Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」

2021年07月02日 23時26分05秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等



 ブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴いている。第1楽章のゆったりした第1主題は、ファゴットとクラリネット、ヴィオラとチェロの前半8小節、そしてオーボエによる後半8小節が、気分を落ち着かせてくれる。そしてすぐそれに続く第16小節からの全楽器による強奏で、気分が少しざわつき、41小節以降ゆったりとした気分に戻る。
 この繰り返しの中で90小節でソロヴァイオリンが、木管の第1主題を背景にパッセージで登場する。
 第2主題はようやく200小節を過ぎてから独奏ヴァイオリンによって静かに提示される。

 私はこの第1主題、第2主題ともに好みである。人は甘過ぎる旋律、映画音楽のようだ、という人もいるが、そのようにはうけとれない。甘い音楽で終始するならば、この楽章の展開部以降の地の底に沈み込んでいくような下降と、息を飲むような上昇の音階の緊張感あふれる進行は説明ができない。第1楽章はベートーヴェン風に四つの音のフォルテで終了する。

 第2楽章は、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の第2楽章を彷彿とさせるように美しい。木管とホルンによる進行が、独奏ヴァイオリンに引き継がれる所は、聴いている私にも強い緊張感をもたらす。
 ブラームスは吉田秀和が指摘するように、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が頭から離れなかった、と思う。否それどころか渦巻いていたはずである。
 この第2楽章の末尾に至るまで緊張感が続く。それはブラームス特有の3連符、5連符、6連符などの多用と併用による不安定な音の細分化によってもたらされているとも言える。

 第2楽章から第3楽章への移行と、第3楽章のそのものはベートーヴェンの劇的効果に軍配は上がるかもしれない。しかしブラームス特有のハンガリー風の曲を配置したことに並々ならぬブラームスのこの曲に対する思い入れを感じている。
 第3楽章の後半までくると、十分にブラームスの世界を堪能した、という気分と、すぐにでももう一度聴きなくなる衝動に駆られる。

 残念ながら好きなブラームスのヴァイオリン協奏曲なのに、CDは1枚しか持っていない。シュロモ・ミンツのヴァイオリン、クラウディオ・アバド指揮のベルリン・フィルの組み合わせである。1987年の録音、翌年には日本で発売されている。
 実はこの曲は1878年ブラームスが47歳の時に作られた。作曲に際してのヨアヒムとのやり取りは有名である。

 それには触れないが、私が昔この曲の作られた年を聞いてびっくりしたのは、それが明治11年にあたるということ。「近代国家」としての歩みを日本が開始したばかり、前年に西南の役があり、大久保利通が暗殺された年である。自由民権運動が胎動を開始し、フェノロサが来日した年でもある。
 日本の近代が、東アジアでの覇権・植民地主義の道を歩み、軍事国家へと変身するか、それ以外の道を模索するのか、大きな分岐点であった時期である。残念ながら国粋主義の道へと大きく舵が切られてしまい、日清戦争へと向かってしまう。そんなことを学生の頃に気が付いた。
 ブラームスが日本の近代国家の産声を上げた時に作曲活動に入ったということを知り、以来明治維新とブラームスは私の頭の中でパラレルな関係におさまっている。これが私のブラームス体験の側面でもある。むろん、日本の近代国家のあゆみと、ブラームスの作曲活動には何の関連もないことは承知をしている。

 決して雨の日には似つかわしくない曲かもしれないが、聴きたくなる時は天候を選ばない。


大雨警報

2021年07月02日 21時16分15秒 | 天気と自然災害

 横浜市域には、大雨(土砂災害)警報と洪水・雷・強風・波浪注意報が出ている。帰宅時は雨は小降りになっていたが、夕食前から再び強くなった。先ほどまでとても強い雨が降っていた。
 残念ながらレインアイよこはまは「不具合が発生」ということで、運用されておらず、画面は出てこない。最近このように肝心なときに「不具合」で画面が出てこないことが多い。困ったものである。
 明日はさらに梅雨前線が北上して、南関東は本日よりも雨の量は多いらしい。被害が出ないことを祈りたい。

 本日は昼食を喫茶店で食べたのち、人通りがそれほどではない地下街に入り、有隣堂と家電量販店を巡ってきた。
 有隣堂ではいつものとおり文庫と新書、選書などのコーナーで新刊書を物色した。相変わらず読みたい本は膨大だが、読み切れる自信がないまま、店を出た。
 家電量販店では、外付けDVDや電源コードなどを見て回ったが、予算よりも高価で断念。A5のコピー用紙も見て回ったが、A4のコピー用紙とほぼ変わらぬ値段なのだ、引き続き自分でA4をふたつに裁断して使うことにした。どんなに丁寧に半分に切っても重ねると1mm近い違いができてしまうのが残念である。

 昼間、不満・不平のてんこ盛りを喫茶店で聞かされたためか、私の頭のなかも不平・不満が湧いている。おとなしく自重しなくてはいけない。

 

 

 


「人の不幸は蜜の味」という不幸

2021年07月02日 17時28分11秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日眼鏡ができた。フレームが10日前にとうとう壊れてしまったので、新調したついでにレンズも新しくしてもらった。白内障手術後に作成したレンズであるが、やはり再調整したほうが良いと言われた。
 出来上がってみるとたしかに近点が見やすくなっている。出費はしたが、少し楽になったことはたしかである。
 今回のは遠近両用の眼鏡であるが、中・近用の眼鏡も欲しくなった。しかしレンズだけで2万円を超えるので、そう簡単には注文できない。もう少し様子を見てから判断することにしている。

 眼鏡店の予約が昼前、眼鏡が出来上がってから久しぶりに喫茶店で昼食を摂った。最近はほとんど家で昼食を摂る。組合の会館に午前から行くときはコンビニの小さな弁当ばかり。たくさんのサラリーマンに混じっての昼食というのは、なんとなくドキドキした。
 しかし男女を問わず皆さん、会社の同僚や上司のうわさ話や文句は止まらないようだ。何年かぶりにそんな会話を耳にしたが、聞いているとその会社の製品も、世話にもなりたくないな、と思う。傍で来ている人間までもが不愉快になる。そしてあれだけ文句ばかり言いながらの昼食は、一杯のコーヒーも含めて美味しくなくなるのではないかと、他人事ながら心配になる。
 人の不幸は蜜の味、とよく言われるが、当人のいないところでの文句は、その人を不幸にして憂さを晴らしているに過ぎない。消化にも精神的にもよろしくないと思うことしきり。これが夜の居酒屋ならばもっとひどいのだと思わざるを得ない。
 私は現役のころから、その手の話を自分からすることはしなかった。またそれは職場の最低限のルールというか、倫理であったと思う。これは公務員だけのことだったのだろうか。
 少なくとも、学生時代のアルバイト先はほとんどが肉体労働だったが、やはり同僚・上司の噂・批判はみんな避けていた。上司が怖いというのではなく、集団のチームワークが壊れることを避けるための知恵だと教わった。チームの和を大切にすることは、人間関係を良好にする基礎である。
 そのタガがはずれてしまうと、止められないのだろうか。それとも「憂さ晴らし」として企業内で公認されているのだろうか。もしそれうなら、きわめて不健康な企業だと思われる。

 残念ながら、本日の昼食は、口に詰め込むだけ詰め込んで、さっさと席を立ってきた。