なに、これ?
大震災の中、昨日は統一地方選挙(前半)が終わり、新しい顔ぶれが決まりました。大阪維新の会が躍進しました。
突然で申し訳ありませんが、先日、私が所属するランチの会で大和三山の話から、古代の文化がなぜ内陸の大和あたりに置かれたのだろうか?との疑問などもあり、ちょっと考えてみたら、確かにそうだ・・・。
私が育った家の近くに高津宮址があったし、北の方には難波宮跡が整備されたりしていて、
また、出身高校の前身旧制女学校の校歌に・・
「♪高津の宮を南にし、浪華の城を北に見て・・・」(山口重樹作詞)
というのも耳にしていましたので、何となく興味を持ち調べてみました。
古代、文化は大陸から九州を経て、まず河内に上陸したのに、なぜ 生駒山を越えて内陸の大和に王都が出来たのか? なぜ、我が国における王権の発生が、先ず河内ではなく内陸の大和なのか? その答えは、古代の地形にあった。
縄文時代前半(6~7000年前)は、現在の河内平野は海であった。弥生時代(2~3000年前)に入っても、河内湖と呼ばれるような状態であった。
つまり、和泉山脈から北へ上町台地が延びておりその北も東西も海で、生駒山の西麓に、今の交野から枚方にかけて豪族「物部氏」が支配していた。
しかし、やはり狭いためにやがて、生駒西麓から大和に入って政治権力を持つにいたった。
第16代、仁徳天皇が初めて難波(なにわ)に都をおいた。彼の皇子時代に難波にいたこともあるが、
父の応神天皇後の王位継承問題に絡む争いから、結局 仁徳天皇が奪うのであるが、やや悪辣のそしりをまぬかれない行為などの為、大和を引き払って、地形戦略的には不利な難波に都を移してしまった。
我々が知る仁徳天皇は、高台から民のかまどの煙をみて、民の窮乏をしる・・・聖君のイメージである。確かに、土木事業を奨励し治水、農地確保など民にとって聖君であったようではある。
で、その都の中心は難波のどこいら当たりかというと、それが難波津と呼ばれる上町台地の北の堀江のあたりで、今の玉造付近のようで、仁徳天皇の高津宮もその名称から見て津の上の高台であったと考えられている。大阪城の南に難波宮址(後述)があるが、この大阪城のあたりが昔の台地の先端にあたり、したがって高津宮は上町台地の先端から1Km位南のところとみなされる。
難波高津宮については、仁徳天皇1500年祭に大阪府が記念建立した「高津宮址」は、現高津高校内にある。神社の高津宮は、谷町9丁目に近い高津1番地にある。
高津高校内の高津宮址の碑
難波宮については、これより200年弱後の大化の改新で有名な孝徳天皇によりふたたび大和から難波に遷都されたのだが、長くなるので次回に譲ります。ここでも、確執と陰謀が渦巻く物語の連続であり、都も孝徳天皇の後は再び大和(飛鳥)に移り、藤原宮から710年平城遷都につながってくるのですね。 (昨年、平城遷都1300年)
(出典:「飛鳥と難波」鳥越憲三郎保育社 S53重版、ネット他)
浦のあけくれ 混声合唱です。
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