King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

ライブで聞いたゴールドベルク変奏曲

2013年12月09日 22時50分39秒 | ライブ・コンサート・展覧会
昨日は久しぶりの地元ピアニストのリサイタルに出かけました。

このリサイタルシリーズも今年で10年になるそうです。

そして演目が『ゴールドベル変奏曲』です。

これはCDでは何度も聞いている曲ですし、色々な映画にも
登場したり、この音楽にまつわる逸話や解説も沢山聞いて
きました。

地元ピアニストのHPよると演者自らこの曲の解説をしてから
演奏に入るとなっていて、事前の演奏会でその解説を聞いて
初めてゴールドベルク変奏曲が解ったという声を聞いたと
あったので、これはかなり面白い話が聞けるものと思って
楽しみにしていました。

本人自らがホワイトボードを使いこの曲の構造と特長を解説
していったのですが、目からうろこというほどの目新しさもなく、
聞きどころとかこれを聞いてほしいという醍醐味についても
極控えめでした。

私は聞いてみたかったのは、ドイツで最後の30番目の変奏曲が
肉でなくて蕪と何か野菜の曲で元に戻ってしまったという曲は
誰もが知るメロディの曲なのか今まで続いたシンメトリイの構造を
崩すにふさわしい曲なのかこの曲の面白味はなんなのかをもっと
聞きたいところです。

日本人というか普通の人が聞いて、今までの規則性を欠いた展開に
ああこれで元に戻るのかという意外性に気づくようなものなのか
聞きたかったのです。

まあそれは今日聞けば解るだろうと休憩時間に入りワクワクとした気分で
待ちました。

そして初めての生で聞くゴールドベルク変奏曲はCDで聞くのでは解らない
実に大事業なものなのだと感じました。

ベートーヴェンのピアノソナタなども目の前に生のドラマが展開してく
ような生でしか感じられない大河ドラマ的なイメージが展開したり、
伝わるイメージは実にライブ感で今展開しているというドラマ性も
しっかりとあるのとは対照的に、これは音楽に図形展開していく
図形美術を見ていく作業のようであまりドラマ的な感じはしません。

しかし、これは演者のテクニックをこれほど要求するものなのかと
初めて目の前で弾いている姿を見て驚嘆する技の連続にびっくり
してまうのでした。

これは見て楽しむピアノでもあるのかと感心してしまいました。

それだけ演者の神経の集中と演奏技術とさらに曲理解と感性に
よるイメージの膨らませ方や艶を乗せる曲の表情の出し方など
ただ弾けばいい、完璧にキータッチできるのを見せるのであれば
それは曲芸に過ぎず、ただオーという歓声が上がりそれだけで
終わりでしょう。

これは曲であり、感情の表現でもあり、曲展開の妙も作曲の妙と
演奏者の高度な技術も要求すると何を表現し、何を展開している
と理解していなければできない表現方法そのものであるのです。

まあだから同じ曲でも演者が違えばまた味や表情に違いが出て
くるのですが、地元ピアニストの場合、そこまで卓越した自身の顔が
覗くかというと本人の生真面目さが芸術性を削いでいるのではと
時に感じてしまうこともあります。

ゴールドベルク変奏曲のCDでは各変奏曲ごとにポーズははいら
ないし、どの曲も同じ長さのはずなのに、地元ピアニストが使う
楽譜は張り紙をした長い折込が二ヶ所付いたので、なおかつ
それを演者本人がめくりながら、時にはポーズをとり意識を
入れなおしての演奏と弾き切った時のポーズなど普段やらない
やり切った感が体からも表現され、それだけ難易度のある曲
なのだと改めて感じました。

最後のアリアは暗譜らしく、30の蕪と何とかを弾ききったら
一気にアリアに突入し、余韻を十分かみしめてこの苦行のような
業の開放から満場の拍手を満足そうに受けていました。

ゴールドベルク変奏曲とはこういうことかと私も感じましたが、
それはなんと曲芸的な運指と音の処理とその効果を知り尽くして
やっと弾けるものなのだということです。

どれだけヘタレないで弾ききるのかやはりピアニストのピアニスト
たる技の炸裂を見るのも楽しいと感じるひと時でした。
コメント
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