Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス 交響曲第3番&悲劇的序曲

2014年05月22日 23時42分59秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は久しぶりにブラームスを聴いた。前回のシリーズと同じカラヤン指揮ベルリンフィル演奏の1988年録音盤。

   

 18歳の頃に初めて聞いたブラームスの曲が交響曲第2番と、この交響曲第3番であった。とても印象深い曲である。特に第3楽章と第4楽章に痺れた。
 第3楽章は、木管のくぐもった響きに、チェロがメランコリックな、それでいて波のようにうねる旋律を歌う。
 第4楽章冒頭のファゴットにもとても印象的である。それに和していく弦楽器の刻みも印象的である。

 「悲劇的序曲」は「大学祝典序曲」と対になる曲で、ブラームスが依頼された曲が「大学祝典序曲」で、これにどうも満足しきれなかったブラームスが「泣く」序曲として作ったらしい。ハレの檜舞台の曲として作られた曲とは違う曲である。
 特に私などのように大学受験のためのラジオ講座に使われた楽想は、とてもではないが、素直に聞くことができないかったし、今も素直になり切れない。ほとんど恨みの世界の愚痴をひとくさり。
 18歳の頃の私は、大学とはどうしても「大学祝典序曲」のようにこれほどまでに明るい世界とは言えないと感じていた。矛盾に満ちた社会のそのもっとも端的な縮図で、かつその社会への第一歩であった者にとっては、大学で祝典を奏することなど信じられなかった。私自身の悲劇を歌ってくれるようなブラームスの重々しい響きにどうしても心が惹かれた。18歳とはこんなに明るいものでなければならないのか、というのが捩れた時代の体験である。どうしても「悲劇的序曲」に向いてしまう。
 他の世代の人には理解は困難であると思う。素直に人生を謳歌できない世代の愚痴である。こんな愚痴でブラームスの曲を論じるなどとんでもないことはわかっていても、半世紀たっても抜けられないでいる。



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荒れた天気 それでも等伯について‥

2014年05月22日 20時48分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の荒れた天気はなかなかのものではなかったろうか。15時半ころに講座が終了した段階で横浜の中心部はかなりの雨。私には雷も聞こえた。ということで、何の考慮もなく雨宿りのつもりで16時過ぎにはそのまま立ち飲み屋に一人で直行。気が付いたら18時過ぎまで静かに飲んでいた。
 外の様子では17時には雨があがっていたようだが、気分としてはそのまま居座ったいた。お腹はいっぱいになったが、帰らなくてはいけないと思い、風が少々冷たく感じたもののそのまま歩いて帰宅した。

 今朝早くアップした記事で、長谷川等伯の波濤図について述べた。講座の途中で友人から前回取り上げた禅林寺のものと、今回取り上げたものとを画像で比較できるようにしてほしいとメールでリクエストがあった。講座の途中なので返信できずにいた。しかも立ち飲み屋で酔って返信するのも失礼かと思い、帰宅してからこのメールの趣旨に近い形で返信した。もっともな指摘なので明日にでも両方の画像を比べられるようにしたいと思う。
 午前中は所用があるので間に合わないが、夕方までには整理をしたいと思う。前回の東博で販売していた図録でも、禅林寺の波濤図は大きな折込みになっているので、コンビニに行ってA3のスキャンをしなくてはいけない。それでもはみ出してしまうかもしれない。記録として残しておくのはとてもいいことだと感じた。ご指摘に感謝いたします。
 ともにとても気に入った作品なので、一人でも多くの方に見てほしいと思っている。





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「日本絵画の魅惑」展(その4)

2014年05月22日 07時57分18秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
  

 今回の展示では長谷川等伯の作品は2点が展示された。この絵は「松に鴉・柳に白鷺図屏風」である。実はこの屏風絵は、調査の結果長谷川等伯の印が消され、雪舟の偽署名が書かれていたらしい。江戸時代、等伯の名は忘れ去られ、当時人気の高かった雪舟の絵として保管されていらことがわかったといういわくつきのものである。一部改ざんがあるのかもしれない。
 画面は薄い金が施されているがこれが画面全体に温かみをもたらしている。そして右双の右端に鴉の番と雛が描かれ、左双に番と思われる白鷺が画面を大きな空間に見立てて優雅に飛翔している。
 鴉の巣を枝に載せている松も、白鷺が止まっている柳もともに幹や枝は画面の外に大きくはみ出し、木の全体は隠されている。そのことによって木の大きさがとてつもない大きさであることが想像される。
 よく見ると白鷺の顔の表情は特に変な印象を受けないが、鴉の親子は顔の描き方がどうもあまりピンと来ない。ちょっと稚拙な感じがするのは私だけであろうか。
 画面全体がちょっと寒々しい雪景色のような感じがするのに比して、この鴉の顔の稚拙さが、わざと狙った効果なのかはわからないが、何となく微笑ましい雰囲気をもたらしてくれるような気がする。解説では、当時は黒色の鳥として叭々鳥(ははちょう、ムクドリの一種で南アジアに生息、くちばしの上の羽のふくらみが特徴)を描いたらしいが、古来忌避される鴉を親しみのあるものとして描いたのが斬新とのことである。
 鴉に比して白鷺の方は営巣はしておらず、雛もいない。2羽の距離が広い空間を表すとともに番以前の2羽の関係を暗示しているようにも思える。
 中国の山水画と違ってクローズアップ効果で画面からはみ出す景物の描き方に、中国の山水画では味わえないダイナミックな風景画の極致なのではないか?

   

 次の絵が私には忘れられない枚になりそうである。長谷川等伯の「波濤図屏風」である。等伯には「波次の絵が私には忘れられない枚になりそうである。長谷川等伯の「波濤図」はもう一枚あるそうで、京都の禅林寺にあるもので、確か昔これを東京国立博物館で見た記憶がある。このブログにも記載したはずである。禅林寺のものと比べると、右双はほとんど構図としては同じ、左双は禅林寺の方が岩が低くまったく違う絵である。
 こちらの方が全体として丁寧に描かれているように見える。どちらかというと完成品に見える。色彩も鮮明である。禅林寺の方が荒々しいタッチだ。特徴ある波の形もこちらの方が顕著である。
 禅林寺の方が荒々しくて好みだという人も多いと思う。こちらの方がまとまっていて少しおとなしい海に見えるかもしれない。
 こちらの方の絵は私は初めて見たが、左右とも画面の上方4分の1くらいのところに細い黄色い線がある。雲のような金色のものとは違って横に伸びている。最初これが海と空の境界を示すものかと思っていた。よく見るとそうではないそうだ。しかしこれがあることで、海に広がりがあるように見える。
 また波のうねりが禅林寺のものより強調されている。波全体は禅林寺の方が荒れているように見えるが、うねりはこちらの方が大きい。
 岩礁はあまり荒々しさは無いが、硬い岩の質感が別のタッチでしっかりと書き込まれている。
 禅林寺のものもこちらもともに雲海に浮ぶ高峰の峰々といってもおかしくない。これは画面の金色の輝きがもたらす錯覚かもしれない。
 とてつもない広大な海原ないし雲海を見たような気がする。室内にあればそこが、室内であることを忘れてしまいそうな予感がする。
 
 講座の「桃山絵画の四大巨匠」で来週は長谷川等伯を取り上げることになっている。楽しみである。




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