朝からよく晴れている。昨晩も丸い月が中天にかかっていた。本日は十五夜。
6日が小寒であった。小寒・大寒の30日間を「寒」として、最初の日が「寒の入り」である。
★寒きたり相いましめて嶽そびゆ 飯田蛇笏
★よく光る高嶺の星や寒の入り 村上鬼城
★寒に入る親しきものに会ふごとく 石田勝彦
★小寒や枯草に舞ふうすほこり 長谷川春草
第1句、「相いましめて」が冬山のするどい山容の緊張感を高めている。いままで知らなかった句だが、すっと入ってきた。人は具体的に登場しないが、これを身近な人間関係の反映したことば、そして急峻な山相互の関係を兼ねた表現とすれば、近景=人間、遠景=嶽という対比が浮かんでこないか。こんな解釈は私一人の勝手読みかも知れないが、わたしは魅力的な読み方だと思う。
第2句、今は、わたしの住んでいるところからは富士と丹沢山塊に向って宵の明星が沈んでいく。「高嶺」と形容するほどには近くない。この句はかなり頂上にちかい地点からの景だと思う。そういえば南アルプスの鳳凰三山の傍に「高嶺」というピークがある。そこからの南アルプスの核心部と麓の景色は素晴らしい。あの稜線で星々をながめたかったが、テントは張れない場所であった。
第3句、人は寒さを厭う。私は長年横浜に住んでいる。この地はそれほど厳しい寒さはない。寒さはひどくないゆえに、あるいはひどくないにもかかわらず、この地域の冬は好きである。冬の季節風に吹かれると身が引き締まる。学生時代の仙台の冬はずっと寒かったが、気に入っていた。丹沢颪、蔵王颪などという言葉があるが、太平洋岸の乾いた冷たい冬の季節風に身を晒すと、胸を張ってそれを受けとめたくなる。
第4句、第1句の飯田蛇笏の大きな景を詠む力業に対して、このような細かな観察の眼も私の好みである。量子論の世界と、宇宙論の世界が「力」でつながっているように、二つの世界を行き来しながら、「これは!」という表現に出会うことがある。「うすほこり」からは寒中ならではの低い位置にある逆光に見る太陽光線のまぶしさ、ほのかに見えるはずの遠い山並み、通り過ぎる人や犬・猫などを思い起こすと景色の奥行きが拡がる。そんな自由を許してくれる句に思える。視野を限定しすぎると広がりが無くなる。