人は他の人々が支持するものを支持しがちであり、人の行動を動機づけるのは、自分が受け取ったメッセージを他の人びとも受け取っただけではなく他の人びとがメッセージを受け取ったということを他の人びとも知っているということを知ること、他の人びとの知識についての知識/メタ知識/共通知識である、その共通知識を作り出す優れた方法/過程が式典や集会などの公共的儀式であることなどを論じた本。
著者は、政府への抗議行動への参加の動機付けとして、誰もが逮捕されたり警官に制圧されたりしないくらいに抗議者の数が多い場合だけ政府への抗議行動に参加したいと思っているかもしれない(5ページ)、「協調問題」と呼ばれる状況下では他の人びとも同じように参加する限りにおいて自分もある共同的行動に参加したいと思っている(12ページ)、体制に反抗することは協調問題である(16ページ)などと、反体制運動作りを志向するかのような雰囲気を漂わせています。しかし、この本で挙げられ論じられていることの多くは、むしろ権力者が人びとの支持を得熱狂させ反抗など思いもよらぬ体制を構築する様であったり大企業のマーケティングであったりで、私にはそれほど志のあるものには見えませんでした。
著者は、協調問題では「他の人びとの知識についての知識」(5ページ)、「他の人びとが知っているということを人びとが知っていること」(13ページ)、「集団の中で、ある事象あるいは事実について、皆がそれを知っており、皆がそれについて知っていることを皆が知っており、皆がそれについて知っていることを皆が知っていることを皆が知っている」(14ページ)ことが大事であり、ポイントになることを繰り返しているのですが、著者自身の言葉が足りないのか翻訳の問題なのかわかりませんが、違うだろうと思います。行動あるいは行動しないことの動機付けには、他人が何を「知っているか」の知識ではなく、他人がそれを受けて何を考えているかの評価とどう行動するかの予測、それが自分の考えと一致するのか一致しないのかが問題であり、それを言葉以外からも判断・評価するために多数の他者が目の前にいる状況=集会、行進、「内向きの円形構造」(42~46ページ)、公共的儀式が重要であり有用なのでしょう。著者が言っていることもそういうことに思えるのに、まとめる言葉は「知識」「メタ知識」「共通知識」というどこかズレたところにフラストレーションを持ち続けました。
この本の原書は2001年に出版され、それが日本でその年のうちに新曜社から出版され、アメリカで2013年に「2013年版へのあとがき」が付されただけの2013年版が出版され、そのアメリカの2013年版に「新版へのまえがき」が付されただけで日本でみすず書房が改題した新訳本として出版したものだそうです。つまり中身は2001年に出版されたもののままとのことです。これを今出版することの意味はどこにあるのでしょう。SNSがなかった頃に書いたものを、「2001年に先取りで考察していた本書を、新たに『序文』『あとがき』を加えて刊行する」(裏表紙)よりも、SNSが、LINEの既読が、Facebookのいいね!が、Retweetが、著者の言う「メタ知識」「共通知識」の形成にどう影響するのか、著者が重視したアイコンタクト、「私たちは経験的に、共通知識が顔を向き合わせて会うことによって形成されることを知っている」(100メージ)という認識が変更/変容されるのか、SNSが代替しうるのかについて論じるべきではないのか、この状況で著者がなぜ無害な短いあとがきやまえがきしか書こうとしないのか、訝しく思います。
原題:RATIONAL RITUAL : Culture, Coordination, and Common Knowledge
マイケル・S-Y.チェ 訳:安田雪
みすず書房 2022年6月10日発行(原書は2001年)
著者は、政府への抗議行動への参加の動機付けとして、誰もが逮捕されたり警官に制圧されたりしないくらいに抗議者の数が多い場合だけ政府への抗議行動に参加したいと思っているかもしれない(5ページ)、「協調問題」と呼ばれる状況下では他の人びとも同じように参加する限りにおいて自分もある共同的行動に参加したいと思っている(12ページ)、体制に反抗することは協調問題である(16ページ)などと、反体制運動作りを志向するかのような雰囲気を漂わせています。しかし、この本で挙げられ論じられていることの多くは、むしろ権力者が人びとの支持を得熱狂させ反抗など思いもよらぬ体制を構築する様であったり大企業のマーケティングであったりで、私にはそれほど志のあるものには見えませんでした。
著者は、協調問題では「他の人びとの知識についての知識」(5ページ)、「他の人びとが知っているということを人びとが知っていること」(13ページ)、「集団の中で、ある事象あるいは事実について、皆がそれを知っており、皆がそれについて知っていることを皆が知っており、皆がそれについて知っていることを皆が知っていることを皆が知っている」(14ページ)ことが大事であり、ポイントになることを繰り返しているのですが、著者自身の言葉が足りないのか翻訳の問題なのかわかりませんが、違うだろうと思います。行動あるいは行動しないことの動機付けには、他人が何を「知っているか」の知識ではなく、他人がそれを受けて何を考えているかの評価とどう行動するかの予測、それが自分の考えと一致するのか一致しないのかが問題であり、それを言葉以外からも判断・評価するために多数の他者が目の前にいる状況=集会、行進、「内向きの円形構造」(42~46ページ)、公共的儀式が重要であり有用なのでしょう。著者が言っていることもそういうことに思えるのに、まとめる言葉は「知識」「メタ知識」「共通知識」というどこかズレたところにフラストレーションを持ち続けました。
この本の原書は2001年に出版され、それが日本でその年のうちに新曜社から出版され、アメリカで2013年に「2013年版へのあとがき」が付されただけの2013年版が出版され、そのアメリカの2013年版に「新版へのまえがき」が付されただけで日本でみすず書房が改題した新訳本として出版したものだそうです。つまり中身は2001年に出版されたもののままとのことです。これを今出版することの意味はどこにあるのでしょう。SNSがなかった頃に書いたものを、「2001年に先取りで考察していた本書を、新たに『序文』『あとがき』を加えて刊行する」(裏表紙)よりも、SNSが、LINEの既読が、Facebookのいいね!が、Retweetが、著者の言う「メタ知識」「共通知識」の形成にどう影響するのか、著者が重視したアイコンタクト、「私たちは経験的に、共通知識が顔を向き合わせて会うことによって形成されることを知っている」(100メージ)という認識が変更/変容されるのか、SNSが代替しうるのかについて論じるべきではないのか、この状況で著者がなぜ無害な短いあとがきやまえがきしか書こうとしないのか、訝しく思います。
原題:RATIONAL RITUAL : Culture, Coordination, and Common Knowledge
マイケル・S-Y.チェ 訳:安田雪
みすず書房 2022年6月10日発行(原書は2001年)