衝動買いのようにして購入した谷川俊太郎の「モーツアルトを聴く人」を昨日から本日にかけて読んだ。谷川俊太郎の詩集を読むのは初めて。名前は知っているが、詩集を読んだのは初めて。いくつかの詩はどこかで見たり、聞いたり、読んだりしていると思うが記憶にないに等しい。
今回目を通して惹かれた箇所はいくつかあったが、本日は「ふたつのロンド」と「音楽のように」からの引用。
ふたつのロンド
六十年生きてきた間にずいぶんピアノを聴いた
古風な折り畳み式の燭台のついた母のビアノが最初だった
浴衣を着て夏の夜 母はモーツアルトを弾いた
ケッヘル四八五番のロンドニ長調
子どもが笑いながら自分の影法師を追っかけているような旋律
僕の幸せの原型
だが幼い僕は知らなかった
その束の間が永遠に近づけば近づくほど
かえって不死からは遠ざかるということを
音楽がもたらす幸せにはいつもある寂しさがひそんでいる
帰ることのできぬ過去と
行きつくことのできぬ未来によって作り出された現在の幻が
まるでブラック・ホールのように
人の欲望や悔恨そして愛する苦しみまでも吸いこんでしまう。
それは確かにひとつの慰めだが
だれもそこにとどまることはできない
半世紀以上昔のあの夏の夜
父がもう母に不実だったことを幼い僕は知らなかった
(後略)
音楽のように
音楽のようになりたい
音楽のように体から心への迷路を
やすやすとたどりたい
音楽のようにからだをかき乱しながら
心を安らぎにみちびき
音楽のように時間を抜け出して
ぽっかり晴れ渡った広い野原に出たい
空に舞う翼と羽根のある生きものたち
地に這う沢山の足のある生きものたち
遠い山なみがまぶしすぎるなら
えたいの知れぬ霧のようにたちこめ
睫毛にひとつぶの涙となってとどまり
音楽のように許し
音楽のように許されたい
音楽のように死すべきからだを抱きとめ
心を空へ放してやりたい
音楽のようになりたい
「二つのロンド」はとても惹かれた。「音楽のように」はこんな風に音楽を聴く人がいるのか、とふとため息をつきながら読んだ。音楽というものには私にとっては、それを奏でたときのさまざまな思い出や想念やらが詰まっていて、それに対する恥ずかしさや厭わしさ抜きには頭に響いてこない。どんな芸術作品も体験も同じである。たとえモーツアルトであっても同じだ。そんな厭わしさがない音楽には私は共鳴しないのだ。