著名な芸術監督誉田規一率いるHHカンパニーの新作バレエ「カイン」の主役に抜擢された藤谷誠が公演2日前に音信不通となり、誠の行方を追って関係者や実家を探し求める恋人の嶋貫あゆ子、誠の代役となるべくスタジオに泊まり込んで夜を徹してカインのパートの練習に励み続ける誠のルームメイトの尾上和馬、3年前にHHカンパニーの「for Giselle」の主役を直前に降ろされ休日にスタジオで自主練習していて熱中症で倒れ死亡した松浦穂乃果の父親松浦久文、藤谷誠の父違いの弟の画家藤谷豪と交際中またはセフレの不動産会社勤務の皆元有美らの視点から「カイン」の公演までの様子を描いたサスペンス小説。
誉田規一の非情さ、その指導/しごき/いじめを受けながら誉田に認められようと耐えて修行のような練習を続ける団員たちの情熱あるいは渇望の凄まじさが印象に残ります。今どきでは、誉田規一の言動はパワハラと指弾され、団員は狂信者と評価されるでしょうけれども、他方において、私たちは芸術やスポーツなどの世界で傑出した技を求め、それはそういった常軌を逸した厳しさ、さらに言えば通常の社会の感覚では律しきれない者たち、規格に収まらない者たちによって担われてきたものであろうと思います。超人的なプレイを求めつつ、その練習等の過程でのパワハラを非難する、さらには人格的にも模範生であることさえ求めるという、昨今のメディアや観衆のありようについて考えさせられる作品でもあります。
この作品では、そしてHHカンパニーの公演「カイン」では、神が弟アベルを寵愛したことに兄のカインが嫉妬してアベルを殺害し「人類最初の殺人者」となったという旧約聖書のエピソードを採り上げています。このエピソードは安倍元総理殺害事件を契機に自民党との癒着ぶりが広く報道された統一教会の教理のとても重要な部分となっています。私は、1990年代初めに裁判で霊感商法は統一教会が信者にやらせているということを論証する準備書面をひと夏かけて書き、その際に統一教会の教理解説書(統一教会では「経典」とは言いません)である「原理講論」を読んでその内容を検討しました。もちろん、もうあまり覚えていませんが、そのとき、「原理講論」の内容を強引に一言で表すとすれば「アベルとカインの歴史は繰り返す」だと、確か書いたと記憶しています。原理講論は、前半では聖書に独自の解釈を施しているのですが、その中で、カインは、神により愛されたアベルに対して従順に屈服すべきであったのにそうせずにカインを殺害した、それが人間の罪/原罪だと評価しています。そして原理講論の後半は、その後の歴史をやはり独自の視点で解説しているのですが、そこでは歴史上の事実をことごとくカインの犯した罪などになぞらえて人間はこのように罪を重ねてきたと繰り返しています。通し読みしていると、人間は神に救われる機会があったのに何度も過ちを犯し罪を重ねてきたと、絶望的な気持ちになります(端から疑ってかかって読んでいる私でさえ、そう感じました)。そして、その罪深い人間を救ってくれるのが「再臨のメシア」文鮮明なのだとされていました(文鮮明の死後どのように説明がされたのかは、私はその後関わっていないので知りませんけど)し、その先祖の犯した罪を日本流に翻訳すると殺傷因縁であったり色情因縁であったりという霊感商法のトークに繋がっていくわけです。こういう時期にアベルとカインの話を読んで、ずいぶんと久しぶりにそういうことを思い出しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_shock2.gif)
芦沢央 文春文庫 2022年8月10日発行(単行本は2019年8月)
誉田規一の非情さ、その指導/しごき/いじめを受けながら誉田に認められようと耐えて修行のような練習を続ける団員たちの情熱あるいは渇望の凄まじさが印象に残ります。今どきでは、誉田規一の言動はパワハラと指弾され、団員は狂信者と評価されるでしょうけれども、他方において、私たちは芸術やスポーツなどの世界で傑出した技を求め、それはそういった常軌を逸した厳しさ、さらに言えば通常の社会の感覚では律しきれない者たち、規格に収まらない者たちによって担われてきたものであろうと思います。超人的なプレイを求めつつ、その練習等の過程でのパワハラを非難する、さらには人格的にも模範生であることさえ求めるという、昨今のメディアや観衆のありようについて考えさせられる作品でもあります。
この作品では、そしてHHカンパニーの公演「カイン」では、神が弟アベルを寵愛したことに兄のカインが嫉妬してアベルを殺害し「人類最初の殺人者」となったという旧約聖書のエピソードを採り上げています。このエピソードは安倍元総理殺害事件を契機に自民党との癒着ぶりが広く報道された統一教会の教理のとても重要な部分となっています。私は、1990年代初めに裁判で霊感商法は統一教会が信者にやらせているということを論証する準備書面をひと夏かけて書き、その際に統一教会の教理解説書(統一教会では「経典」とは言いません)である「原理講論」を読んでその内容を検討しました。もちろん、もうあまり覚えていませんが、そのとき、「原理講論」の内容を強引に一言で表すとすれば「アベルとカインの歴史は繰り返す」だと、確か書いたと記憶しています。原理講論は、前半では聖書に独自の解釈を施しているのですが、その中で、カインは、神により愛されたアベルに対して従順に屈服すべきであったのにそうせずにカインを殺害した、それが人間の罪/原罪だと評価しています。そして原理講論の後半は、その後の歴史をやはり独自の視点で解説しているのですが、そこでは歴史上の事実をことごとくカインの犯した罪などになぞらえて人間はこのように罪を重ねてきたと繰り返しています。通し読みしていると、人間は神に救われる機会があったのに何度も過ちを犯し罪を重ねてきたと、絶望的な気持ちになります(端から疑ってかかって読んでいる私でさえ、そう感じました)。そして、その罪深い人間を救ってくれるのが「再臨のメシア」文鮮明なのだとされていました(文鮮明の死後どのように説明がされたのかは、私はその後関わっていないので知りませんけど)し、その先祖の犯した罪を日本流に翻訳すると殺傷因縁であったり色情因縁であったりという霊感商法のトークに繋がっていくわけです。こういう時期にアベルとカインの話を読んで、ずいぶんと久しぶりにそういうことを思い出しました。
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芦沢央 文春文庫 2022年8月10日発行(単行本は2019年8月)