King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

「パーフェクトマン」をみて

2022年09月27日 10時34分42秒 | 珈琲
毎日ビデオばかりでどこも出掛けない日々ですが来月は豊島との交流があり久々のお出掛けもあります。さて、今回はこのビデオをみたことを書いておきます。見終わった後実に嫌な気分を引きずったからでこれはなんだろうかとしばしかんがえたのでした。タイトルの通り完全犯罪が行われるというものなのですが、物語としては世の格差がテーマだったり、物語のプロットとして入れ替りや成り済ましは昔からある手法で一旦はそのなりすましが格差社会の上流社会に侵入を果たし成功を味わうのですがそれを脅かすものの干渉がありそれに対する噓や対処でどんどんドツボにはまっていくのですがその窮地が彼の本物を引き出し今までにない作品を産み出すことにも成功し、警察の手も免れて元の仕事と無名な格差の底辺に戻るというものなのですが、見終わったらなにこれで終わりとおもってしまったのです。数々の犯罪行為が隠蔽されてしまった気持ち悪さよりも本来華麗なるギャッビーや太陽が一杯のように主人公が成功に浸るその瞬間に物事の崩壊が始まり、それまで主人公と一緒だった気持ちと非日常とを引き剥がしてくれる事件の暴露や破綻がカタストロフィーとなるのですが、事件は隠蔽され元の底辺に戻ってしまい実の名前さえ失ってしまうというのは成功とか完全犯罪といえる問題だろうか。そもそも我々庶民はその無名で顔が知られたり世間に広く認められるでもなく生きているその安寧に気がつきません。どこどこのラーメン店に並んでいても誰も気にされないし何処に行くのにもうるさく人が付きまとうこともないのです。そんな自由と特別な存在でない誰にも気にされない特権に気がつかずわざわざ不自由な特権階級やセレブといわれる人の仲間になりたがるのです。映画の舞台の地中海を望む別荘や地中海クルージングは魅力で何時かは味わいたいと思うものの犯罪や噓を重ね追い詰められていく思いはしたくないのです。普段の生活は犯罪や追い詰められていく状況にないものの物語で主人公と段々気持ちが重なって物語が進むうちやはり自分でよかったと思わせる主人公の破綻、破滅は必須なのです。それは勧善懲悪とかコンプライアンスとは別の意味でです。
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