戦後の主な少年事件を採り上げ、それに対する社会の受け止め方、司法の対応などの変化を論じた本。
1997年の神戸連続児童殺傷事件を機に、少年事件を抑制的に扱うのではなく大きく報道するようになり、加害少年の生い立ち等を掘り下げて貧困や虐待に目を向ける報道は影を潜め、加害少年は特異で極端な存在とされ、被害者側にシフトした報道がなされるようになったという分析が示され(第6章、214~216ページ)、現在では「加害者が少年であろうと、成人であろうと、起こした結果がすべて。その責任は個人が負わなければならない――。令和の時代を迎えて、社会は少年を見放しつつあるのかもしれない」(202ページ)と述べられています。著者はそれを憂いているようであり、少年事件は社会の鏡と言われるが昨今の報道の少年事件報道の「退潮」は社会の鏡がひび割れてしまうことにつながるようにも思えるとも述べています(プロローグ、220ページ)。
しかし、著者はその報道の変化を、「踊らされる報道」(120ページ)などとして、事件の特異性によって報道が変化した、司法の対応が変化した(精神鑑定の多用等)、社会の受け止め方が変わったという見方を示しています。「じつは、新聞メディアは、世間の常識と離れた『極私』的なニュースを報じることが難しい。記事の裏側には、記者、キャップ、デスク、整理など複数の人間が関わり、ニュースのバランスを図る編集システムが確立されている。だから、おおよそ世間の常識ぐらいの感覚が記事に反映される」(211ページ)と、新聞は世間の常識を反映していると述べています。報道の変化は新聞の主導ではない、あくまでも事件(加害者)や司法の変化、そして世論の変化の表れに過ぎず新聞の責任ではないというのですね。神戸連続児童殺傷事件での「少年A」逮捕後のマスコミの大騒ぎの最中犯行時少年だった死刑囚の永山則夫が処刑されたことを、まるで偶然のように、権力の意図への疑い1つ示すことなく「余談」として触れている(146~147ページ)姿勢も合わせ、新聞記者がそういう捉え方でいいのか、私は疑問を感じました。
川名壮志 岩波新書 2022年9月21日発行
1997年の神戸連続児童殺傷事件を機に、少年事件を抑制的に扱うのではなく大きく報道するようになり、加害少年の生い立ち等を掘り下げて貧困や虐待に目を向ける報道は影を潜め、加害少年は特異で極端な存在とされ、被害者側にシフトした報道がなされるようになったという分析が示され(第6章、214~216ページ)、現在では「加害者が少年であろうと、成人であろうと、起こした結果がすべて。その責任は個人が負わなければならない――。令和の時代を迎えて、社会は少年を見放しつつあるのかもしれない」(202ページ)と述べられています。著者はそれを憂いているようであり、少年事件は社会の鏡と言われるが昨今の報道の少年事件報道の「退潮」は社会の鏡がひび割れてしまうことにつながるようにも思えるとも述べています(プロローグ、220ページ)。
しかし、著者はその報道の変化を、「踊らされる報道」(120ページ)などとして、事件の特異性によって報道が変化した、司法の対応が変化した(精神鑑定の多用等)、社会の受け止め方が変わったという見方を示しています。「じつは、新聞メディアは、世間の常識と離れた『極私』的なニュースを報じることが難しい。記事の裏側には、記者、キャップ、デスク、整理など複数の人間が関わり、ニュースのバランスを図る編集システムが確立されている。だから、おおよそ世間の常識ぐらいの感覚が記事に反映される」(211ページ)と、新聞は世間の常識を反映していると述べています。報道の変化は新聞の主導ではない、あくまでも事件(加害者)や司法の変化、そして世論の変化の表れに過ぎず新聞の責任ではないというのですね。神戸連続児童殺傷事件での「少年A」逮捕後のマスコミの大騒ぎの最中犯行時少年だった死刑囚の永山則夫が処刑されたことを、まるで偶然のように、権力の意図への疑い1つ示すことなく「余談」として触れている(146~147ページ)姿勢も合わせ、新聞記者がそういう捉え方でいいのか、私は疑問を感じました。
川名壮志 岩波新書 2022年9月21日発行