相模原市緑区相原に永平寺と總持寺を本山とする関東百八地蔵尊霊場の曹洞宗寺院「龍源山正泉寺」はある。寺伝では天正19年(1591)に吉川下総守(文禄元年=1592没)が毛利家と吉川家の先祖菩提として屋敷内に堂宇を建立したのが興りである。慶長3年(1598)に功雲寺末寺となり、第9世州山洞益大和尚を請じて開山、「龍源山正泉禅寺」と改めた。本尊は虚空蔵菩薩である。明治6年政府の学制発布により当寺に「益進学舎」が開設、第17世の魯牛老師が教員を務めた。現在の「相模原市立相原小学校」の源流である。明治8年に名称を「相原学校」と変更した。その後、新校舎が相原177番地に完成し、その役目を引き継ぐまでの間ここで勉強が行われ、相原における近代教育の基礎を造る役割を担った。町田街道の長福時の左手の住宅街に鎮座。広大な寺域境内には堂々とした伽藍の数々は大寺の雰囲気である。寺号標より「山門」を抜けると正面に宝形造りの「本堂」、「阿弥陀堂」、右に「庫裏」、左に「鐘楼」がある。堂内には地蔵菩薩、十一面観音、普賢菩薩、達磨大師が祀られている。境内には阿彌陀仏、聖観音菩薩、水子地蔵、延命地蔵菩薩、如意輪観音、相模原市の有形文化財の「徳本念仏塔」等が建てられている。当寺は関東百八地蔵尊霊場の第91番札所である。(2002)
鶴川駅の南東町田市三輪に「桃源郷」とでもいうべき「三輪の里」がある。三輪城山を含むこの地域一帯の景観がなんでも大和国の「三輪の里」の風景に似ていることから現地名がついた。千数百年前この地に斉藤氏、荻野氏を遣わされて移住させた結果「三輪」の名称が付けられた。現在荻野氏の末裔は戦国時代には北条軍配下に属していたという。高蔵寺の右前方一帯の土地には四季の花で彩られる。2月中旬の晴天の今日訪れると自然のグラデーションを描いているかのように「赤、紅、ピンク、白の梅花」が咲き誇って満開となって見ごろを迎えている。梅園に入れないが、鑑賞客用に地主の工夫で園の周りには細い散策道が設けられていてロープ越しに鑑賞できる。梅花のあと三輪の里は寒緋桜、そして山桜、樹齢百年の枝垂桜、菜の花、チューリップ、スミレ、ヤマブキ、レンギョウ、ミツバツツジ、シャクナゲが四季のスライドショーを見ているかのように美しく変化し「桃源郷」の景色が創り出される。(2002)
かつて橋本宿であった一角、相模原市緑区橋本に鎌倉建長寺末寺の臨済宗寺院「橋本山香福禅寺」はある。1400年代初期に建長寺67世蔵海性珍が開山、矢嶋左近某が中興した。本尊は運慶作の「地蔵菩薩」である。風土記には当寺の支院として「延寿堂」と「常慶庵」があることが記載されている。秋葉大権現碑から進むと江戸時代後期建立の「四脚門」がある。門を潜ると境内正面には入り母屋造りの「本堂」があるが現在修復中であった、右には「客殿」がある。客殿の前には木々に囲まれた苔むした池が配置されいる。貞亨3年鋳造の「鐘楼」、本堂左手には橋本本宿より移された薬師如来を安置している「薬師堂」と「六地蔵」、禅庭中央には本堂前には威風堂々ご神木の存在感を示している樹齢400年超えの「高野槙の大樹」がある。(2002)
府中市南町に多摩川の是政緑地に隣接した自然多き場所に14hという広大な敷地に府中の自然、地形、風土の特色を表現した建築物を含む森全体が一体となった「野外博物館」はある。公園は四季の花が咲き乱れ、水辺や池に休息にやってくる多くのバードウォッチングもできる。今、「郷土の森公園」の「梅園」では2/1から「梅まつり」が開催されている。まつりも中盤を過ぎ約60種1100本の梅が個体のそれぞれの色、花姿で競演を繰り広げ佳境を迎えている。万葉集にも詠われ、古くから日本人に愛されてきた梅、それを観梅する人撮影する人で賑わっている。さすがに早咲きの「八重野梅」、「八重寒紅」、「冬至」、「白牡丹」は少なくなったが、中咲きの「白加賀」、「新茶青」、「月影」、「小梅」、「唐梅」、「思いのまま」、遅咲き「豊後」、「紅千鳥」、「小向」などまだ見頃となっている。新型コロナウイルス感染拡大している中、その防止のため2/22以降のイベントは中止となったようで残念である!!(2002)
相模原市緑区下九沢=塚場地区の鎮守「御嶽神社」は鎮座している。この神社は以前は「蔵王大権現」と呼ばれていたが、明治2年に「御嶽神社」と改称された。創建は応永元年(伝承)。応永年間(1394~1428)に「九沢山金泉寺」開山の源秀が勧請。祭神は日本武尊。鳥居を潜ると両脇に池がある。ひっそりとした参道を進むと「社務所」、「神楽殿」その奥正面に「本殿」がある。境内には「皇大神社」、「日枝神社」、「天満宮」が合祀されている。8月の例大祭では神奈川県指定無形民俗文化財、市登録無形民俗文化財となっている「獅子舞」が奉納され多くの人で大賑わいとなる。(2002)