蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

『八月や・・』  (bon)

2021-08-16 | 日々雑感、散策、旅行

          テレビは、少し前にはオリンピックの競技映像が終日流れていましたが、今は、各地の
           大雨・洪水による恐ろしい状況が終日伝えられています。折からの新型コロナ禍と相まって
           大変な状況になっています。 昨日正午は、全国戦没者追悼式もようが日本武道館より
           中継されました。あれから76年が過ぎたのです。感染拡大を受けて参列者は大幅に縮小
           されました。各地方での追悼式も縮小あるいは中止されているそうです。



 『八月や 六日九日 十五日』 (詠み人知らず)

  俳句の世界では「知られた一句」だそうです。過去に数々の俳人が詠んでいて、
類似の句が多数存在するため、「詠み人知らず」として扱われていることが多いと
ありました。
 私は俳句はできませんが、先の大戦をうまく詠んでいると感心しています。六日
は広島原爆忌、九日は長崎原爆忌、そして十五日は終戦の日ですね。

  私は、田舎に疎開していましたから戦争を直接には知らないのですが、その後に
広島も長崎も何度か訪れた中から、全く個人的なお話で恐縮すが、当ブログの過去
の記事を引用しながらこのそれぞれを想い起こしてみました。

<広島>
 高校1年(1955年)の夏休みに、家も近くで仲良しのM君と二人して、中学3年の
担任であったT先生を尋ねて広島に遊びに行きました。先生は、中学の担任を終え
てすぐにご出身である広島の修道高校の先生で戻られたのでした。

 先生の下宿は街の中心部から少し離れたところにありましたが、先生は平和記念
公園、原爆記念館、原爆ドームなどを丁寧に案内して下さいました。 宮島や、比
治山などの観光地にも連れて行っていただきました。冗談などあまり言わない生真
面目で学術肌の先生でしたが、下宿の同僚とは お酒を毎晩飲んでいたようです。

   M君と平和公園にて        先生の下宿で(真ん中が先生)
           

 このT先生によって、私は、中学から普通高校を受験することになったのでした。
ラジオ制作や電気工作ごとが好きで、中学を出たらすぐに工業高校に行きたいと思
っていましたら、先生に説得されて普通高校に通うことになり その後の私の人生は
大きく変わったのでした。 その恩師も、5年前に他界されましたが、先生を広島
に尋ねた数日間の想い出はいつまでも鮮明に蘇ってきます。

<長崎>
 長崎には、高校の修学旅行やその後会社の仕事などでも何度か訪問しています。
名だたる観光地を巡り、大浦天主堂や平和公園の平和祈念像も印象に残っています。

 ずっと後に、この平和祈念像の原型があることを知りました。
2011年に散策仲間で、井之頭恩賜公園(武蔵野市)に行ったとき、そこの「彫刻園」
に(長崎の)平和祈念像作者の北村西望氏(明治17年生)が製作した見ごたえのある
彫刻の数々を鑑賞しましたが、果たして、長崎の平和祈念像の原型がそこにあった
のでした。大きさは、長崎のよりはかなり小さいですが、それでも見上げる大きさ
でした。

      平和祈念像原型
       

<終戦> 
 昨日正午には、全国戦没者追悼式が日本武道館にて行われ、310万人に及ぶ犠牲者
の霊に祈りを捧げ、当時の戦火に思いを寄せ二度と繰り返さない決意が述べられて
いました。


 1939年生まれの私は、日本がこの戦争に参戦してちょっとした頃には、奈良県磯
城郡田原本町というところに疎開していました。なので、直接には戦争の怖さや、
空襲の恐ろしさみたいな経験はなく、戦争の記憶といえば、上空 頭の上をB-29 の
編隊がゴーゴーと音を立てて大阪方面に向かうことや、町内での戦闘訓練、灯火管
制、幼稚園への通いには胸に名札が縫い付けられた服に、防空頭巾を持参していた
ことくらいです。ただ、時々、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴る時には、ど
こか緊張した感覚がありました。
        

 8月15日の玉音放送も直接聞いた記憶はなく、それから2年くらいは戦争が終わっ
たことも大して意に介せず、その後も同じように物が不足し、食べるものも限られ
た不自由な生活だったと思うばかりです。

 しかし、こんなことを言えるくらいなのだから、幸せ過ぎたのでしょう。戦火を
知らずに来れたことを感謝すべきなんです。

 戦後しばらくして大阪に戻るまで1年近く、母親が病気で入院していた堂島川に
面した阪大病院に疎開先の田原本から毎週のように見舞いに来て、病室で寝泊まり
して、窓の外に堂島川を引き船が行き交う景色などを覚えています。

 そんなこんなで確か小学校2年の中頃は学校を休んでいて3学期から大阪の桃谷小
学校に転校してきました。 家は生まれたところではなく、上本町2丁目というと
ころで、家のすぐ前には市電が通っているような街中でした。
 この時期は復興が始まっていましたが、周りにはまだ焼け跡があちこち残されて
いて、大阪城の掘りにも水が
なく、環状線の外側は焼け跡で荒れたままのところも
ありました。

         環状線付近のアパッチ村(焼け跡)
        (ネット画像より)

 家から2~3分のところに、後に通うこととなる清水谷高校があり、西グラウンド
は当時はまだ焼け跡でした。

             

 終戦から76年が過ぎ 、世の中は全く様変わりし、今や豊かな成熟社会を迎えて
います。しかし、少子高齢社会に突入し、地球温暖化などによる種々の問題を抱え、
直近ではさらに新型コロナによるこれまでに経験したことのない問題に直面してい
ます。

 「平和ボケ」と指摘する人もいますが、このような節目をとらえて、今何をなす
べきか、即刻対応すべきこと、将来に向けた行動を起こすことなど明確に峻別し大
胆に実行されることを願ってやみません。

 

 

東京大衆歌謡楽団 令和三年七月五日 浅草神社 夏詣 奉納演奏

 

 

 

コメント (2)
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