「広重は真面目で抒情的、平明な絵に情感が漂う。北斎は圧倒的な力で見る人に迫ってくる。ただケレン味が強くて大袈裟という人もいます。外国の人は北斎の大胆な構図が好きな人が多いと思います。」(浦上満)
この「北斎づくし」で私は「鍬形惠斎」という絵師の名を初めて知った。
「「北斎嫌いの惠斎好き」。北斎と並び称せられ、一部では北斎以上の人気を博した鍬形惠斎は、北斎より4歳年下の浮世絵師。北尾派の創始者北尾重政の高弟北尾政美として頭角を現し、30代で津山藩の御用絵師に取り立てられるという破格の出世。1795(寛政七)年から惠斎は「略画式」をはじめとする絵手本シリーズを刊行。軽妙なタッチでデフォルメされた人物や動植物が評価された。「北斎漫画」を刊行したのはそれから約20年後。「略画式」に描かれた“ゆるい”絵とは違い、しっかりしたデッサン力を見せつける作品になっている。「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたことになしていへり」という惠斎の言葉が残っている。‥北斎は人の真似もするが、それを消化して大胆にアレンジするすることで、オリジナルを生み出したと称されていますが、裏を返すと、そんな天才・北緯にインスピレーションを与えた惠斎もまた優れた絵師だったことは確か。」(12~13頁)
法政大の田中優子名誉教授は、いつものように小気味のいい文章で次のように述べている。
「18世紀半ば以降、日本の浮世絵触診はずれや滲みを起こさない完璧な多色刷浮世絵を完成し、ヨーロッパや中国の版画技術を凌駕した。世界的にも高度な色彩版画技術が完成したのは、武士、職人の区別なく文字や芸術に没頭する複数の「連」が都市の中に出現し、彼らが文化の質を高めるため技術を職人の求めた空である。北斎が新しい方法を拓くことができたもうひとつの理由は、江戸時代の国際性である。中国やヨーロッパから、最新の織物、版画、版画入り書籍、レンズとそれを使った望遠鏡や顕微鏡や眼鏡、ガラス、コンパスなどが日本、とくに江戸に入ってきていた。ヨーロッパの遠近法によって‥立体的な資格作品も生まれていた。西洋人物画や銅版画、そしてプルシアンブルーのような人工顔料ももたらされた。北斎が活躍を始める16年も前の1783(天明三)年、浮世絵師だった司馬江漢は、化学薬品を使って日本で最初の風景画を完成していた。北斎の風景画は司馬江漢の銅版画とも異なっている。「神奈川沖浪裏」の浪は波じたいが生き物のである。富士山は光によって筋肉隆々の力強さ(山下白雨)にも、優しい柔らかさ(凱風快晴)にも変化する。無生物に生命を感じ取っている。北斎が描いたのは、自然と人間の「生命」の世界なのである。」(42~44頁)
以前にも触れたが、場面がまったく同じの司馬江漢と北斎の東海道五十三次の全場面の比較も欲しいと思った次第である。ほぼ西洋画の技法を忠実に日本の風景を描いた江漢と、それを参考に大きくデフォルメして風景画にドラマを吹き込んだ独自の風景画を示した北斎。もっといい比較になったのに、とも思えた。