Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「平山郁男シルクロード美術館」と「浅川伯教・巧兄弟資料館」

2013年11月23日 17時31分08秒 | 山行・旅行・散策
 本日は先ず、清里駅から小淵沢駅方面に二つ戻り甲斐小泉駅で下車。すぐ目の前の「平山郁男シルクロード美術館」を訪れた。
 平山郁男という画家、名前は知っているが実際に作品を直に見たことはない。シルクロードを描き続けたことと東京芸大の学長を勤めたことは知っている。
 昔ラクダに乗っている隊商の一行の絵を見て違和感をもって以来食わず嫌いを通してきた。それはどういうことかというと、隊商というのは荷を運んで成り立つのであるから、ラクダ10頭で10人ではないはずだ。しかし荷を積んだラクダがいないのだ。私はそれに強い違和感を持った。
 同時に私は現にシルクロードの地域に生きる人々の息遣いが感じられないというところにも違和感がある。幻想の隊商を描いたのだろうが、文化の伝播は現代人の歴史に対する幻想であると同時に、生々しい現実の生活にまみれた地域の人々の往来である。現代の人々の生活感が私には感じられない。

 これが私の食わず嫌いの根拠だ。
 今回この違和感は残したまま、平山郁男という画家の絵が面白いと感じたのは、緑の使い方に感心したからだ。
 今回展示してある奥入瀬渓谷の深い緑のグラデーションに魅入られた。とても奥行きの深い自然描写の力を感じた。これはもっとキチンと見なくてはいけないのかと思った。これ以上は何ともいえないが、素直に作品に対した方が良さそうである。

 次に訪れたのは、「浅川伯教・巧兄弟資料館」。甲斐小泉駅からタクシーで3500円したがこれも訪れて良かった。以前に映画「道ー白磁の人ー」の感想をこのブログにアップしたが、この浅川兄弟の出身地である北杜市高根にある資料館である。とても丁寧な展示であった。

 この2館の感想も後日アップしたい。

 とてもよい一日であった。ともに妻の発案である。

 本日の宿泊は塩山にある川浦温泉。

 


周囲は山・・夕方の眺望を満喫

2013年11月23日 06時01分04秒 | 山行・旅行・散策
 昨日はホテルからの眺望を満喫した。南に正面に富士山、東に金峰山と瑞牆山、西に北アルプスの鳳凰三山・北岳・甲斐駒等、北に八ヶ岳。八ヶ岳は最南端の編笠山の姿が美しい。
 雪で山の稜線がくっきりして際だって見える。

 富士山を除いてすべて登ったことがある。登った時の記憶を思い出しながら眺めるのは楽しい。また昇りたくなる。

 現代美術館では撮影が許されたので、気に入った作品を、帰ったらアップする予定。

 本日の予定は、従僕は知らず・・。

 

さびしい清里駅にビックリ

2013年11月22日 21時41分08秒 | 山行・旅行・散策
 中央線の小淵沢に着いた時は散ってしまう寸前の紅葉が最後の輝きを見せていた。枯れ葉の痛み具合も例年以上に強く、夏の暑さのひどかったことがわかる、と云われているそうだ。小淵沢から小海線に入ると周囲の樹林はドンドン葉を落とし、清里駅に着いた時にはほとんど冬の樹林帯の様相であった。
 昼食を食べようと駅前を歩いてビックリした。洒落た建物、小綺麗な店がたくさん並んでいるが、どれも店が閉まっている。金曜日の昼とは思えない。ゴーストタウンという言葉が浮かんだ。しかも店先もたたずまいも綺麗である。でも人の気配がない。
 洋品店をやっと見つけて、食堂を聞くと約150メートル先を教えてくれた。50人以上入る大きな店に私たち3人だけである。ほうとうを注文して美味しく食べたが、あまりの人のいないさびしさは変わらない。店の人に聞いても要領を得ない。
 案内図で「清里現代美術館」を見つけ、500メートル歩いて訪れた。中にはジョン・ケージの楽譜や猪熊玄一郎、ヨーゼフ・ボイスなどの作品が並び、とても充実していた。
 帰り際に管理人に聞くと「20年前までは人が列をなして歩いていたが、あっという間に人が来なくなり、今は店もほとんど売りに出されている。隣の駅の甲斐大泉が今は人が多い。私どももうすぐ廃業かな」と自嘲気味に言っていた。
 帰り際に目を凝らすと、ヨーロッパ陶器の美術館も信用金庫の支店もがらんどうで、営業していない。あまりのさびしさに背筋に震えを覚えた。結局駅前のとおりに面している500メートルほどのところで営業していたのは、食べたレストランと洋品店、みやげ物店、喫茶店の4軒のみであった。
 ホテルが安かったのはこんな状況を反映していたらしい。しかし宿泊客はかなり多い。これだけの人がどこにいたのかと不思議な気もした。
 温泉はアルカリ泉で気持ちがよかった。

清里高原

2013年11月22日 09時32分07秒 | 山行・旅行・散策
 今日は八王子ー小淵沢経由で清里高原へ。当初は紅葉を楽しむ予定だったが、今年はもう枯れ木立・雪景色を楽しむことになりそうである。
 もっと近場を考えていたが、どういうわけかこちらになった。
 紅葉だろうが枯れ木立・雪景色だろうが、温泉&露天風呂では差はないのだが・・。
 山に登らず高原で温泉というのは、登山愛好家としては落ち着かない旅行である。いくら冬山にはふだんは行かないとしても・・。
 

ターナー展

2013年11月21日 20時53分07秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日は予定どおりに、講座の合間を縫って上野の東京美術館で開催している「ターナー展」を見てきた。
 12時30分過ぎに横浜を出て、13時30分から1時間ほどで会場を回った。それほど込んでいなかったので、全体の雰囲気は充分見ることが出来たと思う。じっくりというわけではないが、この印象を忘れないうちに購入した図録で再度確認しながら感想をまとめてみようと思う。明日から母親を連れて旅行に出るので、本日の内に図録を丹念に見てみたい。
 更に1997年に横浜美術館で開催されたターナー展の図録とも比較もしてみたい。そのときのターナーの作品に対するイメージと違うイメージもある。簡単にはまとまらない気もする。
 どのような切口にしようか、なかなか決まりそうもない。

 上野公園は銀杏の黄葉がきれいであった。



 こちらは横浜美術館前の銀杏


ドキュメンタリー映画「先祖になる」を観る(その2)

2013年11月21日 09時00分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 元行政マンとしての私が現役ならば、きっと佐藤直志さんには手を焼いたろう。いや私だけではない、行政全体が手を焼いたと思う。何しろ市の建築計画・復興計画に従わず自宅の再建をやると宣言してしまうのであるから。立ててはいけないところに家を建てるというのだ。家をたてるということは確かに生活の再建・地域の復興の端緒ではある。そのことを直志さんは無言で若い人に訴えていると感じた。
 しかし、市の再建計画・復興計画と直志さんの自宅再建の思いとのズレはどう整理されたのであろうか。そこのところの経過は映画では不明だが、何故か家の再建は許可が出ている。
 菅野剛さんがインタヴューの中で「町には建築することに妨害はするなと言ってきた」というような発言をしている場面があるから、違法建築は黙認なのかとおもった。だが年が明けてから、再建資金の申請書を正式に提出しているところを見ると、復興計画には抵触しなかったと判断もできる。そこら辺のはっきりした経過と結末は映画に表現されていないのはちょっと残念であった。
 行政というのは避難所にも仮設住宅にも入らず、孤立している直志さんのような人とコンタクトを絶やすことは許されない。多分私は仕事の分担、あるいは職場での自分の役割からすれば、最後まで直志さんのような人とのコンタクトを取りつづけ、関係を継続する役割をいつの間にか担当していると思う。行政マンとしてはそのような役回りを自ら進んで続けてきた。このような振る舞いは何も「経験豊か」な50代の仕事と決められたわけではない。20代や30代でもこのような仕事がまわってくることがある。あるいはまわってくるような性格というのがある。私はいつもそのような仕事を引き受けてきた。
 古い共同性が解体した都会では、新興住宅に囲まれてしまった地域に、周囲から孤立してしまった高齢の頑固者が点在している。古いことにこだわったり、些細なことに依怙地になって地域と軋轢を起こして嫌われ者になっているのだ。かれらが周囲と引き起こす事象で行政が関わらなければならないものは、どれも杓子定規では裁断できない困難がある。逆に言えばそれを引き受ける困難さが、仕事のやりがいでもある。人生の機微に触れながら、人との関係を継続する応用力が問われ続ける仕事である。
 何度も繰り返してしまうが、副主人公でもある菅野剛さんはきっとこんな役回りをずっと続けてきた人柄かと思った。とても魅力的な人物である。その経歴がその豊かな人生を物語っている。この人を見つけたこともこの映画の手柄だと思う。

 最後の場面で、出来上がった真新しい家に、妻とも別れ、津波で亡くなった長男の嫁ともわかれ、ただ一人で朝日を浴びながらお茶をすすり「ああ」と嘆声する直志さん。映画の評を書いている瀬戸内寂聴さんは「すがすかしい部屋でひとりお茶を呑む直志さんの無邪気な笑顔を見たとき、どんな災害も人間の柔らかな心と、強い意志を奪うことは出来ないのだという深い感動に、自分の心がうるんでいるのを感じた」と記している。
 私は瀬戸内さんらしい優しさに包まれた言葉だと感じる。そのとおりだと思う。
 だが、地域から孤立しながら、地域のまつりを支えた若い力に町の復興の明るい未来を見ている直志さんは、父母の位牌や写真、津波で亡くなった長男の位牌と写真以外の家族からは見放されているのである。位牌と写真と本人以外がいない真新しい家、最低限いなくてはいけない生きている妻が、この家にはいないのである。
 この寂しさを直志さんはどこかに秘めている。監督もそれに気付いている。あの美しい朝日に「ああ」と出てきた言葉にもこの寂しさはこもっているのではないか。希望は確かにある。それだけの若い力もないわけではない。しかし一方で解体に瀕している地区の課題も残っている。若い力も永続的にこの地区にこだわるはずだという保障はない。 残念ながら祭りという熱気ある場だけでは明るい未来は描けない。直志さんが家族で孤立しているのは、実はこの地区で共通の悩みなのである。課題は笑顔に隠された向こう側に頑として立っているのである。

 私はとてもいい映画を見たと感じた。

お酒は1合だけ

2013年11月21日 06時33分49秒 | 料理関連&お酒
 昨日は妻と「先祖になる」を見てから、二人でたまに行くことのあるお蕎麦屋さんに行った。定食屋よりもおいしいお酒があるので、つい引き寄せられてしまった。
 私は「三六人衆」というそのお店では新登場の山形県酒田の菊勇というメーカーの銘柄。妻はグラスビール。肴はだし巻き卵、揚げ出し豆腐、ぶり大根。野菜が足りなかった、と反省したもののこれ以上は食べられないので、追加は断念した。
 ぶり大根がボリューム満点で、頭ひとつと中骨半分。骨も食べられるほど煮込んであり、味も良かったが大根が一切れというだけはさびしかった。ここの揚げ出し豆腐は私のお気に入りである。わずかに乗った細い生姜がいいアクセントである。
 お酒は2日間を空けたこともあり、思わずニタッとして、笑われてしまった。おいしいお酒である。冷蔵ではなくて、燗酒用のものを常温で供するこのお店のこだわりが面白い。

 ふと店内を見回すと、なんと現役時代の大の友人が孫を連れて一家でお蕎麦を食べに来ていた。一緒に退職者会の幹事をしている。

 お酒は1合だけでお仕舞いにして、お蕎麦を2人で1枚だけ食べて帰ってきた。

ドキュメンタリー映画「先祖になる」を観る(その1)

2013年11月20日 23時48分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 神奈川大学の横浜キャンパスで放映されたドキュメンタリー映画「先祖になる」を観てきた。
 3月11日の震災で津波に襲われた岩手県陸前高田町気仙町荒町地区で生き残った佐藤直志さんの震災後の生き方を通して、彼の生き様を浮き彫りにした映画。
 なかなか見ごたえがある。淡々とした語りと進行なのだが、気負うことなく復興・再建をごく当たり前の人生の一齣のように向っていく姿勢に、人間の強さを感じることが出来る。あまりの頑固さに辟易とする周囲の困惑もよくわかる。私の身内に、特に親父がこんなだったら私は切れてしまうかもしれない。
 私も元行政マンである。だからこんな親父に出会ったら仕事はお手上げである。頑として避難所にも仮設住宅にも入らない。77歳にもなって妻に別居を宣告され、亡くなった息子の連れ合いとも離れても自宅に留まり、復興計画に抵触しても家を再建してしまう。まったくもって困った存在である。
 この映画の主人公、山の職人としての佐藤直志さんを見ていると、私に仕事を教えてくれた現業の先輩のAさんを思い出す。年齢は直志さんより6つほど若いが、表情も仕草も頑固さもよく似ている。わき目も振らず仕事をしているときの表情がそのままその頑固さと柔和さを物語っている。
 都会にもこのような職人はいっぱいいたのだ。多分今でもそんな職人気質は生きているだろう。しかしこの職人気質の人は今の時代では社会の先端、仕事の第一線にはいない。生き方としては片隅に追いやられている。私の先輩も現業職韻として大工、運転、建設作業を黙々とこなしていた。そして職場で必要なあらゆる作業のコツを身につけ、人に教えるでもなく、淡々とこなしながら若い人に仕事のやり方から人生の処世訓までも自然に伝えていた。このような人と寄り添うように私の職業人生の半分を共に過ごさせてもらった。
 私は以前にこのブログで釜石市長の講演を聞いた感想に「危機に直面したとき、人は真価を発揮する」と書いた。この映画でも、震災直後の困難な時期の主人公の話し、そして誰よりも早く復興に向けて動き出したときの直志さんの話しに、この言葉をあらためて実感した。
 ひとつひとつの行動がいつの間にか新しい生活の再建・復興につながっていく。自給自足という言葉を口にして、たんたんとして、だが梃でも動かぬ頑固さを持って断固として一人で田植えをし、蕎麦の実を蒔く。誰もそれを止めることも出来ない。
 それを支えているのがこれまでの人生で培ってきた地域の共同性であり、人のつながりである。地域の共同性の中でこそ発揮される生き様である。「たとえ山の中でも水さえあれば生き延びられる」としてサバイバルの術を駆使できる直志さんであっても、その共同性の中でこそ、その技能が発揮されるのである。このドキュメンタリーはそこまで表現している。監督の非凡さを見た思いがする。
 直志さんを支える菅野剛さんという人物もまた魅力的である。彼は1949年同じ気仙町に生れた直志さんの16歳後輩。経歴では「東北大学工学部電気応用物理学科に入学するも、学園紛争に明け暮れる学生生活に嫌気がさし2年で中退。上京してキャバレーのボーイや沖仲士などの職を転々と」したとある。経歴を見る限り私の仙台での生活とちょうどすれ違いである。私が入学したとき、菅野さんは多分仙台を離れたのだろう。私の同学年にもこのような同窓生はたくさんいた。私もひょっとしたらこんな人生を送ったかもしれない。いやその可能性は極めて大きかったといえる。人を、頑固な職人を生活の現場で支えるというのはこのような振る舞いとなるのかもしれない。私の人生の選択とダブって見えるところがあった。
 直志さんの生き方は特に気負ったところはない。たんたんと目の前のことをこなしながら、いつの間にか復興という方向が町全体の方向と一致しているのである。ある意味でその土地の共同性を背負っている、あるいはその寡黙な背中で体現している生き様なのである。
 しかしその頑固さは周囲を辟易ともさせる。市の復興計画にまったくとらわれないわが道を行く生活の再建である。そこに力強さを感じることも出来る。だが、家族や、横浜などの大都会とは違って実に身近である市の行政との軋轢をうまく処理できないのもまた直志さんという人の生き様でもある。そこの狭間に立つのが菅野剛さんという人格である。
 私も職場のAさんならどう思っているかをいつも念頭に置きながら職場での立ち居振る舞いを考えていた。そしてAさんなら当局に対してどのような物言いをするだろうかと想定し、それを肯定したり否定したりしながら組合活動の方向性を模索していた。いつもAさんの振る舞いが、否定も肯定も含めて教科書であった。きっと菅野剛さんもそんな思いで直志さんと付き合い、そして地域で生きて来たのではないだろうか。直志さんと菅野さんの関係を、若い頃の私とAさんとの関係を思い浮かべながら、この作品を見ていた。
 菅野さんはこの地の「気仙町けんか七夕保存会」の副会長であり、太鼓演奏に指導的活躍をしている。祭りの日、直志さんも寄付を集める係をしながら達筆で寄付者名簿を作成し、大切な祭りを支えていた。祭りが地域の共同性の絆を強める大事な場面であることをドキュメンタリーは実にうまく撮っていた。
 祭りという瞬間の高揚の場の中で、地域の結束に向けた決意が共有される。祭りというのはそういうものなのであろう。我々が忘れかけたものがそこにはあった。特に震災というものを契機として、こういうものの価値が再認識された様子が伝わってくる。
 しかし祭りというのは、一過性だ。言い方が悪いが、気分の高揚が言わせていることもある。現実の生活の判断はもっとシビアで、熱気だけでは語ることはできない。そんな危うさも祭りの高揚は持っている。そうだ、私は既にそのような見方で、醒めた目で祭りを見ることを続けて来てしまった存在なのだ。

大腸内視鏡検査終了

2013年11月19日 21時49分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ようやく無事終了。小さなポリープが1個在ったようだ。組織検査の結果は12月に入ってから話を聞くことになった。検査を担当した医師の話では異状なしと思うとのこと。いつものように撮影した画像を見ながら説明してくれた。しかし内視鏡が大腸の中を進んでいくのは何回経験しても気持ちのいいものではない。特に直角に曲がるところではとても痛いし、お腹の内部を引っ掻き回されるような感じがする。
 腸の動きを抑制する薬の効力がなくなるまで、検査で大腸内に入れたガスがお腹に溜まって苦しい。45分ほど待合室でガスが出るのを待ってから、いつものように食堂でとろろ昆布うどんを食べた。今回はお腹の張りが強くて食欲があまりわかなかったが、ゆっくり食べると徐々に食欲が出てきた。
 だが、来年もまたこの検査があるのかと思うと、だんだんつらいと思うようになって来た。

 病院正面口にちょうど来たバスに飛び乗ったら、自宅の方向とは違う方向から横浜駅に向うバスであった。やむを得ないというか、幸いというか、ついでに横浜駅西口で特厚口の紙を買い足してから帰宅した。
 帰宅する頃にはおなかの中のガスはほとんど出たようで、お腹の調子も元に戻った。

 夕食は「刺激のあるものは駄目。消化のよいものにすること。アルコールは本日は禁止」といわれた。明日はおいしそうなお酒を探して見ようと思う。日本酒の方が良いかもしれない。

 印刷は昨日に引続き順調に進んでいる。時間的に今日中の終了は難しいかもしれないが、明日の夜も特に仕事はないので続行できそうである。

 明日は朝はみなとみらいでの講座、午後は神奈川大学の横浜キャンパスでの講座と夕方からは同じキャンパス内で無料の映画上映。映画は妻と2人で予約した。感想は明日中にアップしてしまいたいものだが‥。

 さて夕べは美しい月であった。前日の17日が満月であったが、それにおとらず澄んだ月を見た思いがする。そして確か今は宵の明星だと思うが、金星が美しい。明日明後日と久しぶりに夜空を見るのもいいかなと思った。少し気分が上向きになっているかもしれない。 

50万アクセスに感謝

2013年11月18日 23時00分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 さっき自分のブログを見たらいつの間にか、延べアクセス数が50万を越えていた。述べの訪問者数も18万を越えている。最初にこのブログを登録したのが2007年7月6日、岩手山の鞍掛山に妻と登って印象を記した。
 その後2年以上放置をして、2009年8月1日から本格的に更新を始めた。はじめは短い記事ばかり。衝動買いの本の紹介から始めている。これがこのブログのスタートラインだと思う。丸4年と4ヶ月、よく続いていると思う。
 最近は毎日のアクセスが900を越えて1000をかなり越えることもある。訪問者も今週は240前後に戻ったが先週は毎日平均350を越えていた。こんなにヒットするのは多分美術館の感想の検索でヒットする数であって、実際に記事に目を通していただいているのは何%かになるのであろうと思う。それでも当初の20くらいの訪問数、50前後のアクセス数からは想像も出来ない数になっている。
 訪れてくれた皆さんありがとうございます。
 いつもコメントをいただいている葦原の山姥様、大納言様、通りがかり人様、RW様、感謝いたします。また当初はコメントを昔はいただき、今はツィッターでお世話になっているさとうてるえさん、がんばるにゃんさん、感想をメールや電話で寄せていただいている幾人もの方、私のブログの記事を時々御自身のホームページに転載していただいている神津さん、亡くなっちゃったけどアドバイスをいっぱいもらった松井英明さん‥‥本当にたくさんの皆さんに読んでいただき感謝です。
 これからもいろいろなアドバイスや意見をよろしくお願いします。


 さて、先ほどまで、沖縄旅行の報告書を印刷しながら、空になったインクボトルに詰め替え用のインクを注入していた。結局2時間ほどかけて12部(A4両面4枚で計84頁)を印刷し終わった。「きれいモード」だから時間はかかったが、1枚もロスはなかった。これまでのレーザープリンターなら裏面印刷のときに4枚か5枚は失敗して結局裏表印刷しなおしなどが出ていたと思うと随分楽になった。発色については地味すぎる気配がありちょっと不満があるが、許容範囲である。写真モードでは少し赤が強すぎるが明暗が(過剰に)くっきりしている。

 明日中に残りの12部を印刷し終わって、ホチキス止めまでやってしまいたいものだ。片付けられるものは早めにやってしまったほうが気分がいい。性格だから先延ばしが出来ないのだ。本日できるものは本日やってしまいたいという衝動が学校を卒業して就職してから強くなったと思う。これが50代後半に発症した「うつ症状」の原因だと誰かに言われたが、そう思うフシはある。
 しかしこれは後天的であるが、今さら後戻りできない性分だと達観している。大学を卒業してから多いに性格は変わったと思う。高校を出てからもかなり変化しているので、大学での5年間というのが本当に自分の人生の大きな曲がる角、結節点であったと思う。ものの考え方はむろんのこと、性格まで変わったと思っている。
 そういった意味で、あの5年間は私にとっては有意義な5年であったと思う。いい友人に出会えたと感謝している。大学という場を自分にとってそのままの形では有意義は場とはしなかったが、「反面」という意味でとても有意義に過ごさせてもらった。今年同窓会をして、あらためてそのように実感した。


明日は「大腸の内視鏡検査」

2013年11月18日 20時33分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今日は退職者会の幹事会。組合の会館まで往復歩いて23,000歩あまり。10時半ころに家を出てコンビニのおにぎりをひとつかふたつ食べて、昼からの事前の打ち合わせに出席する。その後、幹事会をこなし、チラシの発送作業を終えてから再び歩いて帰ると大体18時頃に家に着く。本日は少し時間があったので少し遠回りをした上にさらに団地の外周を一周してみた。26,000歩ほど歩いた。
 昨日久しぶりに走ったので、ブログで紹介された千年灸を足三里にすえてみた。効果があったのかどうかは不明。妻からは部屋のにおいが気になる、好みのにおいではない、と不評だ。今後どうしようか思案中。

 さて明日大腸の内視鏡検査である。正確には覚えていないが確かこれで10回目位である。昨年ポリープを切除したが、今回の大腸癌検診では潜血反応は調べずに最初からこの内視鏡検査を指示された。
 本日の午前0時から禁酒、そして種があったり繊維質の多い野菜・果物、そして海藻類などは食べてはいけない。乳製品・濃縮ジュースも禁止である。21時に下剤を飲む。
 そして明日朝から腸管をきれいにするために2リットルの下剤のようなものを2時間かけて飲まなくてはならない。これがつらい。ほとんど味のないものを12分おきにコップ1杯を10回続けて飲み続けるのは苦行である。そしていい加減草臥れころにタクシーで病院に行く。何回やっても慣れて楽になるということはない。

 夕べ寝る前にアップしたプリンターの使い勝手の問題。結局はこのプリンターは普通紙のモードでないと両面印刷はできないということであった。写真用の画質では両面印刷そのものの表示が自動的に消えてしまう。そもそも設定できないようになっている。確かにスーパーファイン用紙などの写真用の用紙は印刷面を重ねると紙がくっついてしまう。特に両面用紙の場合は給紙のところで引っかかってしまう。片面でも引っかかりやすい。
 ということで普通紙の厚口の紙を買ってきて普通の印刷モードで両面印刷するしかないようだ。打ち出された写真画面はやはり見劣りがするが、通常の薄い紙よりは格段に美しい。少しうすい発色なのが気になるが‥。今回はこれで我慢してもらうことにした。本日から印刷を始める。この特厚口の紙は50枚しかないので、明日検査の後、横浜駅まで購入しに行く気力・体力が残っていれば買い増しに行くつもりだが、果たしてどうであろうか。普通モードではランニングコストが明示されるのだが、「きれい」モードでの印刷ではいくらになるのか、どこをみても書いていない。いくらで請求するのか、考え物だ。

両面印刷・連続印刷

2013年11月17日 22時46分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日までに印刷を終りたかった沖縄の報告書は残念ながら原稿の点検をお願いしたものの間に合わず、来月までに仕上げることとなった。原稿を送ったのが遅かったからやむを得ない。
 しかも本日、プリンターで試し刷りをしてみたのだが、両面スーパーファイン用紙で「きれい」モードで印刷すると、両面印刷も連続印刷も出来ないことがわかった。4枚組で両面で21部作成しなくてはいけないのだが、片面ずつ一枚一枚手差しでないと印刷できない。連続印刷をすると紙送りがうまくいかない。2枚、3枚と送ってしまう。
 これは大変なことである。4枚×2面×21組=168枚の印刷をずっと見守りながら手差しで処理をするということである。これは向こう1ヶ月かけて印刷するしかないようだ。しかもインクも随分使ってしまうようだ。紙代もかかる。100枚で1200円ほどかかる。ただし印刷は鮮明で、普通紙で印刷したものと比べようもないくらいきれいである。
 あるいは上質紙の厚紙を使う手もあるかもしれない。試し刷りで比較する時間はありそうだ。これで鮮明ならば両面印刷も連続印刷もできると思う。これなら楽なのだが‥。

 本日は久しぶりに12キロ余のコースでジョギング&ウォーキング。ジョギングは実質10キロ。さらに夕方に横浜駅まで歩いて往復して、23,500歩あまり。11月に入ってウォーキングの比重が多かったので、今日の汗は気持ちがよかった。

 ターナー展を見に行きたいのだが、なかなか行く時間がない。本日妻と相談して、思い切って21日(木)に行くことにした。午前中の講座が終ってから、16時に始まる次の講座までにとんぼ返りで見にいくことにした。
 20日(水)は神奈川大学で「先祖になる」という映画を無料で公開するので申し込んだ。そのの前日19日(火)は大腸の内視鏡検査である。明日は退職者会の幹事会。22日(金)から2泊3日で母親・妻と三人で八ヶ岳に行く事になった。
 来週はとてもあわただしい。

「松井英明君を偲ぶ会」(2)

2013年11月17日 12時56分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 昨日は「松井英明君を偲ぶ会」に同期生40数名と、同窓生以外の関係者30数名が集まって盛大に行われた。
 次の週の23日(土)に同期会が予定されていたが、こんなにも同期生が集まったのは嬉しい限りである。彼の交友範囲の広さが伺えた。
 同期生のMさんが開会の挨拶、中学一年の時以来の美術部の顧問で恩師であった菊地洋二先生に献杯の音頭をとってもらい、開会。会場の関係で挨拶も献杯の音頭も2回に分けなくてはならなかった。
 花を供えて、生前の顔を拝見、とても懐かしく思い出された。私は中学1年から3年
生の12月まで、三ツ境駅から山手駅まで毎日一緒に通った。中学3年の3学期からは私が引っ越したので、一緒に通うことはなくなったが、仲は良かった。
 大学生になって中学・高校の同期生たちとはかなり疎遠になり、就職後も連絡は取らなかった。母校の同窓会名簿にも私からは住所氏名を登録しなかったと記憶している。しかし松井英明君から母校の労働争議の支援をして欲しいと頼まれ、故久保田和尊君と駆けつけた。どこの上部団体にも属さない母校の労働争議が最終的に組合側の目的を達して解決してからは、頻繁に会うようになり、また同期会にも参加するようになった。
 そういった意味では松井英明君は、古い友人たちとの橋渡しをしてくれた人だ。
 最後には東京造形大学で教鞭もとっていて、私のブログにもいろいろとアドバイスをしてくれた。大変感謝している。
 奥様の御好意で、飲み物代は「松井君のおごり」ということであった。こんな楽しい会はとてもうれしい。最後に友人のO君の作った彼の生前の写真や絵画作品のオムニバスを上映。これもいい演出だったと思う。それを写真に撮ったが、彼の作品のイメージが損なわれてしまうので、掲載は見合わせることにした。
 しかし倒れてから9ヶ月の闘病生活、奥様の苦労は並大抵ではなかったと思う。病院へ通いながら、松井君の高齢の母の世話も行っていた。頭が下がる。
 3時間で会は終了したが、同期生は3次会まで横浜駅東口で、震度4の地震にも気付かずに飲み歩いた。同期会よりも話がはずんだような気もした。私は残念ながら来週の同期会には出られないので、かなり饒舌に喋っていたと思う。



 なお、彼が作品を発表し続けた「道展」が来年1月16日(木)から21日(火)が横浜馬車道アートギャラリーで開催される。そこで遺作を展示するとのこと。毎年行っているが、今度も是非行きたいと思う。

 最後に、この「会」を準備してくれた同期会の仲間達に心から感謝である。

震度4

2013年11月16日 23時23分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 地震にもまったく気付かず「松井英明君を偲ぶ会」を最後まで付き合った。地震のお見舞いのメールをいくつかもらってびっくりした。私のいた横浜駅周辺も震度4であった。情けないものがある。同時に、早速の連絡、安否確認等ありがたいものである。
 横浜駅からフラフラと45分ほど歩き続けてなにごともなく無事帰宅した。いつもより10分以上時間がかかった。

 地震の時、我が家ではセキセイインコを籠から出していたそうである。お気に入りのトイレットペーパーで遊んでいたセキセイインコも地震に気付きジッと固まってしまったという。妻と二人(?)で見合って固まっていたようである。

 会の様子はあすにアップ予定。
 
 先ずは就寝!

「松井英明君を偲ぶ会」

2013年11月16日 07時01分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩ブログの帰宅後短い記事を書いてこのスマホからアップしたつもりが、「投稿する」ボタンを押さないまま寝てしまったらしい。深夜に目が覚めてパソコンからコメントに返事を書いたときには、記事を作ったことすら忘れていた。
 今朝目が覚めてから何か変だ、と思いながらスマホの投稿画面を呼び出してみたら、未投稿のまま残っていた。慌てて再度投稿しようとしたが、間違って「廃棄する」ボタンを押してしまった。

 夕べ何を書いたか記憶が戻らない。昨日は友人と生ビール2杯分相当を飲んだつもりだったが、思ったより効いたようだ。
 
 本日午後、「松井英明君を偲ぶ会」を同窓生の彼の友人たちが企画してくれた。「平服での参加」と呼びかけには記載されている。 いい「偲ぶ会」になってほしい。
 さすがにいつものGパンスタイルでは気が引けるが、Yシャツ・ネクタイの用意もないので、2年前までの通勤スタイルに近い服装をして参加する予定。