蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

十返舎一九  (bon)

2021-08-06 | 日々雑感、散策、旅行

         全国的に猛暑が続いていますが、暦では明日(8/7)が立秋なんですね。 
         オリンピックの記録とともに新型コロナ感染者も過去最多を記録しています。オリンピックが
         実施されているとの心のゆるみがあるのか、誰かが言っていましたが、感染者は急増しているが、
     重症者、
死亡者はそれほど増加していないとの考えがあるのでしょうか? しかし、病床は
         逼迫しており自宅療養者が増加し、医療崩壊状況にあるわけで「宣言」を発するだけでなく
     何とかできないものでしょうか?

 

 あの『東海道中膝栗毛』で有名な、十返舎一九です。 旧暦の8月7日が忌日なん
ですね。

 かなり前のことでしたが、東京中央区の都営地下鉄大江戸線 勝どき駅から清澄
通をちょっと南下したところの橋のたもとに、十返舎一九の「辞世の句」が刻まれ
た碑がひっそりとあったのを想い出しました。 後で調べましたら、その橋をすぐ
に入ったところの日蓮宗のお寺「東陽院」に彼のお墓があるそうです。

 辞世の句『この世をば どりやおいとまに 線香の 煙と共に 灰左様なら』

       十返舎一九
        (ウイキペディアより)

 十返舎一九は本姓を重田といい、1765年駿河(静岡市)に生まれ、江戸に出て
武家奉公していましたが、19歳の時大阪に移り材木商の家に入婿しました。芝居や
寄席にうつつを抜かし、家業はそっちのけで、大酒飲みとなり婚家を追い出されます。
 30歳のころ再び江戸町人の入婿となりますが、放蕩のためまたまた離婚されてし
まうというしまらない生き様ではありました。 が、江戸では、日本橋の出版業者・
蔦屋重三郎付の作家となり、多くの黄表紙・洒落本を書き、なかでも「東海道中膝
栗毛」が大あたり、長年にわたって連作して行くのです。 

      東海道中膝栗毛
       (ネット画像より)

 東海道中膝栗毛は、1802年から14年までの間次々と初刷りされてゆくのです。
この当時、文筆だけで生計を立てるのは珍しかったようですがそれだけの市場が
あったということが言えますね。
 1802年には、品川~箱根、翌年は箱根~蒲原~岡部、さらに翌年は・・という
具合に、京都、大阪まで主人公の 弥次郎兵衛と喜多八が旅先での失敗談や庶民の
生活・文化を描いたシリーズものとして大いに受け、今日でも娯楽メディアの中で
息づいていると言えます。 また、一九には絵心えがあり、挿絵なども自筆したと
あります。

 そんな一九は、酒には目がなく、すべて酒に代え、酒を飲むために筆をとったと
いわれ、晩年は目を悪くし、中風から手足も不自由になって、1832年 66歳で世を
去りました。東陽院の墓石に先の辞世の句が刻まれているそうです。

       墓石
      (東陽院HPより)

 エピソードには次のようなくだりがありました。

 一九は死の直前門弟を呼んで 「死んでも湯灌をせず、着物も変えるな。このま
まの姿で棺桶に入れて必ず火葬にせよ」と厳命した。門弟がその通り火葬にしよう
とした瞬間、すさまじい爆音とともに、いくつもの花火が星のように上がった。
 一九が線香花火を一杯詰めていたからだそうですが、弔いに来ていた人々は腰を
抜かすほど驚いた・・という逸話は、初代林家正蔵の創作とされているとありまし
たが、いかにも戯作者らしく、辞世の句で詠んだとおりの破天荒の最期を遂げたの
かもしれません。

 

十返舎一九「東海道中膝栗毛 小田原の宿 」(ラジオドラマ)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする