Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

トレチャコフ美術館所蔵「ロマンティックロシア」展 その2

2019年01月11日 23時38分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 私が見に行きたかった作品は、以前にも観たことがある作品ばかりであると思う。特に前回のトレチャコフ美術館展で観た記憶があるが、定かではない。当時は図録を購入していなかった。

 今回の展示で新たに惹かれた作品は、3点あった。



 まずはフィリップ・アンドレーエヴィチ・マリャーヴィンの「本を手に」(1895)。これは女性の肖像画のコーナーにあった。私としては「忘れえぬ女」(イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ、1883)よりも惹かれた。
 むろん美術史的にも、技術的な面でも、さらに影響力からも「忘れえぬ女」の価値は高いのだろうが。決して上流な家庭の人でもないが、本を読むだけの知識もあり、だが着飾ることもない女性の像は、社会が大きく胎動している当時のロシアの女性のある側面を描き切っているように思えてならない。根拠は何かと問われるとこれを示すことはできない。解説では画家の妹で、28歳という若さで亡くなった女性であるらしい。
 顔の皮膚の艶などから早世したにしては、たくましさすら感じられる。意志の強さも感じられる。知的な印象を強く受ける。背景の白い壁とそこに写った濃い影が人物の存在感を強くしている。白い壁と白い服、それをきわだたせている暗い椅子の後ろの闇、そして手にする書物が物語を感じさせる。現実の生活に裏打ちされた存在感のある女性像である。



 「忘れえぬ女」(イワン・クラムスコイ、1883)は、チラシの面を飾っている。わたしにはこの女性の視線はとても冷たく、馬車の上にいて人を見下す位置にいる自分の位置に無自覚である、と感じる。この時代の新しい女性像のような解説にいまひとつピンとこないところがある。トルストイの「アンナ・カレーニナ」の主人公、ドストエフスキーの「白痴」のナスターシャ・フィリッポヴナなどのヒロインになぞらえたりしているらしい。解説では貴族ではないが豊かな女性でもあるとされているが、どこか意志を持たない表情に思える。その割には高い位置から画家を見おろすことで、見るわれわれを見下している視線である。画家とモデルの関係が近代的ではない何かに支配されている。
 「本を手に」の女性と比べるとどこか架空の、存在感の薄い女性である。



 グリゴーリー・クリゴーリエヴィチ・ミャソエードフの「秋の朝」(1883)を見たとき、どこか病的に執拗な執念を感じた。
 この細部にまだ異様にこだわった写生の根拠は何処にあるのか、中心のない一面の黄葉の森のせせらぎの一場面へのこだわりは何か。疑問が湧いて来た。その答えを見つけるだけの情報はない。
 解説では、皮肉屋であり美術界の周囲とも打ち解けず、孤独感を深めていたという記述がある。それがこの作品に反映しているのかは私は断定はできない。だが、このように執拗な写生へのこだわりに、当時の美術界のありように対する違和感をぶつけたような気迫を感じることも確かにできる。



 ロシアの大地では白樺が思い出される。この白樺を描いた作品ではエフィーム・エフィーモヴィチ・ヴォルコフの「10月」(1883)に惹かれた。川に向って拡がる白樺の疎林は、岸辺に立つ人物に向って開かれているようだ。手前から人物に向かう踏み跡でてきた道が、白樺の年輪よりも長い時間の経過を暗示している。人の営みの長さを暗示している。このような景色に私はいつも惹かれる。描かれた肖像画よりも人の営みについて多く語ってくれるのが、このような風景画ではないだろうか。

 

トレチャコフ美術館所蔵「ロマンティックロシア」展 その1

2019年01月11日 21時32分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日は渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催している「国立トレチャコフ美術館所蔵「ロマンティックロシア」」展を訪れた。
 久しぶりの美術展、しかも久しぶりの渋谷である。

               


 お目当てはチラシに掲載されている「ジャム作り」(ウラジ-ミル・マコフスキー、1878)、「帰り道」(アブラム・アルヒーホフ、1896)、「正午、モスクワ郊外」(イワン・シーシキン、1869)、「雨の樫林」(イワン・シーシキン、1891)、「樹氷」(ワシーリー・バクシェーエフ、1900)など。

 いづれの作品も強いコントラストで同時代の西欧の絵画に比べてとても明るいと思った。自然の描写がなぜか私の気持ちに沿った景色に仕上がっている。

 中でも「帰り道」は実にロマンティックな物語りを匂わせる。馬のお尻、御者の背中、馬具の上のひとつの鈴、馬の足が跳ね上げる埃、遠くの日の沈むそら、手前の草花、古い年季の入った馬車、どれをとっても物語が自然と出来上がってしまうような構図であり、筆致である。

 「雨の樫林」の真ん中左の曲がった気には大きな洞(うろ)があり、男女のカップルは馬車のわだち跡も生々しい泥んこ道を素足で歩いている。逃避行のような情景である。深い霧は何を暗示しているのだろうか。不思議な情景である。

   

過剰な想念を持て余す

2019年01月11日 10時27分24秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 毎日そまざまな想念が頭の中を駆けずり回る。ひとつひとつ覚えてなどいられない。子どもの頃は今の私のさらに数倍、数十倍のことが頭の中を走り回っていたとおもう。それこそ暴風のように。4つ、5つの子どもはそのごく十分の一以下のことを次から次に言葉として大人に問いかける。親や周囲の人がそれに答えていたら目がまわってしまう。問は際限ない。ふと思いついたこと、目にしたことをそのまま口にしているように思う。
 保育園や幼稚園、小学校の先生は夕方には風の直撃を受けたように頭の中がかき回されているのではないかと、いつも同情する。だが、子どもにとってはそれなりに考えた末に問を発している場合もある。それは真剣に答えなくてはいけないが、それを聞き分ける能力も備えなくてはいけない。

 私は学校の先生にはなろうとは思わなかった。大学に入ったころ、教職課程を取ろうとすると単位数が多く必要だったので、さっさと諦めた。しかし理由はそれだけではなかったと思う。
 絶えず何かを聞いてくる大勢の子ども、それも大声で問いかける子どもの集団を見るたびに、私は嫌悪感にも似た拒否反応を示していた。具体的には、道を歩いていて正面から子どもの集団がやってくると、逃げるように道の反対側に避難した。小中学校や幼稚園などの傍は遠回りをして避けた。電車やバスで幼稚園や小学生の集団に会うと、たとえ30分待たされても次の便に乗った。なにしろあの甲高い騒々しい問いかけの塊に会うと、自分の脳が防衛反応を示してしまうのだ。人から見れば要するに子ども嫌いである。
 そんなわけで小学校の教師は自分には向いていないと20代の早い段階から気がついた。中学、高校の教師もその延長で断念した。

 60代後半になっても、私の頭の中ではさまざまな想念や思い付きや疑問などが湧いてくる。しかしそれは最初に述べたように幼少期に比べて数十分の一である。それでも自分のその想念を持て余している。その想念の渦に疲れて最近はますます静かな環境を好むようになっている。喧騒の中でも他人に干渉されずに一人になりたいのだ。そうして次から次に湧いてくるたいしたことでもない想念に浸る場合もあるし、出来るだけ何も湧いてこないように蓋をして上から押さえつけて何も考えない時間をつくるか、どちらかである。後者はとても難しい。蓋をしながらまた何かを考えている場合すらある。
 これが過剰に思えて、そして自分で自分を統御できなくなると、「疾」ということになるのだろう。
 現役で仕事をしている頃は、仕事に追われて自分の想念に押しつぶされることはあまり意識しなかった。定年の2~3年前になって定年後には仕事をしないと決断したころから、徐々に自分のあまたの中の嵐を意識し、そして持て余し気味になってきた。
 この7年余りをかけて徐々に自分の脳内を駆けずり回る想念の嵐と付き合う方法を少しずつ身に付け始めた、というところでもある。仕事に変わって何かに夢中になることは対症療法としては有効だろう。

 生きるのをやめるということは、脳内の想念が死滅する時期でもある。「人間は考える葦」だそうだが、確かに「想念がなくなるのは死を迎える」時であると思う。
 認知症といわれる「疾」がある。きっと物理的に委縮した脳の中で、想念が過剰に駆けずり回っているのではないかと思う。彼らは考えることをやめてはいないはずだ。逆に想念が中性子星のように過剰に脳内に侵入してくるのではないか。その処理に悲鳴が上がっている状態ではないのか。