このところ霞が関界隈は総裁選を控え、さらには衆院選挙をにらんで慌ただしい
動きにあるようです。政争はいつの世も激しい展開が繰り広げられていますが、こ
れは大昔から連綿と続いていることなんですね。
かって(2017.8.31)、当ブログに記事アップしました「大伴家持」について
もう一度この人の波乱に富んだ人生を振り返ってみました。
大伴家持(小倉百人一首)
(ウイキペディアより)
ウイキペディアによれば、『大伴家持は、奈良時代の公卿・歌人、大納言・大伴
旅人の子。官位は獣三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言。』
とあり、大伴家持は「万葉集」編纂に係る歌人として有名でありますが、大伴氏は
大和朝廷以来の武門の家系で、家持から遡ってたどると、古墳時代の大伴室屋にた
どり着き、以降、大伴談(かたり465)―大伴金村―大伴咋(飛鳥時代)―大伴長徳
(651)―大伴安麻呂(714)―大伴旅人(751)―大伴家持(718―785)と続くの
です。
また、この中で大伴咋の娘と中臣御食子の間に生まれた中臣鎌足(藤原鎌足)が
いるのです。
大伴家持は718年頃の生まれで、亡くなったのは、785年 8月28日(旧暦)とあり
ます。
で、何度も左遷されながら中央政界に復帰し、政争の中を生き抜いて中納言にま
で昇進した大伴家持像を先のブログから引用したりしてちょっと辿ってみました。
大納言大伴旅人を父として、由緒正しい家柄に生まれます。父が大宰府に赴任し
ていたため、家持は小さい頃はこの地に住んでいて、13歳ころに父親と共に京に戻
ってくるのですが、帰京した翌年に父親が亡くなり、若くして家持が一家を背負う
ことになります。
20歳頃に、はじめて内舎人(うどねり=律令制で、中務(なかつかさ)省に属して
天皇の雑役や警衛に当たる官)として朝廷に出仕します。 その後、正六位上、従
五位下と昇進して、746年、宮内大輔(律令制の次官)になり、この年、越中守として
赴任するのです。 当時の最高権力者である橘氏が新興貴族の藤原氏を抑える布石
として要地に派遣した栄転であるとする説があるようです。
大伴家持の昇進推移を、勝手にグラフ化してみました。
越中国には、5年在任しており、公私ともに充実した日々を送っていたと思われ
ます。 従五位上(軍隊で言えば大佐?)に昇進しますし、万葉集への自歌223首
(家持総歌数 473首の約半数)を詠んでいます。
帰京し、少納言となり、続いて兵部少輔、757年には兵部大輔となりますが、橘氏
事件に絡み 因幡守(従五位下相当)に左遷され、764年には、藤原氏の報復人事に
より薩摩守(従六位下相当)に大きく格下げされるのです。770年には、正五位下
(少将?)となりますが、従五位上から正五位下まで、ナント21年もかかり、772年、
従四位下になるまでに23年を要すのです。
「高岡市万葉歴史館、大伴家持の生涯と万葉集」によれば、『 官職は都と地方と
の間をめまぐるしく往き来しており 、大伴氏の氏上としては恵まれていなかった
ことがうかがわれます。 橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、さらに藤原氏の
大伴氏に対する圧迫を受け続けていたのでしょう。 家持は一族を存続するため、
ひたすら抗争の圏外に身を置こうとしますが、そのため同族の信を失うこともあっ
たようで、一族の長として奮起しなくてはならぬという責務と、あきらめとの間を
迷い続けていたことを、『万葉集』に残した歌(4465・4468など)からうかがうこ
とができます。』とあります。
その後6年間は、途中 相模守、伊勢守などの地方勤務もありますが、ま、順調に
昇進し778年に正四位下、続いて参議、781年には春宮太夫となり、とうとう正四位上
から同年のうちに従三位となりますが、直後に、氷上川継の乱連座の疑いから、解
官されるのですが、これはすぐに復位されて翌年(783年)中納言の職を得るのです。
時に66歳の頃です。持節征東将軍として陸奥方面の責任者となりますが、785年に
亡くなります。享年68歳でした。
埋葬も済んでいない 死後20日余り後、藤原種継暗殺事件に首謀者として関与して
いたことが発覚し、除名され、領地没収のうえ、実子の永主は隠岐に流されてしま
うのです。その後、20年以上も経った 806年に、旧の官位(従三位)に復位された
そうです。
遥か奈良時代の遠い昔においても、人の社会は、現代の組織社会と殆ど変わらず
似ているのだな~と思います。
万葉集については、先のブログからのコピペで手抜きしました。
『ところで、有名な万葉集について、簡単に整理しておきますと、万葉集4516首
のうち、473首が家持の歌で、上述しましたが越中守在任の 5年間が最多で 223首、
それ以前が14年間で158首、越中守以降 8年間で92首詠んでいます。つまり、759年
に因幡守に赴任した新年の歌会までで終わっています。「この歌のあと家持の歌は
残されていません。家持がこの後、歌を詠まなかったのかどうかもわかりません」
とありました。
また、百人一首にあります
「かささぎの渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける」は、万葉集には
入集していないのです。』
また、大日本帝国政府が制定したテーマ曲で、大本営発表が玉砕を伝える際に、
必ず冒頭曲として流された『海ゆかば』(大伴家持作詩、信時潔作曲)は、彼の
『陸奥国に金を出す詔書を賀す歌』の一部分から引用されています。
さらに、元号『令和』の出展については、彼の父、大伴旅人が太宰府の長官とし
て任にあったころ、旅人邸で催された『梅花の宴』で詠まれた32首がまとめて万葉集
に掲載され、その序文の一節からとあります。以下の始まりの部分です。
梅花の宴(現代)
(ネット画像より)
『天平二年の正月の十三日に、師老(そちろう)の宅へあつまりて、宴会(うたげ)
を申(の)ぶ。時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)
ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)く。蘭(らん)は珮後(は
いご)の香を薫らす。・・』
【大伴氏】天孫族を導いた!?古代日本の軍事を担った大豪族の軌跡
令和ゆかりの太宰府市 万葉の時代に思い馳せ「梅花の宴」 (21/02/13 19:00)