最近長い映画というと体力的になかなか見れないと
いうイメージを持っています。そして、中身が何も考えずに
観るとスカッとするようなアクションものばかり見てしまいます。
そんな中、ミッションインポッシブルとか007慰めの報酬とか
見比べて最近のアクション映画の質の高さとかストーリーと
カメラワークなどの進歩とやはり映画の肝は追っかけなんだと
納得したりしていました。
さて、自らの体力に挑戦するかのように雨ばかり降る近頃に
反抗するがごとく、マイケルチミノの大作『ディアハンター』を
みました。
そして、この映画かつて何回か挫折した記憶とともに若い時に
映画館で見たのを思い出しました。
主役のロバートデニーロはイタリア系ですが、この舞台の町は
ロシア系の人達の街らしく、ウォーケンはもろにそんな感じで
この映画で独特の存在感を示していて、ベトコンが捕虜にロシアン
ルーレットをしてまわりで金を掛けるのがなぜか陥落間近の
サイゴンの街でもやっているというのはベトナム人がそのような
ゲームを好きなのかとにかくロシアつながりでこれを入れたのか
謎です。
とにかく作品のイメージとしてロシアンルーレットのシーンが
強烈に残るわけですが、そもそもは戦争の愚かさやそれにより
狂わされる若者の生活を描いたもののはずですが、なぜかロシアが
強烈にそれに割って入ってくるのです。
それでも主役はデニーロというのは何かの皮肉のように。
そしてデニーロは一人故郷に帰り、親友が残したいいなずけと
肉体関係になり、昔のように仲間と鹿狩りに出るも絶好のチャンスに
その生命の輝きに対して引き金を引けないという戦争の結果を
印象付けますが、それはそれで正しいことのように感じます。
ですが、戦争で命の大切さを知るというのは戦争を正当化させるようで
違和感が残ります。
しかし、ウォーケンを救いに行き結局は救えなくて、結果をみれば
デニーロとメリルスリーブは関係を続けてもいいことになるし、
何も説明もなかったものの故郷に帰ったデニーロは制服を脱がずに
いて、陥落間近のサイゴンにすんなりアメリカ大使館から入国できたり
軍人としての立場を離れていないことが見て取れこれはこの後の
人生も軍とかかわって生きていってめでたしめでたしの話なのではと
思ってしまうのです。
心の弱いものは精神を病んだりして脱落していくが、芯がしっかりとした
者は厳しいミッションもこなして友も救い自身もぶれないことを表して
いるのではと思ってしまうのです。
つまりは見る側の故郷とか愛国心とは別に友を失ったり人生を壊して
いってしまうということもあるけれど戦争が強くして成功する
こともあるという事もテーマになっていると思うのです。
誰かがデニーロのように強く時には友を救い、救出に舞い戻ったりして
強くリードする存在がいてそれは戦争という経験を自分のものとして
さらに強くなるという事を訴えかけられたように感じます。
観る側は壊されるものの方が多いとかよその国に行って介入するから
こんなことになり、アメリカ最悪の戦争となったと反戦ムードに
浸りたいベトナム戦争ですが、マイケルチミノはそういってないと
みえます。
それでいいのかはそれぞれが思うことで故郷に戻ってまた昔のように
鹿狩りに出るも仲間はまた酔っぱらいながらいたずらに鹿を打ち
一発で仕留められなくて素手で追いかけまわしたりしているのと対比で
デニーロは追いかけ一発で仕留めるチャンスがありながらわざとはずして
満足かと鹿に問いかけるところはまさにどちらが正しいのかといわんばかり
のシーンなのです。
この青春の一ページの後を想像するとデニーロはその後も軍にかかわり
故郷には戻らず、それなりに出世していきメリルストリーブと幸せに
暮らすのです。そして、故郷の仲間は製鉄場は廃工場となり酒場も
当然つぶれて故郷の仲間はてんでんとなり、戦争で下半身不随と
なったステーブンは年金でどうにか生き延びる物の後はホームレス同様
の生活で行方不明の人もあるという感じなのではと考えます。
それでもこんな狂気を繰り返してはならいというメッセージと
受け止めるべきなのでしょうか。
私はベトナム戦争などその後のイランイラク戦争など果たしてアメリカが
介入するべきだとは思っていません。
逆に武器の流通を減らして世界の内戦をなくすことも本来なら
可能なはずです。
まずは武器を捨てることを国内からそして海外につなげることこそ
今のアメリカに必要なことに思います。
いうイメージを持っています。そして、中身が何も考えずに
観るとスカッとするようなアクションものばかり見てしまいます。
そんな中、ミッションインポッシブルとか007慰めの報酬とか
見比べて最近のアクション映画の質の高さとかストーリーと
カメラワークなどの進歩とやはり映画の肝は追っかけなんだと
納得したりしていました。
さて、自らの体力に挑戦するかのように雨ばかり降る近頃に
反抗するがごとく、マイケルチミノの大作『ディアハンター』を
みました。
そして、この映画かつて何回か挫折した記憶とともに若い時に
映画館で見たのを思い出しました。
主役のロバートデニーロはイタリア系ですが、この舞台の町は
ロシア系の人達の街らしく、ウォーケンはもろにそんな感じで
この映画で独特の存在感を示していて、ベトコンが捕虜にロシアン
ルーレットをしてまわりで金を掛けるのがなぜか陥落間近の
サイゴンの街でもやっているというのはベトナム人がそのような
ゲームを好きなのかとにかくロシアつながりでこれを入れたのか
謎です。
とにかく作品のイメージとしてロシアンルーレットのシーンが
強烈に残るわけですが、そもそもは戦争の愚かさやそれにより
狂わされる若者の生活を描いたもののはずですが、なぜかロシアが
強烈にそれに割って入ってくるのです。
それでも主役はデニーロというのは何かの皮肉のように。
そしてデニーロは一人故郷に帰り、親友が残したいいなずけと
肉体関係になり、昔のように仲間と鹿狩りに出るも絶好のチャンスに
その生命の輝きに対して引き金を引けないという戦争の結果を
印象付けますが、それはそれで正しいことのように感じます。
ですが、戦争で命の大切さを知るというのは戦争を正当化させるようで
違和感が残ります。
しかし、ウォーケンを救いに行き結局は救えなくて、結果をみれば
デニーロとメリルスリーブは関係を続けてもいいことになるし、
何も説明もなかったものの故郷に帰ったデニーロは制服を脱がずに
いて、陥落間近のサイゴンにすんなりアメリカ大使館から入国できたり
軍人としての立場を離れていないことが見て取れこれはこの後の
人生も軍とかかわって生きていってめでたしめでたしの話なのではと
思ってしまうのです。
心の弱いものは精神を病んだりして脱落していくが、芯がしっかりとした
者は厳しいミッションもこなして友も救い自身もぶれないことを表して
いるのではと思ってしまうのです。
つまりは見る側の故郷とか愛国心とは別に友を失ったり人生を壊して
いってしまうということもあるけれど戦争が強くして成功する
こともあるという事もテーマになっていると思うのです。
誰かがデニーロのように強く時には友を救い、救出に舞い戻ったりして
強くリードする存在がいてそれは戦争という経験を自分のものとして
さらに強くなるという事を訴えかけられたように感じます。
観る側は壊されるものの方が多いとかよその国に行って介入するから
こんなことになり、アメリカ最悪の戦争となったと反戦ムードに
浸りたいベトナム戦争ですが、マイケルチミノはそういってないと
みえます。
それでいいのかはそれぞれが思うことで故郷に戻ってまた昔のように
鹿狩りに出るも仲間はまた酔っぱらいながらいたずらに鹿を打ち
一発で仕留められなくて素手で追いかけまわしたりしているのと対比で
デニーロは追いかけ一発で仕留めるチャンスがありながらわざとはずして
満足かと鹿に問いかけるところはまさにどちらが正しいのかといわんばかり
のシーンなのです。
この青春の一ページの後を想像するとデニーロはその後も軍にかかわり
故郷には戻らず、それなりに出世していきメリルストリーブと幸せに
暮らすのです。そして、故郷の仲間は製鉄場は廃工場となり酒場も
当然つぶれて故郷の仲間はてんでんとなり、戦争で下半身不随と
なったステーブンは年金でどうにか生き延びる物の後はホームレス同様
の生活で行方不明の人もあるという感じなのではと考えます。
それでもこんな狂気を繰り返してはならいというメッセージと
受け止めるべきなのでしょうか。
私はベトナム戦争などその後のイランイラク戦争など果たしてアメリカが
介入するべきだとは思っていません。
逆に武器の流通を減らして世界の内戦をなくすことも本来なら
可能なはずです。
まずは武器を捨てることを国内からそして海外につなげることこそ
今のアメリカに必要なことに思います。