夜のウォーキングから帰宅。それほどの寒さではなかった。上弦の月が西の空にかかっていたが、雲がかかって味わい深い見え方。はじめのうちはその月に向って歩いた。
明日は箱根駅伝の復路を横浜駅の近くで見に行く。最近ではこの見学が毎年の恒例である。一瞬のうちに選手は通り過ぎて行くが、選手の息遣いが聞こえるようである。横浜駅から東神奈川駅にかけてはやはり地元の神奈川大学の応援の旗が目立つ。
私は各チームの監督が乗っている車からのスピーカーの大音量の声が嫌である。大音量で怒鳴らない大学もある。そういうチームをつい応援したくなる。多分あのような大音量で、絶え間なく支持を与えないといけないという観念があるかぎり、選手は育たないと思う。
極端なことを言えば、指導者と選手の盲目的な支配・服従関係が前提なのではないか、と思う。わたしにはとても近寄りたくない世界である。私はスポーツ=指導者の絶対支配、という観念から逃れられない。異端を許さない、指導にさからわせない、そんな体験ばかりであった。軍隊という理不尽な組織と同一にしか見えない。
わたしが小学校高学年以降、授業としての体育ですら、異常ともいえるほど嫌いなのは、そんな教師の行う授業に嫌悪感しか抱かなかったからだ。高校のときは体育と聞いただけで吐き気がした。とくに数人の体育の教師には廊下ですれ違うのも嫌で、廊下の端で教師を見かけると別の階を経由して目的地に向かった。3年間、体育の教師が担任にならないよう祈っていた。さいわいにそのようにはならず、助かった。
だから妻に誘われるまでは、私は沿道でそれを見るということは思いもよらなかった。そのような大音量の車の指導をしていないチームもあることを知ってようやく見に行く気になった。
やはり上位のチームというのはそんな形の指導はしていないと感じる。少なくともそう信じたい。そして大音量を流し続ける車が近づいてくると、私は耳をふさいで車道から離れることにしている。
そこまで不愉快な思いをするなら沿道にわざわざ見に行くことはないのだが、なぜか妻に誘われるままに出かけてしまっている。自分でも不思議である。