Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「漢字の成り立ち」 その2

2022年03月22日 21時53分59秒 | 読書

 横浜では16時くらいには2.4℃まで気温が低下、寒い一日であった。寒い中、厚手のセーターを引っ張り出してきた。

   

 「漢字の成り立ち」(落合淳思)の第3章と第4章を読み終わった。第4章は藤堂明保の批判的検討。私は白川静に凝っていたので、白川からする辛辣で、感情的ともいえる藤堂批判は常に目にしていた。
 著者はかなり丁寧に具体的に例を上げながら藤堂批判を展開している。

「(字音を重視した藤堂の字源研究について)字音を反映して字形が作られたものてあっても、作られた後では字形が主体となって意味を伝達する性質のものなのであり、そのため字音は個別に変化してしまうのである。‥字形(視覚情報)を主体として字義(意味情報)が伝達されることが漢字の特徴であるが、これこそが漢字の強味なのである。後代の人々は漢字が作られた時代の発音を知らなかったが、それでも漢字を理解することができた。‥漢字が(言語体系が異なる)東アジアで共通の文字(書き言葉)として機能し続けた要因である。字形に比べて従属的な機能しか持たない字音を重視しすぎたことが(藤堂明保の)失敗だった。」
「藤堂明保の研究方法は、西洋言語学の理論を万能視して「イメージ」で字源を分析しようとしたり、甲骨文字や金文の知識が浅かったしたため、誤解や曲解が多く発生した。」

 私たちの世代にとっては東大教授という肩書のある藤堂明保という人の「説」は中学・高校の教師の金科玉条で「変だ」という意見が出せない「権威」でもあったと当時の高校の国語の教師から教えてもらったことがある。
 しかし藤堂明保が東大全共闘を支持し、封鎖排除に抗議して1970年に教授を辞したときは、さまざまな反応が飛び交った記憶がある。東大闘争時には、「東大という権威」そのものが問われていたが、藤堂明保が封鎖解除に抗議した理由はわからないまま、藤堂明保の名を私は忘れてしまっていた。
 その藤堂明保が白川静の「漢字」(岩波新書)に批判を展開し、白川が辛辣な批判を展開したことを白川の著作で知った。
 そんなことを思い出しながら、藤堂明保が字音によって漢字の起源を探ろうとしていたことをはじめて知った。
 著者の指摘は辛辣であるが、私には的を射ているように思える。

「殷代の発音については、上古音(周代の音韻)が正確に復元され、その上ではじめて検証が可能になる。」

 


塗り薬と抗アレルギー剤

2022年03月22日 14時16分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 冷たい雨が朝から降り続き、とても寒い。横浜の正午の気温が3.2℃となっている。雨に少しだけだが雪が混じっているように見える。

 午前中はいつもかかる内科に併設されている皮膚科で受診。皮膚科の医師からは「薬疹とは断定できない。また感染性のものではない」ということで、抗アレルギー剤と非感染性の皮膚炎用の塗り薬を処方してくれた。原因は特定・断定出来ない、季節の変化にともなう症状、ということくらいしか言えないとのことであった。

 耳鼻科の医師からも感染性のものではないことは言われており、その点では安心したが、原因が特定できない、というのは落ち着かない。もっとも皮膚科でかかる症状やアレルギーではそういうものであるらしい。

 紅斑はしだいに色が薄くなり、いわゆる枯れた状態になってきた。回復過程に入っているように感じている。

 宮城県の大崎市に住んでいる友人に地震のお見舞いはがきを出したら、お礼の電話をわざわざいただいた。携帯電話の番号を失念していて、それも教えてもらった。被害はご自身にも家屋にもなかったとのこと。一安心。本日はとても寒い、とのことであった。
 昨年の地震ではすぐに電話をしたが、かえって面倒をかけるかとおもい、今年はお見舞いのはがきにした。


チャールス・ミンガス「ミンガス・イン・ヨーロッパ」

2022年03月22日 10時00分20秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 昨日聴いていたジャズはチャールス・ミンガスの「ミンガス・イン・ヨーロッパ」。1964年の録音とのこと。いつ購入したかは覚えていないが、誰かにすすめられた記憶が微かにある。1984年の発売になっているものの、多分1990年以降に購入したのではないだろうか。チャールス・ミンガスのCDはこれしか持っていない。

 初めの曲は「フォーバス知事の寓話」という題名で37分を超える演奏である。解説によると「アーカンソー州リトルロックの白人大学に黒人学生の入学を力ずくで阻止したフォーバス知事への反撃」の曲だそうである。
 しかしその明るく、整った曲調に肩透かしを喰う。もっとも肩透かしはここまで。私は演奏者や作曲者の思想性云々で音楽の価値が変わるとは思っていない。

 コントラバスの音がこんなにも歯切れよく聞こえてくることにはおおいに惹かれた。まだこのCD全体に現代音楽の要素や、和風の旋律などを強く感じてこれも面白いと感じた。器用にいろいろな要素をちりばめてある。そしてベースが大きな顔をして全体を引っ張っていくことは私にとっては新鮮であった。ベースが中心に座っていることに驚いた。
 しかし、それでもこのCDは購入したときに1度聴いただけでご無沙汰してしまった。もう少しスローでしっとりとしてほしいと思ったのだ。
 それだけの理由で好き嫌いを決めてしまうのはもったいないとは思う。幾度も聴くとおのずと気に入るかもしれない。そのうちに誰かの勧めでまた聴きたくなるかもしれない。今回もまた棚に鎮座させておくしかないようだ。

 好き嫌いというものは、この歳になっては、もはや変えられないものばかりが多くなった。好き嫌いを転換できる契機もあまり無くなってきた。そしてどんなものがなぜ好きで、何が理由で嫌いなのか、自分でもわからなくなっている。変えられないものばかりの塊が70年積み重なって持て余している。