誰かの邸宅の跡らしいとか、最近
出来たような石碑も多々あります。

さて、そんな石碑を観て何が楽しいのかと巡る
プランの時に考えてしまいました。

本物のふすまも天井絵も見せてくれなくて、まこと
しやかに伝えられる伝説や不思議は後付けやこじつけ
風聞の類であり、信憑性もないものから、捏造された
ものもちゃんと石の石碑になっているのです。

公的機関の説明看板が付いたものやユネスコや国宝
という看板も目につきます。

でもこれは後から作った偽者だよ全部どこが宝なのか
と思いつつ、それでも有名な寺は廻ることにしました。

一度も来たことがないという人間もいたからです。

そういう人間に、いくらこのお店と町並みがいいと
言って町家散歩するのもちょっと乱暴です。

でも何でみんな外国からも来て、古い寺など観て
まわるのでしょうか。

どこもこの年末の忙しい時に、多くの外国人や観光客が
流れそうめんのように順路を流れて行きます。

これが楽しいのだろうか。

日本人はお寺の順路から押し出されたらそのまま
門前の御土産屋さんで寺より多くの時間をとります。

外国人は景色やうどんやら抹茶など緋毛氈の上で時を
過ごします。

私は昔の記憶と現在とをシンクロさせてみます。

そして、多くのガイドブックやテレビでの映像を
現物で修正して記憶しなおします。

そんなことをしているとせっかくの景色も建物も
シャッターを押す気持ちが萎えてしまいます。

あまりにも多くの記憶が現物にはその半分の美しさも
ないからです。

それでも、何十年も前に行った御土産屋さん街がいまでも
あり、修学旅行の時に行った羊羹屋さんが同じ位置にあった
のを発見したときには感動してしまいました。

京都に行く何日か前には何という名前の羊羹かも
思い出したのです。

記憶というのは面白いものです。
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