Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

気分はブラームスを欲して‥

2014年05月08日 23時37分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 食後うつらうつらしていたら、すっかり寝込んでしまっていた。実に気持ちよく‥。もう朝かと思って慌てて起きたら、まだ24時になっていなかった。最近時々酔うとこのようなことになる。

 このような時は、これから朝までが長い。布団に入っても、簡単には眠れない。本を読んでも頭に入らない。パソコンの前にいても集中して何かできるわげてもない。中途半端な感じである。

 こういうときは何をしたらいいのだろうか。

 何となく気分はブラームスのピアノ曲でも聞きたいような‥。ということで、ブラームスの初期のピアノ曲を漁ってみることにした。 



 選んだのはこの間から聞いているペーター・レーゼルのピアノソロ全集の第1巻からピアノソナタ第1番(作品1)と第2番(作品2)。スケルツォ(作品4)

 和田真由子という方の解説がネットで出ていた。

・ピアノソナタ第1番
「この曲の手書きのスコアには、「ソナタ第4番」という書き込みがあり、ブラームスの最初のソナタではない。出版の都合がおもな原因で、作品1となったが、実際は、作品3やソナタや作品4のスケルツォよりあとに作曲されたものである。
 第1、2楽章は1852年4月に、3、4楽章は1853年春にそれぞれハンブルクで作曲された。
 このソナタは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「ヴァルトシュタイン」と「ハンマークラヴィーア」からの影響が顕著にあらわれている。しかしその一方で、当時流行の表題的な傾向とも無縁ではない。のちのブラームスのピアノ音楽の特徴となる、ダイナミックな動きや広い音域の活用なども認められる。若きブラームスのあふれんばかりの情熱が注ぎ込まれた大作であり、ブラームス自身もこのソナタに自信をもっていたようである。」

・ピアノソナタ第2番
「第1曲のソナタより以前の、1852年11月にハンブルクで完成された作品。ブラームスが19歳のときにかかれたもので、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンからの影響が濃くみられる。表現内容の振幅が激しく、劇的であり、また感傷味を秘めている、若きブラームスの意欲作である。作品1と同じく、古典派的でありながら、新ロマン主義への接近も感じさせる。」

・スケルツォ
「ブラームスが18歳のときに作曲した、唯一の独立したスケルツォである。ちょうど彼が作曲活動に力をいれはじめた頃の、初期のピアノ作品。1851年8月ハンブルクで完成、1854年2月に出版された。ブラームス生前に出版された作品のなかでは、記念すべき第一作目にあたる。ブラームスはシューマンを訪問する前に、ヴァイマルのリストのもとを訪れていて、そのときに持参した自作の曲の楽譜のなかにこのスケルツォも含まれていた。リストが、その自筆譜を、初見で演奏して、ブラームスを感嘆させたというエピソードが知られている。
 この曲の第一主題は、ショパンの『スケルツォ第一番』の主題にかなり似ており、このことはリストからも、指摘された。‥また、この曲はハインリヒ・マルシュナーのオペラ《ハンス・ハイリング》の序曲からの引用も指摘されている。」

 この間までは晩年のブラームスのピアノ曲だが、これはブラームスの作曲家としての出発点の曲になる。それを知って聞くと若く溌剌とした曲に聞こえる。このような知識がなければわからないが‥。
 確かに溌剌として伸び伸びとした曲想だと感じる。夜中に音量を出来るだけ絞って聞くにはふさわしくないかもしれなかった。夜中に聴くよりは、日のあるうちに聴いた方が良かったかもしれない。
 ピアノソナタ第2番の第二楽章が本日にピッタリの曲想。これは繰り返し聞いてみよう。



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気が付いたら夏

2014年05月08日 12時09分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 例年連休の後半には立夏なのだが、毎年それが過ぎてから「夏になっているんだ」と思い出す。そしてパソコンの台の上に置いている歳時記を春の部から夏の部に取り換える。連休が終わる頃のいつもの習慣である。

★旅名残り雲のしかかる立夏かな  飯田蛇笏
★おそるべき君等の乳房夏来る  西東三鬼
★毒消し飲むや我が詩多産の夏来る  中村草田男
★家ぢゆうの音のしづまり夏に入る  井越芳子
★駈ける児の髪の先まで立夏かな  物江静子
★阿武隈の水すれすれに夏来たる  渡辺乃梨子
★わがうちに大河もちたし夏に入る  原裕人
★わが夏の来たりし塔の孤高かな  望月百代
★はらわたの有り合わせにて立夏まで  松本康司

 西東三鬼の句はあまりに有名だが、私も忘れることはできない。中学生の時初めて知ってびっくりしたのを覚えている。
 中村草田男の句は不思議な感覚。「毒消し」と「我が詩」の取り合わせ戸惑うも、わが詩作が自分にとっても毒であり、命を縮める苦行でもあり、そして他者を射るものでもあるという自覚・自戒。
 井越芳子の家中の音がしずまる感覚と今の季節、私には結びつかない感覚なのだが、そういう感覚もあるのだろう。
 渡辺乃梨子の句、大河の川面「すれすれに」というのに惹かれる。夏に発生する小さな虫が川面にすれすれに飛び始める季節かもしれない。しかし夏そのものが川面を渡ってくるイメージが面白い。「水すれすれに」で切れると解釈すると、水のどういう状態をすれすれと表現したかがわからなくなる。
 原裕人の句のイメージはとてもよくわかる。夏だから冷たい豊富な水が欲しいというのは薄っぺらすぎる。もって大きな厚みのある「大河」のイメージであろう。歴史も文明も、文化も地勢も、生態系もすべて含めて飲み込んてみたい。
 望月百代の句、「塔の孤高」に思わずまいってしまった。塔が他に比べてぬきんでて高く目立つ、というのはとてもよくわかる気。「塔の孤高」と自身の強い自負、これは大切にしたいと思う。そしてこの「塔」は原爆ドームであるに違いないと思っている。
 松本康司の句、自分の身体そのものに対する違和感というものは、成長期の若さの特権ではなく、老年期の身体でもある。「まで」がそう主張しているのではないか。




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