本当は、時事問題についてアップしたいことはいっぱいある。少子高齢化のこと、地震のこと、放射能の問題、クリミア問題、日米韓関係のこと、中国・ベトナム紛争、靖国問題、改憲・集団自衛権問題、大阪都構想、NHK経営委員問題と中田宏の番組批判問題、浮上した「美味しんぼ」のこと、3.11に端を発する東北三県・とりわけ福島県の復興問題等々‥。
いづれの議論も、世の中の趨勢としては私の思いとは違う方向に流れている。それゆえ私のいらいらが募る。それが募るのは精神衛生上とてもよくないのだが、かといって体験的議論を語ってもあまり生産的ではないし、検証もないいい加減なことは断じて言いたくない。原理的なことを本人が言っているつもりでも、想定外に、当該の人々を傷つけたり、軋轢を生じるのも本意ではない。なかかな難しい。
そうは言っても政治的に自分なりの原則をいうという範囲では、発言を遠慮すべきではないという仲間の意見もある。確かに表現者がいい加減な表現を勝手にしておいて、批判されるや否や「表現の自由だ」と開き直る実態を見てみると、それよりは俺の方が配慮した表現をしているよ、表現の自由と身勝手な表現とは違うよ、とちゃちゃを入れたくなる。表現の自由とは裏を返せばとても重いものなのである。
表現の自由と他者への影響・配慮の問題、あるいは左翼・右翼の不毛な対立の問題、政治と金の問題、どれもが私が1960年代末から70年代にかけて、そしてそれ以降今まで組合問題として関わった政治課題など私自身の原則的な考え方から紐解くことが原則的には簡単なものでも、とても捩れてしまっているという思いが強い。
反原発は左翼固有の課題ではない。日中韓の課題も私は本来的には左翼と右翼の代理戦争の問題ではないと考えている。他者や他国、他国民をどのように尊重するか、という課題である。他国民・他民族の尊重なしにナショナリズムは成立しないはずだ。憲法問題も本当は右と左の対決課題ではなく共通課題なのだと思う。押しつけかどうかが判断の基本ではないはずだ。自然エネルギー・原発問題も同様である。国家による表現者への関与問題もしかり。地方自治拡大もそうである。右と左という仮象のもとに語られる不幸を乗り越えないと、これからの日本を語ることはできないところまで来てしまっている、というのは言いすぎであろうか。
そんな配慮も出来ずに一国の総理をなってしまった安倍晋三、その彼を首相にしてしまった日本の国民、私たちは自分の播いた種で自らが不幸になっている。
一言だけ言わせてもらえば、1960年代の新左翼はこのことを承知をしていたと思う。戦後秩序を前にソ連・中国擁護という一線を旧左翼が乗り越えられなかったのだが、このことを、当時の新左翼は乗り越えようとしていた。そのことを今こそ思い出してほしいと思う。戦後秩序の、右・左という国民の意識の分裂を乗り越えて新しい政治意識・国家像の提出をしようとしたあの若々しく、そしていろいろな課題を貪欲に引き受けようとしたエネルギーがなくなってしまっている。これは私自身の自戒も含めた現代の状況に対する批判である。
新しい政治思想が残念ながら生まれて来ない中で、右・左対立という仮象のもと、不毛で、相互に容赦のない罵倒ばかりを投げ合う今の日本の社会の状況は、とても不幸であると思う。
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いづれの議論も、世の中の趨勢としては私の思いとは違う方向に流れている。それゆえ私のいらいらが募る。それが募るのは精神衛生上とてもよくないのだが、かといって体験的議論を語ってもあまり生産的ではないし、検証もないいい加減なことは断じて言いたくない。原理的なことを本人が言っているつもりでも、想定外に、当該の人々を傷つけたり、軋轢を生じるのも本意ではない。なかかな難しい。
そうは言っても政治的に自分なりの原則をいうという範囲では、発言を遠慮すべきではないという仲間の意見もある。確かに表現者がいい加減な表現を勝手にしておいて、批判されるや否や「表現の自由だ」と開き直る実態を見てみると、それよりは俺の方が配慮した表現をしているよ、表現の自由と身勝手な表現とは違うよ、とちゃちゃを入れたくなる。表現の自由とは裏を返せばとても重いものなのである。
表現の自由と他者への影響・配慮の問題、あるいは左翼・右翼の不毛な対立の問題、政治と金の問題、どれもが私が1960年代末から70年代にかけて、そしてそれ以降今まで組合問題として関わった政治課題など私自身の原則的な考え方から紐解くことが原則的には簡単なものでも、とても捩れてしまっているという思いが強い。
反原発は左翼固有の課題ではない。日中韓の課題も私は本来的には左翼と右翼の代理戦争の問題ではないと考えている。他者や他国、他国民をどのように尊重するか、という課題である。他国民・他民族の尊重なしにナショナリズムは成立しないはずだ。憲法問題も本当は右と左の対決課題ではなく共通課題なのだと思う。押しつけかどうかが判断の基本ではないはずだ。自然エネルギー・原発問題も同様である。国家による表現者への関与問題もしかり。地方自治拡大もそうである。右と左という仮象のもとに語られる不幸を乗り越えないと、これからの日本を語ることはできないところまで来てしまっている、というのは言いすぎであろうか。
そんな配慮も出来ずに一国の総理をなってしまった安倍晋三、その彼を首相にしてしまった日本の国民、私たちは自分の播いた種で自らが不幸になっている。
一言だけ言わせてもらえば、1960年代の新左翼はこのことを承知をしていたと思う。戦後秩序を前にソ連・中国擁護という一線を旧左翼が乗り越えられなかったのだが、このことを、当時の新左翼は乗り越えようとしていた。そのことを今こそ思い出してほしいと思う。戦後秩序の、右・左という国民の意識の分裂を乗り越えて新しい政治意識・国家像の提出をしようとしたあの若々しく、そしていろいろな課題を貪欲に引き受けようとしたエネルギーがなくなってしまっている。これは私自身の自戒も含めた現代の状況に対する批判である。
新しい政治思想が残念ながら生まれて来ない中で、右・左対立という仮象のもと、不毛で、相互に容赦のない罵倒ばかりを投げ合う今の日本の社会の状況は、とても不幸であると思う。
