Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

紫陽花が咲き始めた

2014年05月28日 23時45分30秒 | 俳句・短歌・詩等関連
   

 先々週だったと思うが、横浜駅から自宅に戻る途中の道路の街路樹の低木として植えられている紫陽花の花が咲き始めたのに気付いた。蕾から少しだけ青い色をつけた花がいくつか咲き始めていた。あれから二週間、ようやく濃い色の紫陽花が目につくようになった。
 この紫陽花は例年とても濃い青の花が咲いて見事である。毎年楽しみにしている。私は青というか、濃い深い紺色の紫陽花が好きである。
 七変化という別名は、咲きはじめは白で次第に色が変化することでつけられた名前だが、これが誤解を生んでいる。色が赤から青、あるいは青から赤に変化するというのではない。あくまでも白から赤、あるいは白から青また紫などの固有の色に変化するのである。
 赤、青の色を決定するのは、土の酸・アルカリによると云われる。酸性の土ならば青や紺に、アルカリ性の土ならば赤や赤紫になると記載されることが多い。
 ひとつの株であってもいろいろな色が咲くのは、同じ土壌でも枝によって色素の発色を変えるアルミニウムイオンの量に差があるためと説明されている。

★兄亡くて夕刊が来る濃紫陽花  正木ゆう子
★ヨハネの首と思ふ紫陽花切りにけり  岡田久彗
★紫陽花の色それぞれに路地住まひ  小林照男
★ははへ父返しあぢさゐ月夜かな  酒井裕子
★紫陽花の人影といふ色加ふ  三井量光
★紫陽花咲きやがて硝子工となりてゆく  塩野谷仁
★あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ  橋本多佳子
★あぢさゐや仕舞のつかぬ昼の酒  乙二





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鹽竈神社と周辺散策

2014年05月28日 22時31分15秒 | 山行・旅行・散策


 25日のお昼頃、東北線塩釜駅で下車後、15分ほど歩いて鹽竈神社参道の階段下に到着。この階段下の信号のところにあるお寿司屋さんで昼食休憩。一森寿司、値段も安価でとてもおいしかった。若い板前さんにはお酒の醸造元の情報や本塩釜駅までの旧道沿いの商店の情報などいろいろ教えてもらった。ついお酒をいただいてしまった。

   

 ここから急な階段を登って本殿にたどり着くのだが、実はこの鹽竈神社は学生の頃に一度来ている。ほとんど周囲の景色やどのような道をたどってきたか記憶にない。仙石線の本塩釜駅歩いて境内にたどり着いたことと、林子平ゆかりの日時計だけは記憶している。

      

 たどりついてすぐに大きな銅と鉄でできた灯篭に圧倒される。伊達藩が蝦夷地警護を命ぜられその凱旋記念に9代藩主が奉納したらしいが、精巧な作りである。日時計は昔と変わらずそのままあったが、あまりの簡単な構造にビックリする。

            

 本殿は新しくきらびやかである。中では結婚式が執り行われていた。
 この鹽竈神社は、同一敷地内に志波彦神社がある。こちらにも寄ったが時間が無く写真は撮っていない。鹽竈神社は陸奥一宮といわれているが、この鹽竈神社は式外社で、志波彦神社が式内社である。昔の岩切、今の仙台市宮城野区岩切にあったらしいが、衰微していたものを明治時代に再建するのに敷地が無く、こちらの敷地に入ったらしい。もともとは鹽竈神社のみがあったところとのことである。
 そして私は地理的にずっと誤解していたのだが、この鹽竈神社名前の割に海から遠いところにあると思い込んでいた。塩釜港からかなり遠いと思っていた。仙台に戻ってから地図を見てみたら、多賀城の外港としてあった「千賀の浦」というのが現塩釜港になり、そこに突き出た岬のようなところがこの鹽竈神社であったとのことが、地図で確かめられた。誤解というか、思い込みというのはなかなかいろいろな情報があっても自分の中で訂正できずにいるものである。今回初めて気が付いた。
 多賀城というのが、海にごく近くに位置していたこと、その港として塩釜という土地があったということ、キチンと記憶しておかなければならない。陸奥という国の海上交通の重要なポイントだったことがようやく理解できた。

   

 実はこの海に近いところというのを実感したのは、志波彦神社から山道のようなつづら折りの旧参道を降りたところから、現在の階段の参道までは100メートルほどなのだが、戻る途中に味噌の醸造元があり、そのわきに3.11の津波の到達点を示す関票が目についた。
 高架の仙石線の下を超えて津波がこの参道のすぐ下まで来たということは、近世の埋め立て等で昔は今より海が内陸に入っていたという情報と合わせると、この神社は先ほども書いた通りかなり海に近かったことになる。
 そして仙石線の本塩釜駅に向かって歩いていくと、ごく小さな登りを超えて塩釜市役所前をとおり本塩釜駅にたどり着く。翌日の地図の情報とあわせて考えてみるとこれが多賀城の外港「千賀の浦」に突き出ていた岬の名残りのような気がした。
 しかし現在の位置から考えると、港の風景が見にくい地点でもあり、かなり内陸に入ったところまで津波が来たように思えてしまう。

      

 そして、旧道を本塩釜駅に向かって歩くと、製塩のための釜を祀ったという釜神社があり、横浜でもよく口にする「浦霞」を醸造している株式会社佐浦、そしてめったに口にできない「阿部勘」「於茂多加」の阿部勘酒造まえを通って本塩釜駅にたどり着いた。
 ここからは本日の集合駅である松島海岸駅まで三つである。





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「蚕の化せし金貨なり…」展

2014年05月28日 19時55分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日は講座終了後に、先日の神奈川県立歴史博物館の「繭と鋼」展に続いて、横浜開港資料館で開催されている「金貨の化せし金貨なり…」展を見に行った。
 この変わった展覧会の題は宮城県の佐野製糸場の唱歌「蚕の化せし金貨」によるものという。国策産業として生糸生産が、養蚕業、製紙業、機械工業、運輸業、電信等の通信業、金融業、輸出業、建築業、染色業、織物業、海運業、造船業、製鉄業、機械工業、印刷業、港湾整備など殖産興業のすそ野の広がりをなしたことを展示している。
 同時に蚕や桑の品種改良、桑の栽培方法の改良などの農業改良にも寄与したことも展示されている。展示されている桑の葉の大きさにはビックリした。
 横浜の商人が富岡製糸場との取引だけでなく岡谷・諏訪、福島等全国的な産地とのつながりを確保していたことや、産地自身のブランド化に向けた努力も紹介されていた。さらに横浜の生糸商が製糸業に進出していく経過、昭和初期の巨大資本化・寡占体制への移行も理解できた。特に福島県二本松市の製糸会社とのつながりなど興味深かった。

 私が興味を惹かれたのは、欧米の技術による機械製糸だけでなく、旧来の座繰り製糸法を大規模化した共同出荷方式や、機械製糸の動力を蒸気ではなく人力でこなした製糸工場の存在など、多様な生産様式が当初は混在していたことなどを知ることができた。

 来月にはシルク博物館での生産され、輸出された製品の展示「世界に羽ばたいたスカーフたち」展を見に行く予定である。



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