Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

箱根駅伝を見る

2020年01月02日 23時37分03秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 夜のウォーキングから帰宅。それほどの寒さではなかった。上弦の月が西の空にかかっていたが、雲がかかって味わい深い見え方。はじめのうちはその月に向って歩いた。

 明日は箱根駅伝の復路を横浜駅の近くで見に行く。最近ではこの見学が毎年の恒例である。一瞬のうちに選手は通り過ぎて行くが、選手の息遣いが聞こえるようである。横浜駅から東神奈川駅にかけてはやはり地元の神奈川大学の応援の旗が目立つ。
 私は各チームの監督が乗っている車からのスピーカーの大音量の声が嫌である。大音量で怒鳴らない大学もある。そういうチームをつい応援したくなる。多分あのような大音量で、絶え間なく支持を与えないといけないという観念があるかぎり、選手は育たないと思う。
 極端なことを言えば、指導者と選手の盲目的な支配・服従関係が前提なのではないか、と思う。わたしにはとても近寄りたくない世界である。私はスポーツ=指導者の絶対支配、という観念から逃れられない。異端を許さない、指導にさからわせない、そんな体験ばかりであった。軍隊という理不尽な組織と同一にしか見えない。
 わたしが小学校高学年以降、授業としての体育ですら、異常ともいえるほど嫌いなのは、そんな教師の行う授業に嫌悪感しか抱かなかったからだ。高校のときは体育と聞いただけで吐き気がした。とくに数人の体育の教師には廊下ですれ違うのも嫌で、廊下の端で教師を見かけると別の階を経由して目的地に向かった。3年間、体育の教師が担任にならないよう祈っていた。さいわいにそのようにはならず、助かった。

 だから妻に誘われるまでは、私は沿道でそれを見るということは思いもよらなかった。そのような大音量の車の指導をしていないチームもあることを知ってようやく見に行く気になった。
 やはり上位のチームというのはそんな形の指導はしていないと感じる。少なくともそう信じたい。そして大音量を流し続ける車が近づいてくると、私は耳をふさいで車道から離れることにしている。
 そこまで不愉快な思いをするなら沿道にわざわざ見に行くことはないのだが、なぜか妻に誘われるままに出かけてしまっている。自分でも不思議である。 


大森駅傍の鹿嶋神社

2020年01月02日 20時57分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

                  

 正月の二日は例年のように大森駅に出向いて親族の会食。集合時間前に大森にある鹿嶋神社へ行った。毎年妻は参拝してから、小さな紅白一対のその年の干支の土鈴を300円で貰ってくるのを楽しみにしている。今年は子年ということでネズミの形の土鈴である。
 妻が参拝をしている間に私はいつものとおり境内を下手な写真を撮って回った。

 鹿嶋神社の参拝後、大森駅近くの中華料理店で親族の新年会。今年は私の親の入院などで開催が出来ないかもしれないと思っていたが、どうやら開催できた。
 開催時間を早め、19時には横浜の自宅に戻ることが出来た。

 


正月二日

2020年01月02日 11時50分02秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 正月の二日というのは元日よりものんびりした気分があり、いいものである。元日はどことなくよそよそしく、そして意外と慌ただしい。
 二日というのは何かを始める日、ということになっているらしい。現役で仕事をしているときは、4日からの出勤にそなえて気分を仕事モードにもどす日でもあった。しかし今はそのような焦りはない。
 俳句の歳時記を見ても乱暴な区分けではあるが、何かを始める句と、そうではなくものをじっくり見る句と二通りに分けることも出来る。確かに書初め、稽古始、初湯、初荷などは二日といわれる。特に仕事がらみの「‥はじめ」などは小さい頃から「そんなに慌ただしくしなくてもいいのに」と思っていた。
 冬休みの宿題も二日目になると急かされたものである。

★庭隅の幹に日のある二日かな      桂 信子
★浮島や鴨を二日の景として       佐藤鬼房
★ゆるやかにとぶ鳥見えて二日かな    永田耕一郎
★老しづかなるは二日も同じこと     高浜虚子