★惹かれた作品・気になった作品
まずは「おやつの時間」(1940)。色彩は明るく、人物像・裸体画などよりも輪郭もはっきりしている。しかしこれは図録の解説によると第二次世界大戦での負傷後に描かれ、当時の世界の破局を象徴した作品だという。
確かに皿の果物は今にもはみ出して皿から転がり落ちるようであり、ありそうもない一瞬である。パンに刺さったナイフはいかにもとってつけたような安定感の無い存在である。さらにカーテンを開けた動作が不自然な形で止められた瞬間である。眼を凝らすと女性の形も不安定である。必要以上に机に力をかけて、硬い表情をしている。カーテンを開ける行為はキリスト教としては聖なる空間の現出を意味するとのことだが、示されたのは縦線模様の壁である。聖なる空間が現れ出てこない窮屈な印象である。解説ではカラバッジョの「果物籠」(1597)などが引き合いに出されている。
私は第二次世界大戦という世界の直截な比喩、不安な世相の暗喩ということにしては画面全体の不安定感はそれほどないと思える。不安定な要素は小さく、全体としては静謐な画面である。この絵よりも前の1937年、戦争突入の数年前にもう少し破壊の要素の詰まったテーブルの上の静物を描いている。そこではガラス瓶は金槌で破壊され、パンに刺さるナイフも絵を上にして鋭く突き刺さっている。こちらの絵の方が全体として破局的だ。ただしこの以前の絵も、世界の破局というよりも個人の人生の不安・危機の表明のような気もする。この絵も世界全体の不安・破局というならば絵そのものがもっと不安定で破局的になっているのではないか。おそらく個人的な生活のほころび、あるいは個人の思想・理念への違和感などが根底に隠されていると見るのは、邪道であろうか。
これは「窓、クール・ド・ロアン」(1951)。この窓は「決して来ない時」や「猫と裸婦」にも描かれていた窓、画家のアトリエの部屋の窓とのことである。
扇情的な少女の肢体と猫とカーテンを開ける少女がいない窓が開け放たれている。日本の掛け軸風に縦長のカンバスに描かれて、画家の東洋趣味・日本趣味の影響ともいえるようだ。開かれた窓、というのは世界に開かれていることのシンボルらしい。カーテンも無く、開け放たれた窓から入る光と空気は、外光の受容と解放のイメージに結びつく。室内の扇情的な少女のモチーフが内向的な主題とすれば、社会に向かっていく画家の側面を象徴しているのかもしれない。
「決して来ない時」(「猫と裸婦」も)というのけぞっている少女の絵は、性的な暗喩ではなくカーテンを開け放して外光を当てることで精神の解放を意味していたのかもしれない。そういえばふたつの絵に描かれた少女の伸ばしきった足をはじめとしてその肢体は決して淫靡ではない。手足を存分に伸ばした開放感がある。
この「窓、‥」の絵は外の光だけでなく外からの風を呼び込んでいるともいえる。それが内側に開かれたガラス戸に表されていないか。
絵画の遠近法はそれとなく無視され、窓枠・机の斜めの線と、窓からの光線によって作られる影の斜線が、安定感が少し揺らいだ不思議な遠近感を醸し出している。図録ではマティスの「コリウールのフランス窓」(1914)が引き合いに出されている。
とても惹かれた絵のひとつである。
この「横顔のコレット」(1954)は不思議な絵である。この前年以降、画家はブルゴーニュに引きこもるが、ルネサンス後期のフレスコ画を質感を追求した画家のタッチであるらしい。一目でこの画家の絵と分かるように思える。しかし色彩は極めて単純、目立つのは赤と薄い青と黄色の三色。中世の宗教画のような静かな画面処理である。顔に光が当たっているというよりも燐光のように顔がほのかに光を発している。机からも光が溢れている。外光に照らされた室内と人物ではなく、モデルが光を放っている。ひょっとしたらこの画家ならではのマリア像なのかもしれない。
だがしかし「横顔のコレット」を描いた前年から画家は、兄の妻の連れ子である義理の姪とその後約8年間生活を共にする。多分同棲である。われわれからすれば危うい世界であり、禁断の世界である。
再び人物像は影を帯び、輪郭は判然としなくなるが、性的な刺激に満ちた作品も描かれる。これ以降奔走なポーズを描くがこれはその直前の静謐な作品で、「横顔のコレット」にも共通する触れてはならない聖なるものへの憧憬を感じるのは私だけであろうか。たぶん描きかけ、というよりも意図的な未完成の白い衣服が、聖性を強調しているようだ。
しかしこの時期、画家はさまざまな風景画も数多く残しているようだ。
この「樹のある大きな風景(シャシーの農家の中庭)」(1960)は今回の展示で私がもっとも気に入った作品である。
近景の木を極めて大きく描き、中景・遠景はは割と平面的に処理され、日の当たる部分が遠景、そうでないところが中景という扱いで、畑の区画というよりは複雑な矩形での色彩分割の模様のようである。そして後ろ向きの遠ざかる人物はこの画家の風景に時折登場する画家本人であろう。
激しい扇情的な少女の性を描いた画家が、風景を前にするとこのように静謐で落ち着いた画面を構成するとはにわかには信じられなかった。
この木を前面に大きく描くのは浮世絵の技法のひとつである。これはゴッホもゴーギャンもまねている。しかしこの画家はしっかりと画家自身の技法の中に無理なく融け込ませているように思える。この木に赤い柿の木をぶら下げれば、現代の日本の農村風景といっても通じそうな景色である。画家の東洋趣味・日本趣味の本物らしさを感じた。
この「トランプ遊びをする人々」(1973)はこの画家がよく出かけた題材らしい。しかしいろいろ調べたが、私の理解できるような説明がなかった。
ブログでは性的な説明がされているものもあったが、私には少し無理があるようにも感じた。
人物の無理のある独特の表情は歌舞伎の見得からの援用・連想ということであるが、見得とトランプ勝負との関連が私には到底わからない。
この絵は「モンテカルヴェッロの風景(2)」(上)と「モンテカルヴェッロの風景(1)」のための習作(下)。
東洋的な画面をまねて模写したのかと感じた。特に習作の方は水墨画を連想させてくれた。図録の解説では、後者の絵はクールベのような写実的で堅固な印象を当たるが構図は極めて中国的であるとしている。私は習作の方の水の描き方に苦労がしのばれて好ましいと感じた。しかし試み以上のものではないのかもしれない。
最後は、1967年に結婚した夫人をモデルとした二枚の絵である。左右対称とした作品のようで、「黒い鏡を見る日本の女」(1976)と「朱色の机と日本の女」(1976)というもの。浮世絵風のモデルのポーズ、ジャボニスム的な逆遠近法などのことばが並んでいるが、これも私にはよくわからない絵である。
以上惹かれた絵、気になった作品を並べてみたが、晩年についてはよく理解が出来なかった。今後も引き続いて気にしながら自分なりに考えてみたいと思った。
最初に私が掲げた4つの疑問(「少女」へのこだわりと何か。人物像以外の作品は何か。ピカソの言葉の意味は何か。画家にとっての「日本」とは何か。)の内、最初の二つについては全回と今回で取りあえず触れてみた。残りの二つの疑問はまだ私にはわからない。ただしピカソについては性的な契機の絵としてピカソ自身と通底する何かを感じたと思っている。
引き続き気にかけてみたい画家であることは確かである。
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