★わが死にしのちも夕焼(ゆや)くる坂と榎 加藤かけい
★夕焼に遺書のつたなく死ににけり 佐藤鬼房
★夕焼雀砂浴び砂に死の記憶 穴井 太
夕焼けの句を探しているといつの間にか、死や廃墟のイメージの句に着目していた。あざやかで色彩鮮明な夕焼けのどこかに「死」や「滅び」を嗅ぎつけているる自分というものに慄然とする。
第1句、真正面から「死」を扱ったが、「死」に現実感がなく、一般的な死であるがゆえに「カラっ」としたイメージが浮き出ている。だがこんな「死」の思いを、私は幼稚園児のころからときどき味わった。その想念が夕方に起きると、夜も眠れなかった。宇宙のことを記した図鑑を向かいの中学生にもらって、私の命がなくなっても続く太陽の営み、そしてその太陽にも寿命があり、地球が飲み込まれる、という記述が怖かった。この句の場合は天文現象ではなく、もっと身近な「坂」と「榎」に「死」が張り付いている。
第3句、佐藤鬼房の句であるから、おそらく戦争体験であろう。「つたなき」とはいえ、生きることの困難な時代の叫びが静かに横たわる。
第4句、土や砂とはいえ、ひょっとしたらそこには「人の死」や小さな動物の「死」が絡んでいた来歴があったかもしれない。その土や砂が今は、雀の一途な生の再生に寄与している。その一般性を読み取ることもできる。しかしこれは長崎の原爆のことを詠んだ句でもあるらしい。句にはそれは触れていない。背景を知ると長崎の原爆の地の重みがひしと伝わる。しかしそれをわざと匂わせないことで、この句のイメージはもっと一般化されているといえる。それが成功したと句ととらえるか、一般化しすぎととらえるか、私にはその評価を決定する力はない。