Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日から新学期?

2014年05月06日 23時09分46秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 明日から神奈川大学のエクステンション講座が始まる。長い春休みであった。しかも今回14講座も申し込んでしまった。
 俳句の講座はその影響で割愛してしまった。句会を兼ねた講座は昨年半年だけ受講して後期は申し込んでおらず、服部土芳の三冊子の購読だけを申し込んでいた。これはとても面白かった。講師の復本一郎氏の講義もとても歯切れがいいし、とても豊かな知識と経験をお持ちである。大変魅力的な方である。今回は去来と許六の往復書簡の購読ということでこれも受講したかったが、金額的に無理となった。今年度の後期にはまた申し込んでみたい。
 他にも申し込みたかった講座がいくつかあった。表題でいうと「昭和の民衆史」「丸山真男の近代思想史」「源平盛衰記を読む」等々。金銭的にも厳しいし、時間的にも他と重なるので受講が困難となった。
 この歳だから受講できるうちに受講してしまいたいという思いと、無理をしても頭が飽和状態になり、金銭的にも破たんするという事態との兼ね合いが難しい。
 組合の退職者会の仕事もあるし、この程度が限度と納得している。



 明日からの講座は「桃山絵画の四大巨匠を紐解く」(講師:藤浦正行氏)。狩野永徳、長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔等にスポットを当てて、鑑賞するというもの。等伯・友松ともに魅力たっぷりの画家である。楽しみである。

 また旧知の友人と同じ講座で同席するのはたしか土曜日からである。楽しみである。洗濯した講座がかなり重複している。問題意識が共通なのだろうか。そこらへんの本音もお互いに開陳したいものである。

 長い春休みであったが、宿題が残っている。先ほどアップした「バルテュス展」のその2が残っている。これは明日にはアップしたい。また、先日訪れた「日本絵画の魅惑」の後期展示を訪れた感想を書くこと。これは来週中に実行したい。そして退職者会のブロックの会報5月号の作成をである。これは17日締切で完成しなくてはいけない。いづれも時間との勝負である。結構時間に追われることになりそうだ。




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「バルテュス」展感想(その1)

2014年05月06日 19時06分43秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 「称賛と誤解だらけの、20世紀最後の巨匠」「これは本当にスキャンダラスなのか?」「その核心には、観た者しか迫れない。」「ピカソをして『20世紀最後の巨匠』といわしめた画家」といううたい文句が大きく先行する展覧会を見てきた。
 どうもコピーばかりが先行する展覧会で、「チラシを見た限りではあまり理解できないなぁ」という印象しか湧かなかった。
 これまでバルテュスという画家の作品はチラシの3面の左上にある「キャシーの化粧」(1933)位なものである。この絵を見ても三人とも顔がばらばらの方向を向き、視線はまったく交わらない。若い男女の破局直前の雰囲気すらあるが、かなり若いと思われる女性が裸体である必然性も伝わらず、何かスキャンダラスな絵にしか思えなかった。
 チラシでも「『この上なく完璧な美の象徴』(バルテュス)である少女を生涯にわたり描き続けた」と記載されているとおり、挑発的なポーズの少女達に戸惑いを感じていた。
 画家は1908年生れで2001年に亡くなっている。1967年59歳で25歳の日本女性と結婚している。今回の展示も彼女が大きくかかわっているようだ。

 今回展示を見るにあたって事前に疑問をいくつか整理しておいた。
 「少女」へのこだわりと何か。人物像以外の作品は何か。ピカソの言葉の意味は何か。画家にとっての「日本」とは何か。この4点について糸口があるのか探ってみたかった。



 画家は10代末からイタリアルネッサンス初期の画家フランチェスカ(15世紀)の模写を行い、大きな影響を受けたらしい。この画面はフランチェスカの「聖木の礼拝」の原画である。初期ルネッサンスということでビザンチン様式が色濃くあり、遠近法についての著作もあるようだが、この絵では平面的で立体感の少ない画面構成である。特徴は人物の顔・視線など相互関係があいまいである。と同時にドラマを内に包み込んで宗教画にふさわしい静謐な雰囲気を作り出している。人物の関係の曖昧性は若い画家に大きな影響を与えたように思う。

   

 上は「街路」(1933)、下は「コメルス・サンタンドレ小路」(1952-54)。この2点は今回の展示にはなく、図録から取った。ともに遠近感を無くした街角で、登場人物が互いに顔も視線も交わることなく、関係性を消滅させている。にも関わらずきわどいドラマ・事件が書き込まれている。「街路」では左端の男は痴漢行為であり、真ん中の人物は大きな材木用の物を抱え、こちら側を向いた男とともに傍若無人に通りを闊歩している。右の絵も左には男女の濃密と思われる語らいがある一方、老人と幼児が向かい合わせに座り込み、無関係な男女と犬が配置されている。一瞬の時間の停止によってもたらされる関係の喪失が、安定を失っている世界の象徴のようだ。現代の都市の中にあるシュールで喪失・不安・不条理の世界と初期ルネッサンスの画面構成上の特徴が技法的にどこかで通底しているというのが、私の直感のような理解である。
 意外とバルテュスという画家、古風な伝統の上にたった表現をしているのかもしれない。第一章「初期」の展示でそう思った。

 画家としての実質的なスタートは、1934年の個展からとなる。ここでは注目を惹くためにあえてスキャンダラスな絵を展示したということになっている。



 ここに掲げたモディリアーニの女性像を彷彿とさせる「鏡の中のアリス」(1933)、チラシの3枚目の左上の「キャシーの化粧」(1933)などとともに「乗馬服の少女」(1932)も出品された。
 「鏡の中のアリス」のモデルは兄の友人の妻であり、「キャシーの化粧」は後に妻となるアントワネットである。その容貌から「乗馬服の少女」も同じモデルと思われる。
 普通兄の友人の妻をこのように扇情的に描くことがあるであろうか。また21歳の恋人をこのように描いて展示するであろうか。私はスキャンダラスな個展にするために敢えてそのような絵を創造したのではなく、もともとアトリエの中で描きためていたものを発表しただけと考えた。
 すると私はこの「鏡の中のアリス」という成熟した女性に、男が誰でもが持つであろう性的な未成熟、あるいは成長期における性的な多少の傷・劣等感が反映しているように見えてきた。他の男より少しだけ事態が重く、通過が長く苦しかったのかもしれない。そのような倒錯を見ることもできるのではないか。

   

 そのような表現に行きついてしまうことは一般的には理解が困難かもしれないと思っているときに「乗馬服の少女」が目についた。さらにもう1枚、この展覧会の後に描かれた自画像がある。ここに掲げた「猫たちの王」(1935)である。
 まずこの自画像を見て私はこの画家が極めて自尊心が強く自己陶酔的なナルシズム的指向を強く感じた。女性に対しする支配の指向と同時に、その逆にストイックな関係も想定される。そして幼さを持つ若い婚約者をモデルにしたと思われる「乗馬服の少女」を見て、通過儀礼の若干の困難さが「少女」への憧憬に向いたものではないだろうか、と考えてみた。
 「鏡の中のアリス」はこれまでの情念への決別。「キャシーの化粧」と「乗馬服の少女」、「猫たちの王」は画家が将来に向けてこだわりを持って描く対象・衝動の発見でもあったのであろうと考えてみた。
 今回の回顧展では隠されているとしか思えない女性遍歴と、その遍歴を描く衝動としたと思われる画家の姿が浮かび上がってこない。
 40歳代前半までに「夢見るテレーズ」(1938、チラシ1枚目)、「眠る少女」(1943)、「美しい日々」(1946、チラシ2枚目上)、「決して来ない時」(1949、チラシ2枚目左下)、「猫と裸婦」(1950)などのスキャンダラスな少女の裸体画を執拗に発表していく。

 これらの作品に出て来る少女の足元にたたずむ猫が画家の分身であるらしいということと、「美しい日々」ではネコが登場せずに、暖炉に薪をくべている男が登場する。これも作者の分身と私は思えた。あの「猫たちの王」という自画像に出てきた画家本人であると思える。自己陶酔的な自画像の男が、少女のために奉仕するという「美」の象徴たる少女と画家の関係も示唆しているようだ。
 ここでもうひとつ気付くのは解説にもところどころ触れられているが、少女たちの格好は構図上の要請に基づいて不自然なものが多いが、古い絵画を倣ったものが多くあるようだ。画家の古典的な絵画への指向を強く感じた。決して西洋絵画の歴史からはみ出た絵画ではないようだ。顔の表情や視線の曖昧さ、ポーズの不思議さに対する違和感が薄れてくる。
 無垢な存在としての幼児と、大人の女性の境界に存在し、男との関係(性的成熟)に戸惑いつつ、自己を持て余しかねない危うい存在としての少女を、人間存在を解く重要な存在としてとらえようとした画家の執念すら感じた。
 スキャンダラスな扇情的なポルノ作品とは一線を画した絵画と云われるゆえんかもしれない。そこのところは、しかし私はまだよく理解できない。

 少女期・少年期の性的な抑圧状態とそれからの解放の希求は、女性性・男性性を根底からも問い直そうとする衝動すら伴っている。画家はこのような問いかけを後年までこだわり続けたのだろうか。ここら辺は私にはわからない。通過儀礼のようにいつの間にか青年になり、老年になり、衰えていく肉体と性的衝動と付き合っていくしかない私たちとは、かなりの異質を感じないでもない。しかしどこかでこれにこだわる気持ち、通底する気分も否定できない。いつまでたってもわからないことのひとつである。




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