Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

劇的に症状改善

2013年11月14日 20時21分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昼過ぎに病院で処方されたピーエイ錠と抗アレルギー剤を服用したところ、劇的に症状が改善された。抗アレルギー剤を服用したので、薬で強引に鼻が乾燥しているというような感じではなく、自然に鼻水が止まったような感覚である。クシャミもとまっている。薬が切れる頃かと思った18時半まで症状のぶり返しもない。夕食を済ませてから一度クシャミが出て、鼻をかんだだけ。
 4日分の12回のピーエイ錠と、1日2回の抗アレルギー錠だが、この調子でよくなれば、今晩と明日の朝の3回、1日分の服用で済ませられるかと思う。薬の服用は出来るだけ少ないほうがいいと思っている。残りはこの次に症状が出たときのためにしばらく保管しておこうと思う。

 コメントで「古い薬はご用心」と葦原の山姥様に指摘をされた。ありがとうございます。大納言様のように10年は保管しないものの、2年くらいは取っておこうかと思っている。粉薬ようの紙の包装なら2年も保管していたら劣化が激しいだろうが、プラスチックの包装だから湿気も虫も遮断出来ているはず。
 実は狭心症用の舌下錠は7錠ほど処方してもらって、常備薬としてリュックにいつもしまっているが、3年ほどで包装が破れて使えなくなるので廃棄する。そうなるとまた処方してもらうということを繰り返してきた。もう15年服用したことはない。

 明日は雨模様で湿気もあるようだ。気温も少しだけ高くなるとの予報である。鼻水とクシャミには適度なお湿りと気温になることを祈りたいものだ。

 そうはいっても今晩は夜更かしせずに早いところ寝てしまおう。

ピーエイ錠

2013年11月14日 13時57分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 夕べの水洟とクシャミは布団に入ってもしばらく続いた。ようやく寝付いたが朝になって目が覚めると再びクシャミと水洟が止まらない。朝の内は寝ていようと思ったが、寝られない。
 やむなく2年ほど前に同じような症状でもらった薬を探してみた。ピーエイ錠ないしPL顆粒があったと思っていたが、もう既に廃棄してしまっていたようだ。何とか症状を押えたいと思い、やむなく病院へ行った。ピーエイ錠と抗アレルギー薬を4日分処方してくれた。多分2日も服用すれば治るので、残りは次の発症のときまで残しておけば助かる。
 このピーエイ錠ないしPL顆粒は、共に私にはよく合うようで、多いに助かっている。

 16時からの講座にも出たいので後1時間ばかり寝てから出かける予定。明日・明後日と症状を抑えられれば、後は何とかなる。といっても薬を飲まなくても2日たてばほぼ症状は治まるのだが‥。強引に症状を抑えるのは好ましいことではない。しかし特に明後日の土曜日はこのブログでも取り上げたことのある「松井英明君を偲ぶ会」だからどうしても参加したい。

 本日はお酒はやめなければいけない。


新丸子駅近くの蕎麦屋で一杯

2013年11月13日 22時33分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 22時半過ぎに家に戻った。新丸子駅のそばで本格的な蕎麦屋を見つけて入った。入ってからびっくりしたが、とんかつと蕎麦を中心とした居酒屋であった。チョッと不思議な組み合わせだ。一人で入ってカウンターで生ビール1杯と葱のヌタ、次に福屋という日本酒1合と〆鯖、最後にタヌキ蕎麦。初めての居酒屋では必ず注文することにしている揚げ出し豆腐は残念ながらメニューになかった。ただし、葱のヌタとタヌキ蕎麦はおいしかった。
 またカウンターも座敷も、そして厨房も清潔感があった。何よりも便所がとてもきれいであった。これは好感の持てる店で満足。今度この駅で食べる機会があれば再訪してもいいと思う。
 帰りは東横線で自宅の最寄り駅の二つ手前で降りて歩いた。昨日と同じ格好であったが、寒く感じた。昨日より気温は低かったようだ。

 家について、沖縄旅行の報告文の手直しを少しだけやってみたが、鼻水が出てきた。インフルエンザの予防接種は終っているが、昨日のウォーキングか本日の半日以上の病院詰めが原因だろうか。あるいは一昨日のウォーキングの所為だろうか。通常の風邪でも2~3日後に発症するのであれば、一昨日のウォーキングが原因かもしれない。
 早急に回復してくれないと困る。金曜・土曜と用事が立て込んでいる。急激な気温変化と乾燥が風邪の菌に都合がいいのだろう。

 明日の講座は夕刻からなので、朝寝坊をして休養することにしたい。

今日も川崎を中心に・・

2013年11月13日 18時02分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はみなとみらいで2講座、神奈川大学の横浜キャンパスで1講座の予定だったが、友人の具合が悪いので付き添いで病院で昼過ぎまでお付き合い。
 といっても傍にいるだけで、役に立ったわけではない。申し訳ないのだが、こういうとき他人というのは本当に無力だ。押しかけでかえって迷惑だったのかもしれない。
 たとえ家族でも苦痛は代わることはできない。これは分かり切ったことではあるのだが、そしてこれまで何度もそのような事態に遭遇していても、事態が発生する度に認識をあらたにする。
 それでも三つ目の講座には間にあった。
 
 自分が病気になったときのことを思い出す度に、仕事帰りに病院まで来て、着替えや食事の後片付け、シャワーの手伝いなど妻の存在は、ありがたいものだった。これは代替のない家族ならではの有り難い行為だがこれに報いることが出来るのか、自分の人間性が問われるのであると思う。

 明日は天気が思わしくないようである。明後日は雨らしい。少し暖かくなってもらいたい。

川崎市幸区

2013年11月12日 17時23分55秒 | 山行・旅行・散策
 友人を見舞った後、東横線の新丸子駅から南武線鹿島田を経由して幸区役所近くまで歩いてみた。直線距離にして4.5キロほどだがバス道路に沿って歩き、住宅街にも入ったため約6.5キロほどになった。
 50年以上前に今の幸区役所の近くに住み、1年半ほど古川小学校に通った。
 まだ鹿島田駅に蒸気機関車が停車していたり、塚越商店街を抜けると新鶴見操車場があり、何回か眺めにいったことがある。
 長い陸橋の上から操車場に出入りする長い貨物列車の連結数を長時間飽きもせず数えていた。陸橋の先には今の夢見ヶ先動物園があり無料で入ることができた。
 当時の貨物列車の連結数は半端な数ではなかった。自信はないが100両を超えて数えたこともあったと記憶している。
 古川小学校の思い出は複雑だ。函館から転校してきて、同級生にはいい思い出はない。教師にも・・。
 当時だから転校生は多かったが、どうして私が標的にされたかはわからない。ただ変わった生徒ではあったと思う。
 5年の時の担任は生徒の父母に嫌われ1学期で辞めさせられたという。毎日ホラー譚を授業終了後1時間聞かせられた。確かに変わっていた。2学期から私は横浜に再度引越して転校したので後日談は知らない。
 学校の敷地は変わっていなかったが、周囲の風景はほとんどわからないくらいに変わっていた。理容店が一軒だけまだ開業していた。毎日のように買いに行った豆腐屋も、時々食べにいった同級生の親がやっていた小さなラーメン屋も廃業していた。
 川崎商高は半分新設の小学校に敷地を取られていた。
 今度は塚越商店街を再訪してみたい。

本日の作業

2013年11月11日 23時29分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 退職者会の沖縄ツァーの参加者向け報告書を作ってみた。3日間の旅行のうち2日分を作った。集合写真と私の撮ったスナップ写真、街中の目についた小さな風景写真が中心。文章はごくわずかなのでわりと早くできた。3日目を明日から明後日にかけて作成し、土・日にかけて最終の仕上げとすることを考えている。全体で8頁の予定。

 沖縄の世界遺産9ヶ所のうち4ヶ所をまわり、戦跡等が3ヶ所、基地が3ヶ所、美ら海水族館と大分欲張ったので、写真やパンフレット類を整理しないと記憶がすぐに薄れてしまう。
 しかしまだまだ見たい所、訪れたいところがいっぱいある。



冬を実感

2013年11月11日 20時35分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 立冬が過ぎてあっという間に冬の様相となってきた。北東北や北海道の方から見れば関東の冬など暖かい部類であるかもしれないが、ここに長年生きている身には寒さが押し寄せてきたという感じがする。
 本日、私は講座の予定がなかった。また月曜日なので横浜美術館を除いて近くの美術館・博物館も休館日である。そこで晴れるという天気予報を信じて、妻と自宅から新横浜駅経由で菊名駅まで歩くことにした。

 寒いという予報であったが、ゆっくりとした歩行でも約6キロ歩くとやはり少し汗が出てくる。13時半ころに新横浜駅に着き、昼食に「長崎ちゃんぽん」を食べた。妻は初めて食べたそうで、それなりに気に入ったようだった。私は40年近く前に長崎で食べたことがある。そのときの印象とほぼ同じ味に思えた。野菜が多く乗っているのが嬉しい。しかし量がとても多いのでやっと食べた。
 若い人は大盛やご飯を別途注文しているようだが、若さが羨ましいと思う反面、最近の飽食気味の趨勢にはかなりの違和感がある。アメリカ人のあの大食いとあまりのグロテスクな肥満を見ると、日本があの状態にはなって欲しく無いと心から思う。イタリア旅行でもアメリカ人の団体は遠目からも一目で判別が出来た。
 昼食後新横浜駅の構内で若干の買い物をしてさらに菊名駅まで歩いたが、菊名のすぐ手前で冷たい雨が降ってきた。天気予報を信じて傘を持ってでなかったが、判断が甘かった。あわてて喫茶店に駆け込み雨が止むのを待った。東横線で家の最寄り駅まで乗って帰宅。約21000歩。13キロ余りを歩いたことになる。

 午後遅くなって、雨があがった後、特に日が落ちる寸前から気温が急激に低くなってきた。12月中旬のような寒さになり、あわてて持参したウィンドブレーカーを着て歩いた。
 ニュースによると仙台から北では雪が降り、積もったところもあるようだ。今年の冬は寒いとの予想が出ている。夏暑かった分、冬が寒くなれば一年を通した平均気温は平年並みになるということなのだろうか。
 明日はさらに気温が低いという。そろそろストーブを出すことにしようと思う。

肩凝り&台風30号

2013年11月10日 21時01分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 この一週間ほど首がとても凝っている。姿勢を正しく保つのがつらいときがある。
 40歳を過ぎた頃のいわゆる四十肩と言われた症状が出たときから首の回転がぎこちなくなっている。後ろを回すと左右とも30代のときよりもまわらなくなった。そしてゆっくり廻さないと痛みがある。それもずっと我慢してきている。
 今回、首の回転がつらいのはそのままであるが、首の凝りのひどい状況が続いている。背骨のゆがみやどこかの異状なのか、あるいは単なる肩こりなのかわからない。整形外科に行ったほうがいいのか、マッサージがいいのかそれもわからない。しかしこのまま凝りが続くようならば、保険診療で整形外科医に相談するのが金額的には安いのかもしれない、思うようになった。それだけつらくなってきた。

 本日は風が強く、雲が厚く垂れ込め暗い一日であった。午後妻の買い物に付き合って出かけたが、風が強いので厚手のシャツを着たらとても暑かった。帰りは腕まくりをして、汗を拭きながら帰ってきた。
 何とも不思議な、そして陰鬱な天候であった。こんな日は家でおとなしくしているのが正しい過ごし方なのかもしれない。それが出来ない性格なのが問題であることは承知している。それでもジッとしているのが嫌いだ。

 台風30号によるフィリピンの被害はひどい。日本では台風は偏西風に乗って東向きに進路を変えてからやってくる。弱まりながら襲ってくる。しかしフィリピン・台湾は弱くならずにそのまま直撃する。
秋田以北では明日は雪模様の予報が出ているが、一方で台風が猛威をほこっている。今年はいつまで台風が発生するのであろう。何事もないことを祈る。

釜石市長の講演から

2013年11月10日 13時45分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 「危機に直面したとき、人は真価を発揮する」これは私のいつも頭の中に据えている言葉だ。危機というのは、突然の災害や危険に遭遇したときだけではない。それが予想されるときの引き受け方、身の処し方も含まれる。さらに災害・事故だけでなく人のつくる組織の運営に関して重大な決断をしなくてはいけないときなども含めて考えている。
 このような場面は、仕事をしているとき、通勤の途上のとき、山に登っているとき、買い物しているとき、地元の会合に出ているとき、家で寛いでいるとき‥24時間365日いつ何時出来するかわからない。たとえば地震、電車に乗っているときの事故‥。
 よく聞く話がある。普段は目立たないけれども、地震などの災害などのとき、避難の列でイニシャティブをとり的確な判断、指示をまわりに発信する人、避難所の混乱の中で全体の方向性をいつの間にか的確に示してリーダーシップを取っている人、大人数の事故などでも避難などの安全について冷静な判断を示して人々をリードする人‥。よく聞く話である。
 そのような人は普段あまりしゃしゃり出ることもない。どちらかというと目立たない人の場合が多いという。あるいは事態が収束すればそのままいつものように目立たない振る舞いにいつの間にか戻っているという。
 私はこういう人こそ本当のリーダーだと思う。

 昨日釜石市長の震災発生時の話し、震災直後の話を聞いた。野田市長の政治思想・政治的理念や所属政党について私は何も知らないし、今回この震災の話を聞くに際してそれらのことを事前に知っていたからといって、話を率直に聞くということに影響は無いと思っている。
 行政の長として、この未曾有の危機に直面して何をどう判断し、どのように対処しようとしたか、今までの何が欠点でそれをどう克服しようとしたか、どのような緊急判断をくだしたか、そして一番大切なのはこの危機に直面してどのように関わろうとしたか、聞きたかった。

 はっきりいうが、前回の台風26号のときの大阪の橋下市長のように30万人に避難勧告をだしているときに、家でツイッターに興じていて「私がいなくてはも市の行政は動く」と開き直る人間は論外である。これは危機を前にして逃げ出したのと同じである。戦争を仕掛けておいて、最初に戦場から逃げ出す司令官のようなものである。鳥羽伏見の戦いの時、戦いの回避の努力も、戦いの先頭にも立たず、自分だけ江戸まで戻ってしまった徳川慶喜のようなものである。「錦の御旗に鉄砲向けるのは水戸藩の主張・自分の本意ではない」というのは逃げた口実にはならない。
 今回の講演の釜石市長は、そういった意味では逃げも隠れもせず、震災という事態を真正面から引き受けた感じはする。実際に市政の現場でどのように振舞っているか、職員との関係など伺いしることは出来ないが、少なくとも話を聞く限りはエネルギッシュにそして、さまざまに行政の長としての判断・行動はやってきたと私は判断できた。
 通常の行政手法については現場ではいろいろあるだろう。人の使い方に問題があるかもしれない。私も行政の末端にいて、そして労働組合の役員をしていたから、行政手法については当局に文句もいい、争って来た経験もある。それについては材料もないので野田釜石市長に対する判断は今回はしていない。

 震災の発生当時、釜石市は議会の開会中であったとのこと。議長の休会宣言などという手続きを取る暇もなく、自然に休会状態となったこと。災害対策本部を作り情報を集めようとしたが停電となり、非常電源も働かないので、市域の情報を集めることも、国などの情報も聞けず、発信することも出来なかったこと。津波が襲ってきたときはさすがに茫然自失した瞬間があったことなどを生々しく語ってもらった。
 津波が引いても道路は瓦礫で使えず、バイク・自転車で職員が情報を集めたこと、港の国の機関に避難した人がいて、そこで非常電源が働き、避難者情報をまず聞いたことなど‥。短い時間に職員も含めて必死な市役所の状態はよく伝わった。
 多くの自治体の防災対策室や行政無線の発信場所が、外が見えないところにあるのはまずいという指摘はハッとした。災害の模様をモニター画面で見ることに頼ってはいけないのである。細かいこと、どうでもいいことではない。
 実際の状態を自分の目で見ながら判断をするということが大切なのである。マニュアルどおりに「津波が来るから避難してください」というアナウンスではダメという。実際に目で見ながら「津波が来る」という危険を切迫感をもって、自分の言葉でアナウンスするということが、真に危険を住民に知らせるもっとも大切なことだ、という指摘であった。これは生きた言葉だと感じた。
 横浜市という大きな都市では行政無線というのは現実的ではないが、それでも災害時のさまざまな判断を窓のない奥まった部屋でするというのは確かにおかしい。テレビドラマではないが、「事件は現場で起きている」のである。これは別に行政や企業や組織のトップの場合だけに求められるものではないであろう。どんな場合も現場の状況・情報が優先されて判断されるべきである。現場でどれだけ冷静に判断できるか、これが訓練であり、教訓化しなくてはならない。
 釜石市という歴史のある、名も通った三陸南部の中心的な市であるが、人口は4万人を切って過疎と高齢化に悩むまちであることは変わりない。

 このような状態を乗り切って復興に向けて次のステップに踏み出すわけだが、ハード・ソフトの面での復興計画がより身のあるものであることを願うものである。

 さて最後にひとつ付け加えると、戦争末期、釜石市は米軍の艦砲射撃を受けて市街地が壊滅したと言っていた。1897(M29)年、1933(S8)年の津波のほかに、当時の鉄鋼業を潰すための艦砲攻撃が行われていたということは初めて聞いた。空襲でなく艦砲射撃というのも生々しいものがある。


鎌倉街道補足

2013年11月10日 01時24分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は寒い日であった。午後の講座に出かける寸前にあわただしくブログの記事をアップした結果、いろいろと書き直しをせざるを得なかった。同時に補足が必要なこともあった。
 昨日の講座の補足は記事に《追記》として書き加えたのでそちらを見て欲しいが、鎌倉街道について、重複もあるがあらためて稿を起こしてみる。


 本郷台からとなりの港南台駅まで鎌倉街道を約10000歩ほどを歩いた。この鎌倉街道は長年管理に関わった道路でもあり、また震災の当日の夜に暗い中を家まで歩いた道でもある。
 一昨日歩いたのはそのほんの一部。この鎌倉街道の栄区から港南区に抜けるところは七曲といわれ、幕末の1860年までは急な峠道の難所であった。関内が開港地となり、その後背地であるこれらの地域と横浜を結ぶ鎌倉街道の重要性が増し、また付近の田畑の浸水対策もかねて1861年にこの峠道は切り開かれ直線の道になった。いまでも大きく迂回した当時の七曲の名にふさわしい旧道が残っている。また切り開いた尾根上の細い道も栄区側は辛うじて残っている。この尾根上の道も何かしらかの歴史的な役割を果していたと思われる。残して欲しい道である。
 本郷台から港南台めざして歩いたのだが、現役当時、仕事柄いろいろ調べたりしたことが懐かしく思い出された。この鎌倉街道沿いの江戸時代から幕末・明治維新直後の産業構造などは面白い研究課題となりそうだが、地元ではそのような研究は進められているのだろうか。私にその能力や熱意があれば関わっていたかもしれない。
 今歩いている鎌倉街道は、1941年の戦争中に大船の海軍工廠が出来たことで、一層重要性が増した道であった。現在では片側二車線で前線が開通しているが、私が就職した頃はまだ片側一車線で交通渋滞の頻発する道路であった。そして海軍工廠への物資の輸送路としての重要性からか、舗装の厚みが極めて厚い道路であった。あるいは大船の海軍工廠が米軍に接収された戦後に、この鎌倉街道の舗装が厚くなった可能性もあるが、いつごろ舗装が厚くなったのかは調べてもわからなかった。地元の方への聞き取り調査が必要だったのかもしれない。
 私が就職した当時、10センチのアスファルト二層の舗装の下には20センチものコンクリートの舗装がしてあった。水道やガスなどの地下埋設物を敷設したり、それを修理する際には、このコンクリートを破砕しなくてはならず、また道路の復旧に際しての手間を考えても、かなりの金額が必要となった。大変管理のしにくい道路であった。
さらに掘ってみたらコンクリート舗装の下は、小さな沢の水の排水に留意しないで道路を強引に作ってしまったために、土が洗われて広い範囲が空洞になっていたこともある。現在では拡幅にともない、このような舗装はすべてなくなった。
 軍事上重要であった鎌倉道は、確かにもともとが鎌倉幕府の軍事目的の道路であったことは間違いがないが、戦争中から戦後にかけても軍事用に再利用されたのは何かの因縁かもしれない。
 さて、畠山重忠が人生の最後を悟り、鶴ヶ峰から軍勢を従え鎌倉に向った際に通った道は、この川沿いの鎌倉道ではなく、山の尾根を縫うようにして走っていた鎌倉道であったらしい。この道は現在では大きな宅地造成の影響で寸断され面影もなくなっている。ほとんどの個所で辿ることも出来ない道になっている。しかしところどころに狼煙台跡や館跡などがあり、それらは当時を偲ぶよすがである。それらもいつの間にか忘れられていくかもしれない。
 現在鎌倉道は横浜市の南部では、上の道、下の道、早駆けの道、金沢道などの痕跡を辿ることが出来る。尾根の道、川沿いの道、軍勢のための道など目的もさまざま、そして盛衰もあったようだ。
 しかし道の記憶というのは忘れられやすい。確かな文献があるわけではない。古代の官道はよく現代の高速道路の整備にともなって発掘される場合がある。これらは古代も現代も意外と同じような施設を同じような手法で作るものとして話題になることがある。しかし人工的に作る古代や現代の道路とは違い、中世の道路は意外と自然地形に沿って出来上がり、そして時代と共に消長があったということだ。それは実際に住んでいる人々が行き来している、生きた道を利用して作ったことの証左でもある。

本日の講座

2013年11月09日 18時22分20秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 先ほどアップしたように本日は野田武則釜石市長の講演を聞いてきた。震災から2年8ヶ月たっての講演である。神奈川大学としての学生ボランティア活動の取組みの中で釜石市長とのコンタクトがあったようだ。
 本日の講演のレジュメは膨大な量があったが時間的に90分という講演時間はやはり短い。用意してもらった半分程度の話で終った。
 被災状況、反省と教訓、復興まちづくり、さまざまな課題の四点についてのレジュメであったが、前半だけで終った。

 政治的な主張や思想についてはここでは触れないし、そのことは抜きにして私は「震災と津波」という未曾有の災害・危機に遭遇したときの行政の長としての経験、これからの方針を聞きたかった。
 今回は時間の関係から発災当初の対応(ある質問者は発生から24時間の市長の頭の中を駆け巡ったこと、今反省していることを聞いたが、とてもいい質問かと思った)について具体的な話は、経験者の重みは感じた。
 今後の復興について、国・県・他市町村との関係など複雑な行政をどう整理して、行政サービスの最先端に位置する市としての役割をどう発揮していくか、ここも聞きたかったが、残念であった。またこのような機会があることを願っている。
 釜石市の犠牲者がなかった小中学生の防災教育の実践についてはNHKのテレビでも放映されて有名になっているが、なぜ子どもが自主的な避難の先頭に立ったのか、なぜ大人は避難が遅れたり避難しなかったのか、などの解明と教訓化はこれからも必要であろうと思う。
 子どもたちを守った三つの教えというのが考えさせられる。
避難の三原則=1.想定を信じるな
       2.どんな時でも最善を尽くす
       3.率先避難者になる

 もうひとつ、震災遺構の保存については市長自信の判断もある。被災者の遺族の判断も重要である。震災の教訓を考えるきっかけとする考えもある。私は無闇に、なんでもかんでも多くの施設を、しかも多くの人の犠牲になった施設を残すことに、エネルギーと費用をかけることには疑問を感じている。市長もそのような判断をもっているようだが、相手に納得してもらう考え方の整理は、今後も粘り強い議論が必要と思った。行政に携わったものとして、遺族が遺構として残すことに反対している施設を残さないことは市長の判断は私は肯定できる。また遺構=モノで教訓を残すことが果たしてベスト・ベターな判断なのかという批判的な疑問も、今後の施設の維持管理費用のことも含めて首肯できる。残された市民と、外からの意見と、折り合いはなかなか難しそうな話である。

 市の全体の復興計画などの作成過程での問題点などもせめてこれからレジュメを見ながら私なりの整理をしてみようと思う。
 現役ではないが、少なくとも頭の体操にはなるし、同時に行政機構の問題点の私なりの整理となるかもしれない。

会報作りと講座

2013年11月09日 13時30分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は朝から冷え込んでいる。来週の初めは、秋田で雪のマークがついていた。
 外には出ないで、朝から退職者会のブロックの会報作りで閉じこもっていた。
 午後は、神奈川大学の横浜キャンパスでの講座「未曾有の歴史的地震活動気に入った21世紀日本」の第4回目。釜石市の野田市長の講演会。

「上毛野の古代史」の講座、そして鎌倉街道

2013年11月08日 22時20分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は10月22日に続いて根岸線本郷台駅傍の「アースプラザ」での古代史セミナーの5回目。「上毛野の古代史-歴史意識の形成と展開-」(講師:館林市市史編さん室専門指導員前澤和之氏)。紹介によると横浜市歴史博物館の前館長と云うことであった。
 文献史学の立場での講演、資料を丹念に紹介しながら、上毛野(現群馬県付近)・下毛野(現栃木県南西部付近)の歴史的な位置づけについての講演。
 「上毛野・下毛野がヤマト王権の蝦夷地(陸奥)進出の最短陸路をなしていて、その中枢は上毛野であったと思われること。蝦夷攻略の進展で毛野の中枢が東部に移り、下毛野が成立。蝦夷経営の前哨地が陸奥・出羽の現地に移るにしたがい、これまでの政治的地位の低下があり、蝦夷経営の兵員や物資の兵站基地として「坂東」8カ国という地域のあり方に再編された。延暦以降、武の地として足柄坂(東海道)と碓氷坂(東山道)に関が置かれ、「関東」という呼称が成立。東国統治のかつての拠点としての歴史意識が生み出されてきた。」というのがおおよそのまとめ。
 蝦夷進出の拠点としての重要な位置づけの反映が記紀の記述に反映していることを読み解く作業を解説してもらった。

 なかなか私には面白かった。兵站基地→坂東概念の成立→「騒乱の地」→「関東」の呼称成立→関東としての歴史意識が生み出される、ここら辺の展開をもう少しじっくりと聞く機会が欲しいと感じた。




 帰路は、本郷台からとなりの港南台駅まで鎌倉街道を約10000歩ほどを歩いた。この鎌倉街道は長年管理に関わった道路でもあり、また震災の当日暗い中を家まで歩いた道である。本日はその本の一部。この鎌倉街道の栄区から港南区に抜けるところは七曲といわれ、幕末の1860年までは急な峠道の難所であった。関内が開港地となり、その後背地であるこれらの地域と横浜を結ぶ鎌倉街道の重要性が増し、また付近の田畑の浸水対策もかねて1861年にこの峠道は切り開かれ直線の道になった。いまでも大きく迂回した当時の七曲の名にふさわしい旧道が残っている。また切り開いた尾根上の細い道も栄区側は辛うじて残っている。この尾根上の道も何かしらかの歴史的な役割を果していたと思われる。残して欲しい道である。
 仕事柄いろいろ調べたりしたことが懐かしく思い出された。この鎌倉街道沿いの江戸時代から幕末・明治維新直後の産業構造などは面白い研究課題となりそうだが、地元ではそのような研究は進められているのだろうか。私にその能力や熱意があれば関わっていたかもしれない。

《追記》
 参考図として下記の地図が添付されていた。私はこの図を見て講演者の意図が随分と理解できたと思った。毛野の地域、時に初期には上毛野と云われたところが交通の要衝という意味がなるほどと思った。 この地図を見ると毛野の地域の中心が当初は西部の峠側にあり次第に比重が東部に移り、下毛野が成立したという論が、頷ける。
 同時に中央から見ると確かに碓氷峠と足柄坂を出口として、孤立した地域として認識された可能性はあると感じた。陸路では入口が東海道が陸路として成立していたとしても足柄坂と、東山道の碓氷峠しかないように思われる。地理的にひとまとめに出来て、かつちょっと独立したような地域に見える。その上、陸奥への入口である。
 日本海側の海運は古くから発達していたと仮定できるが、太平洋岸の海運は短距離を除けば遅れたといわれている。とすると陸奥への入口は海路越後から信濃・碓氷峠→白河関というのが時間的にも利用されたのかもしれない。今の東京の東海道線沿いは湿地で通行が困難であったことも考慮しなくてはならない。海上交通と陸路を交互に利用しなくてはならない手間を考えれば、東山道は利用価値が高かったのかもしれない。
 ただし、ヤマトタケル伝承は東海道である。ここら辺はまだ考える余地はあるかもしれない。
このような地図は見たことはある。高校の歴史地図にもあったが、他の情報も書き込まれていて、平野と産地、陸路を単純にかつ目的に沿って明確に表示するということの大切さを認識した。





本日のお酒

2013年11月08日 20時46分44秒 | 読書
   

 最近は料理のカテゴリーではお酒の紹介ばかりで、実際の料理が掲載できていない。調理をサボっているのは間違いないのだが、お酒の紹介が多すぎるということは確かである。何とも情けない。
 本日も日本酒の紹介。飛騨市の渡邉商店という醸造元のお酒。ホームページでは「渡辺酒造店のにごり酒は、数あるにごり酒の中でも「一番濃い」にごり酒です。どぶろくと同様に飲むというより"食す"と言ったほうが合うくらい濃いです。どぶろくと違い、微炭酸のピチピチ感や米のつぶつぶの食感、独特の酸っぱさはありませんが、南部杜氏の技、蓬莱蔵元のこだわりが注ぎ込まれた濃厚な甘み・旨みがあります。」となっている。本来にごり酒を中心とした醸造元のようだ。この「うすにごり」という製品の説明はなかった。
 アルコール度が18~19度と高めで「原酒」となっている。琉球グラスに注いでみたが、写真のとおりにうすくにごっている。微炭酸でとても口当たりがいい。以前に磐梯山の麓の温泉地に言ったとき、猪苗代湖の傍の酒屋さんで購入した出来立ての微炭酸のうすにごりのお酒を飲んだことがある。それと同じように実に爽やかな感じである。
 どこか懐かしい味がする。購入した酒屋さんのご主人の話では、にごり酒というのは普通は日本酒度とか酸度の表示はしないそうである。「旨味があり、煮魚に合うよ」といってくれた。本日我が家では煮魚ではなかった。椎茸の肉詰めと南瓜と小豆の従弟煮であったが、いい取り合わせであったと思う。飲みすぎる可能性があり、今晩は1合と少しでやめた。
 それでも4合瓶で1155円だったと思う(値段の記憶はあいまい)が、他のお酒と比べて特に高価ではなかった。



「北翔(純米酒)」

2013年11月08日 11時06分09秒 | 料理関連&お酒
 昨日の飲み会では、「ノンアル飲料で」という決意を新宿湘南ラインの中で固めていた。最初はウーロン茶を1杯注文しチビチビと飲みながらお通しやツマミをつついていた。しかしどうしても口がさびしい。
 店の中を見回すと、チラシが片隅に張ってある。新潟の酒の一覧表である。20数種類もの銘柄が書いてあり、日本酒度や酸度が書いてある。この日本酒度という尺度は何回読んでも理解できないのだが‥。酸度はあまり高くないものが私は口に合うような気がしている。古い友人に日本酒度も酸度も+2前後のものを目安にするといいといわれ、昔からそれにしたがっている。
 その一覧の中から、「北翔(純米酒)」という銘柄を選んだが、値段が手ごろであったことも大きな要因である。
 私はとてもおいしい感じた。サラダ一皿のほかに、鯛の兜煮が安くおすすめメニューになっていたのでこれを肴として注文した。この兜煮も薄味でおいしかった。つい「北翔」をおかわりしてしまった。

 なんという意志薄弱なオッサンだろうと自責の念はあっという間に吹き飛んで、至福の1時間半。21時に帰途についた。新宿湘南ラインのホームに行くと電車が遅れていた。「宇都宮線内濃霧のため」というアナウンス。珍しいと思いながら、たった10分の遅延だが、帰宅の通勤客でギュウギュウ詰め。
 しかも横浜に着いたら、横浜も霧の中。傘をさすのも変なのでそのまま歩いたが、家についたら着物がかなり湿っていた。もし長時間歩いたらかなり濡れていたに違いない。怒られるところであった。

 今朝、ネットで「北翔」を検索してみたら、新潟県長岡市の酒店「地酒サンマート」という店のホームページに「北翔」の紹介が出ていた。新潟県村上市の「大洋酒造」という醸造元のお酒とのこと。私の飲んだ「北翔(純米酒)」の説明では、
 「大洋酒造には「高い酒が旨いのは当たり前、高品質の酒を低価格でお届けする」というコンセプトのもと、年1回の特約店からの注文分だけを仕込む、完全計画生産の限定銘柄「北翔」がありあます。」
 「「北翔」は、全国の特約店だけに販路を限定し、宣伝費などの醸造以外の余分なコストを徹底的に抑え、完全計画生産により普通酒にして吟醸酒クラスの55%精米という高精米、高品質を実現する、知る人ぞ知る銘酒です。」
 「控えめな香りと淡麗な味わいの中にも、適度で穏やかな米の旨味と奥行きのある円やかな味わい、キレの良い後味と純米酒特有の優しい飲み口が特徴です。」
と記載されていた。

 心配したバリウムは今朝何とか出きったようで、ホッとした。