Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

横浜大空襲

2014年05月29日 23時17分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は5月29日、今から69年前のこの日、横浜はアメリカ軍の620機の飛行機により空襲を受けた。

 この横浜大空襲は、1945年5月29日、アメリカ軍が当時の横浜市の中心部に行った一般市民を対象に行った無差別爆撃である。B-29爆撃機517機・P-51戦闘機101機による44万発の焼夷弾攻撃で死者・行方不明者あわせて約4000名近い人的被害が出たといわれている。
 この時使用された焼夷弾はM69といわれ、これは密集した木造家屋を焼き払うことを目的とした焼夷弾で、この時に実践データを得るために使用されたという。実験のための無差別攻撃であった。当時の中区・南区・西区・神奈川区に被害が集中した。

 私にはこの爆撃で親族等の被害はなかったが、人的被害もさることながら、都市機能にとっても甚大な被害が出たようだ。残念ながらその被害の象徴的な遺構は、残されていないし、街中には横浜大空襲跡をしめす案内表示もなく、全容は若い世代には伝わっていないきらいがある。
 私は小学校5・6年は横浜の市立小学校、そして中学・高校は私立に通ったが、このことを授業で教わったことはない。今でも教えていないのだろうか。
 このような野蛮で、悲惨な参加をもたらした行為、ならびにこの戦争を回避せずに突入した責任、このような空襲が頻発しているにもかかわらず継続した、当時の政治的指導者の責任を、ともに明らかにしていない。

 不勉強な私に今できることは、このブログにこのことを示すことくらいなのかもしれない。



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本日から始まる講座

2014年05月29日 22時02分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日から始まる講座は「歴史に学ぶベトナム戦争・国家再生そしてポストベトナムのアセアン」と題して、元NHK記者の田中信義氏が講師。私より二回り近く上の世代であろうか。
 取材をとおして見たベトナム戦争、あるいは報道の自由という問題、政治的リーダー論などを本日は語ってくれた。
 二回目以降はベトナム戦争を戦ったベトナムのその後、その戦争の申し子ともいうべきアセアンという組織について言及するとのこと。
 本日の配布された資料に、次のようなベトナム戦争にまつわる年表があった。私は思わずその年表を食い入るように見つめながら、講師の話も耳に入らずしばらく自分の10代の頃の「ベトナム戦争」にまつわる当時の自分を思い出していた。

1954.07   インドシナ休戦協定調停
1962.    アメリカ、南ベトナム援助軍司令部設置
1963.11   南ベトナム、反ゴ・ジンジエムの軍事クーデター
1964.05   アメリカ、北ベトナム爆撃実施計画作成
1964.08   トンキン湾事件
1965.02.07 アメリカ、北爆開始命令
1965.03.08 アメリカ海兵隊ダナン上陸
1968.01.31 テト攻勢
1971.02   南ベトナム軍ラオス侵攻作戦
1973.01.27 パリ和平協定
1975.04.30 サイゴン陥落
1976.06.24 南北ベトナム統一

 1964年のトンキン湾事件の時、私は中学一年生になっていた。その時の新聞のトップ記事を読んだ記憶がある。アメリカという国が自分たちの「正義」のためには何でもしかねない、という不信はすでに私の頭の中に出来上がってはいた。またわざわざベトナムという国の鼻先で軍艦を繰り出すという図々しさが、鼻持ちならなかった。そして北爆が開始され、ベトナムという国に対する肩入れをする新聞の論調に親近感を覚えていた。
 しかしそれ以上の関心はなかった。しかしベトナムで起きていることのニュースは目を通していた。泥沼の戦争という言葉も覚えている。
 高校1年になった1967年頃からのアメリカでのベトナム反戦運動、チェコスロバキアでのドプチェク登場・プラハの春、日本でのベトナム反戦運動などでは自分で率先して新聞に目を通すようになった。1968年のテト攻勢での残忍な死体写真などに衝撃も受け、当時の学生運動、反公害運動、フランス国内の動き、三里塚闘争などに強い関心を持つようになった。
 この頃の自分をしばらく年表に沿って思い出していた。自分の20代を決定的に規定した出来事が並んでいたと思った。
 1973年の相模原補給廠からの戦車輸送に反対運動や、1975年、就職してすぐの研修期間の最終日に聞いた「サイゴン陥落」のニュースと映像は今でも忘れることができない。やっとの思いで就職した自分の人生と重ね合わせて何となく感慨にふけった39年前を、あらためて思い返してみた。

 それから37年の人生もまたそれなりに波乱万丈ではあったが、ベトナム戦争というのは確かに私の人生に大きなインパクトを与えてくれた。
 本日からの講座はジャーナリストという視点からの講座である。私はジャーナリストという立場については気持ちは惹かれることはなかった。そして今のジャーナリズムのあり様には極めて否定的な評価しかないのだが、それでも当時の命がけの取材は人を惹きつける何かがあった。
 センチメンタルとは程遠い、余りにも苦い思いもつのる時代でもあった。だが、自分の出発点を思い出してくれると同時に、すぐさま国家再建に取り組んだベトナムという国の強さをキチンと見つめる視点についても知ることが出来れば嬉しいと思った。




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長谷川等伯の絵

2014年05月29日 12時09分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日は、長谷川等伯の業績と絵について90分の講座を聴いた。いくつかの点で教えてもらった。

 ひとつは、有名な松林図屏風。まず左双の右端、全体でみればほぼ中央に白く描き残す形で山が見える。これは富士山と見て間違いは無いのではないか、ということ。確かに私はこの山について気が付かなかった。富士山ということが間違いなければ、この松林は美保の松原らしい、ということであった。
 そしてこの松林図屏風は狩野派に対する対抗意識が強く出ているという。狩野派の構図は屏風など左右の端に重い重心を持ってきて、構図的に安定するように描くのに、これにはそれがない。右端に松の一群があるが、左端は空間が広がるだけである。構図的には安定しているが、この空白は狩野派では許されないとのこと。これもうなづけると思う。よく考えればこのような構図での安定感というのは不思議である。霧の中の時間的な動きを示して、動的な空間、空間の時間変化をとらえようとしたということなのだろう。

 ふたつ目は、「松に鴉・柳に白鷺図屏風」「古木猿猴図」など動物の親子の親愛を描いたといわれるが、離れてはいるが近くにオスもいることを考えると家族の親愛を意識していると指摘があった。また「竹虎図屏風」の2頭の虎に注目すると、これは雌雄のペアであり、親子に限ったという指摘よりも広く考えた方がいいとのこと。これは私も同感であった。この時期、牧谿を盛んに学んだようだが、中国の山水画が、人間・動物はあくまでも点景として配されるいるだけだが、人間・動物を主題として転換した功績が大きいとの指摘もされた。

 三つ目の指摘は、「楓図壁貼付」の左に描かれた三日月型(あるいは茄子型)の池様のものについて、それが描かれることで奥行きが出ており狩野派とは違う要素ではないか、とも指摘があった。奥行き云々についてもわかるような気がする。今後狩野派のものを見るときにも心してみてみようと思った。




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