Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

霧が発生

2013年11月07日 23時40分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年は秋が身を隠すようにこそこそっと通り過ぎていった。もっと堂々と列島を大手を振っていって欲しかったと思う。街中の街路樹などの黄葉も何故か見るゆとりもない。緑の葉からそのまま散ってしまうように気持ちにゆとりのない年末を迎えてしまいそうだ。
 気の早い人は年賀状を買っているし、クリスマス商戦の街路樹ライトアップが始まったところもある‥。

 本日新宿から21時過ぎに横浜に向けて湘南新宿ラインに乗ろうとしたら、列車が遅れているらしい。宇都宮線内で霧が発生して遅れが出ている、とのこと。びっくりした。関東地方は霧の発生が少ないと思っていた。列車に遅れをもたらすような霧が発生したというのを聞いた記憶がない。学生時代仙台では広瀬川からこの時期盛んに霧が発生した。その霧を見ながら広瀬側にかかる橋をいったり来たりしていた。
 少なくとも横浜ではそのような経験は皆無である。

 そして22時をまわって横浜についてみると、視界が悪い。新宿ではまったく気が付かなかったが、横浜でも霧が発生している。珍しいことがあるなぁ、としばらくネオンが滲む霧を見ていた。そして微かに三日月を見つけた。傍の明るい星は宵の明星か。ビルの合間に見る三日月はなかなかしゃんとしている。他人が見たら「年寄りが口をあけて街のあかりに酔っている」くらいに見えたかもしれない。
  

ガン検診終了

2013年11月07日 15時30分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝からのガン検診はとりあえず終了。結果は三週間後。大腸の内視鏡検査は再来週と云うことになった。
 肝臓・膵臓・胆嚢・肺・喉頭・胃の各部位のガン検診と大腸の内視鏡予約で合わせて440円。妻も今日の時点では無料。金額的にはとてもありがたいものである。ただし大腸の内視鏡検査は別途、確か1万円に近い金額を支払うことになるはずだ。再検査の場合はまた別途となる。

 朝食抜きであったので、お昼に食べた「とろろ昆布ウドン」のおいしかったこと。バリウムを飲んだり、大腸の内視鏡検査の後に決まっていつもこれを病院の最上階にあるレストランで食べることにしている。胃に昆布出汁のきいたお汁がしみわたる。病院のレストランなので薄味だが、出汁がきいていてとてもおいしい。

 バリウムは今のところ順調に排出している。夜までに全部出切って欲しい。そう新宿で友人と飲み会である。ただし、今日はアルコールは控えたほうが良さそうである。

 予定より早く終了したので、欠席予定だった講座に間に合いそうである。これから会場に向うことにする。

明日はガン検診

2013年11月06日 22時12分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一年に一度のガン検診である。昨年は大腸癌、前立腺癌、すい臓癌で二次検査にまわされたが、大腸のポリープを内視鏡でいくつか切除したほかは問題なしということで放免となった。
 今年は前立腺については問診表の答え方がまずかったようなのでもこれは二次検査にまわされることは無いと思われる。すい臓についても昨年の画像が残っているだろうからのう胞に変化が無ければ問題は無さそうだ。問題は大腸癌。今年は潜血反応を調べる検便は無くて、最初から内視鏡検査にまわされるらしい。明日はその日程を決めることから始めるようだ。

 大腸の内視鏡検査はもう何回目だろうか。潰瘍性大腸炎ということで50歳の時に入退院を5回繰り返して以来もう9回はやっている。今年で10回となるはずだ。あるいはもっとしていたかもしれない。看護師には「内視鏡のプロですね」といわれる始末。しかし苦しいことは変わらない。大腸が直角に曲がる何箇所かのところを通過するたびに痛くなり唸り声を噛み締めなければならない。
 最初から痛み止めをうてばいいのだが、横浜の市立病院では大腸の動きを抑制する注射だけをするようだ。一度だけ近くの病院でしたときは、痛み止めをあらかじめ注射したのでまったく痛みを感じなかった。いろいろやり方があるのだろうとは思うのだが‥。

 とても残念なのは明日に備えて「お酒はダメ」というお達し。明日もお酒は微妙だ。バリウムも飲むので、すべて出きらないうちは、お酒は飲むのはまずいと思う。
 大昔、今よりもっとたくさんバリウムを飲まなくてはいけなかった時、もう出切ったと思って、仕事が終ったから職場の人とビールをたくさん飲んだ。翌日みんな休まざるを得なかった。なにしろアルコールを分解するために水分が大量に体内で必要になり、結果として残っていたバリウムが固化してしまったのだ。
 私も職場に出ることが出来なくなり、予定外の休暇を取らざるを得なかった。大量の下剤を飲んでもダメだった。妻に浣腸をしてもらってようやく排出したことがある。あのときの苦しさは忘れられない。
 今ではあの当時よりはずっと少ないバリウムなので楽にはなったが、あの経験はもうしたくない。

 さて、明日は午前中は雨。駆け足で冬がやってくる。ついこの間まで30度越えで、夏だとばかり思っていたが、あっというまに秋が去っていってしまった。私は、夏のじりじりする暑さも嫌いではないが、冬も身が引き締まるような寒気がたまらなく好きだ。小さい頃、家に閉じこもりがちの私は、暑さ・寒さが大の苦手だった。変われば変わるものだ。

「横山大観展-良き師、良き友」(その4)

2013年11月06日 20時51分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 今回横浜美術館で開催している「横山大観展」は、大観の生涯の円熟期ともいうべき1936(S11)年68歳の「野の花」までを展示している。亡くなったのが1958(S33)年、89歳までの画業についてはまったく私は知らない。この円熟期と言われる時期の作品と晩年にいたる画業に対して占める位置についてはまったく無知である。どんな作品があるのかも知らない。富士山を描いたすぐれた作品があるということだが、恥ずかしながら見ていない。
 だが、会場に展示された絵だけで判断する限り、私は大正年間後半の1910年代後半以降、大きな画期があるような気がする。
これまでに掲載した「秋色」(1917)、「陶靖節」「喜撰山」(1919)、「夜」(1922)、今回取り上げる「雲揺らぐ」(1927)、「夜桜」(1929)、「白梅」(1929) など私の印象に残っている絵は大体がこの時期以降の作品である。今回の展示の最後の作品は「野の花」は1936年でちょっとかけ離れているが、1910年代以前の作風とはやはり違う。
 大観という画家はすぐれた画家といわれたが、それでも40歳代半ばまでは作家独自の技法や構図や題材、対象の描き方の模索を続けて来たのではないだろうか。すぐれた画家といわれつつその努力を継続してきたと思われる。

「喜撰山」(1919)


 大正8年の作品だが、着色は緑にこだわっているが、緑の波のリズムに加えるに、赤い地肌と茶の木の幹の配置のバランスが私は新しい挑戦だと感じた。昨日の「秋色」よりも画面のくどさが減っている。色彩のリズムを構成している木々の描き方がすっきりしてきている。私はこの簡素さへの志向に何故かホッとした。「秋色」とこの絵の間に2年という時間が流れている。同時期の絵に「夜」という前々回取り上げた梟と三日月と竹林の墨絵がある。

「雲揺らぐ」(1927)


 私は今回の展示でもっとも好きになった絵である。そそり立つ崖に生える影のような樹木が濃淡で描き分けられ、胡粉による滝の勢いある形が忘れられない。水煙か雲か、優雅なようでいて力溢れる水蒸気の豊かな盛り上がりの感触がいい。音が消えて水の強さが迫ってくるように思える。
 影絵をみているような錯覚に陥る。

「白梅」(1929)


 この絵について解説では、「彩色に濃淡をつけ遠近感を表現している」とあるが最初は私は理解できなかった。左上に太くなっていく幹の色が次第に薄く彩色されているのに気が付いたのは三回目の今回になってからだ。
 私が最初にすごいと思ったのは、右の細い枝の先端に近いほど明るく描かれて、日が当たっていると感じたときだ。それが遠近感の表現だと気付くまで時間がかかった。ありふれた題材と構図だが斬新な技法なのだと思った。

「夜桜」(1929)


 この絵は今回の展示のメイン作品のような扱いである。
 当初は私はそれほどの興味は湧かなかった。
 「秋色」と同じようにくどさ、詰め込みすぎ、と感じた。赤い火の描き方が取ってつけたようで、くどいと感じたのだ。あまりにお誂え向きにほんのりと明るく光が膨れ上がっている。いくら装飾性を追及しているとはいえ、作りすぎではないか、と感じたのだ。
 その気持ちはあまり変わらないが、ただし、緑の木と花の配置、背景の暗い山の対比は不思議なリアリティーがある。現実離れしたリアリティーといったら変だが、花の膨らむ勢いが実際の満開の桜の雰囲気をうまくとらえているようにも感じたのだ。画面のくどさは「秋色」よりも少しすっきりしている。夜の背後に山がある分、奥行がありすっきりしている。月もくどくない。
 この絵は、横山大観の円熟期と言われるまでの時期の中の、画期となる絵と理解していいのであろう。これまでの日本画にはない何かがある、という評価は当たっているのだろう。それほどの知見を持ち合わせていないが、斬新さが目に飛び込んでくる。それが私にとって好ましい絵かというと私はそれについては疑問だが、気になる絵であることは間違いない。

 この時期になって、構図上も少しずつ簡素になり、画面の簡素さにホッとするようになった。何か肩の力が好ましい方向に抜けたようでちょっと楽になったと思った。

「野の花」(1936)は7年もあとの作品だ。ここまでの円熟期を迎えた時期の作品よりも時間がたっている。解説では「「風俗画」の新境地」と記されている。

   

 どうも相変わらず人物に私は違和感があるのだが、この絵の見所は左双の植物の描き方だと思う。これまでとは違ってすっきりとした空間が存在し、窮屈さがまるでない。のびのびとした野原の開放感が伝わってくる。植物が生きている。装飾性と実在感を同時に感ずる。蝶の舞も楽しい。この人物がいなければ私はポストカードを買っていたと思う。

 人間の描き方に違和があるということは、多分、人間把握・人間理解に私とは相容れない溝が存在すると思う。それは多分晩年の絵に表れてくるのかもしれない。
 大観の絵の感想はこれで終了としたい。


「横山大観展-良き師、良き友」(その3)

2013年11月05日 23時32分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日横浜美術館の「横山大観展」に行ってきた。3度目である。今回はこれまでよりは少しは混んでいたが、連休中の割には人は少ないと感じた。ゆっくりと見てまわることが出来る。
 さて前回は横山大観の絵に現れる日本や中国の人々の姿態・表情に対する違和感と、一方で風景描写の馴致に触れた。また人物像でもインドの地の人々の描写や仏像特に観音像については新しい把握が感じられると私は考えたことを記した。

 今回再び展示を見てまわって、この感想に変更がないことをあらためて確認できた。その中でいくつかの感想を得たので、記してみる。

 まず前回、乳房も露わな観音像について触れた。人間の表情をした仏画、それも観音を女性像として描いた作品は、私はなかなか新しい視点をもたらしたのかな?と思った。仏陀の説法を描いた作品なども無表情なものではなく、個性豊かな人物像の集合としてみることが出来て好ましかった。それも類型化された表情ではなく個性ある表情に描こうとする意欲が伝わるように思えた。どうしてインドの人々の表情や仏画の表情と、中国に題材を得た歴史の一齣の絵などがこうも違うのか不思議である。中国の歴史的な人物を人間的に描こうとするには、その物語の背景にある人物理解に無理があるのかというのが、私の当面の理解というふうにしておこう。



 上に上げる3枚一組の絵、3枚を貫くのが何なのかは不明だ。しかし左右の絵の遠近法は作者が追及してきた技法に基づくもので、風景から受け取る空気感も好ましいと思う。左図の雪の中の近景の緑、右図の近景の濃い緑の森、共に緑が実に効果的だ。そして女性として描いたと思われる観音像の下を覆う黒い雲状のものがどっしりとして重みを与えている。構図上も私の好みの絵柄だ。
 観音の存在が、四季という時間と空間を超越していることを示す図なのだろうか。展示1915年の制作年代が示されていた。



 次が鹿と葡萄を描いた1917年の「秋色」。琳派のような描き方かと思ったが、琳派の装飾性ある絵と比べると、葡萄のデザインが少し細かすぎるように感じた。琳派の絵というのは、大胆にデフォルメされた装飾性の強い画面の迫力が特徴だと思っているが、この絵はそうではない。逆に一対の鹿、多分雄・雌なのだろうが、その鹿につけてしまった表情が軽薄の謗りを免れないのではなかろうか。
 座った雌と思われる鹿の髭と少し開き気味の笑うような口元。葡萄を食んでいる雄と思われる鹿の幸福感溢れる目元。いづれもこの秋の実りの豊かさと雄雌一対によってもたらされる生命の充足感を感じさせるが、それが安直な幸福感に見える。
 余計な表情をつけてしまったというのは、ひねくれた私の見方でしかないのだろうか。秋の実りの中にいる二頭の鹿を描くだけで、それだけで生命の充足感や満足感を象徴するのだから、余計なものは排除したほうが思いは伝わるのではないだろうか。「蛇足」という言葉の由来、「言いおおせて何かある」という芭蕉の言葉を思い出した。
 右双の葡萄と槙の木。これほどの繁茂を描きつくした熱意、エネルギーに脱帽だが、表現過多、くどさを感じてしまう。緑と赤と黄、そして実の黒い点のバランスやそれぞれの色のうねるような装飾性、構図に工夫は感じるのだが、やはりくどいいのではないか。葡萄と槙の取り合わせは面白い。針葉樹のと葡萄の広い葉、常緑と枯葉になりかけの葡萄葉、計算された配置なのだがそれが鼻についてしまう。
 私は鈴木其一の「夏秋渓流図」を思い出した。あの絵の溢れるような青と緑、常緑樹の茶の幹と緑の葉、そして微かに点在する黄葉した広葉樹の葉、全体にリズムがあり、緑と青のリズミカルな配色に比べるとどうしても見劣りがしてしまう。
 左双はもっとすっきりした配置が望ましいと、おこがましくも感じた。

新講座、そして何故かインフルエンザ予防接種

2013年11月05日 21時11分13秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 伊豆大島の水害から確かもう3週間がたったはずだ。まだ行方不明者がおり、捜索が続いている。土砂の撤去も大変な状態であるらしい。港が流れてきた土砂で埋り、海面よりも高く堆積している場所があるとのこと。船の出入りが出来ないということらしい。とてつもない量の土砂の流失ということのようだ。火山で出来た島の土砂災害のひどさをあらためて認識した。



 さて、本日から「国境と境界を考える」という神奈川大学の新しい公開講座が始まった。5回連続で5人の講師による連続講座である。
 国境紛争というナショナルな課題が浮上しているが、どのような講義となるか興味がある。
 本日は高江洲昌哉氏の講義。
 講義の内容は沖縄・奄美という境界領域の近代史から見た日本ということなのだが、なかなかうまくまとめられない。
 ただ、清沢洌(きよし)というジャーナリストの名を教えてもらった。「清沢洌評論集」というのが岩波文庫から出ているとのこと。
 清沢洌(1890-1945)はジャーナリスト・評論家で、戦前の田中義一内閣時の外交姿勢(国際協調の「幣原外交」を破棄し、日本の「利権確保」を掲げて3度の山東出兵)を批判して、「愛国心は地図の色と「国威」にのみ血眼となってその根底に算盤がない」と批判した人物とのこと。ここでいう算盤とは経済合理性・貿易による利のことを指すということのようだ。
 敗戦直前の1945年5月に病死したが、「今回の戦争の後に、予は日本に資本主義が興ると信ず。総てを消費しつくとたる後なれば、急速に物資を増加する必要あり。然も国家がこれをなすのには資金なく、また官僚を以ては、その事の不可能なことは試験ずみである」「政治家に必要なのは心のフレキシビリチーである」などの言を残したとのことがネットで検索したら、松岡正剛氏のホームページに掲載されていた。
 清沢洌という人、私はまったく知らない人である。

 高江洲氏の講義はうまくこなれていなくて、何を講師が伝えたいのか私にはうまく理解できなかった。島尾敏雄なども引用されていたし、沖縄・奄美・隠岐・対馬・小笠原などの島嶼から戦後史を読み解こうとする問題意識、辺境からの照射などなかなか興味深い視点をお持ちのようだ。だが、不肖の聴講生である私には難しかったといえる。しかし、この清沢洌という人物には興味を持った。何かの機会に読んでみようと思った。
 島尾敏雄の視点として取り上げられていた言葉は
 「日本の歴史の曲がり角では、必ずこの琉球孤の方が騒がしくなるといいますか、琉球孤の方からあるサインが本土の方に送られてくるのです。そしてそのために日本全体がざわめきます。それなのに、そのざわめきがおさまってしまうと、また琉球孤は本土から切り離された状態になってしまうのです。」(「ヤポネシアと琉球孤」1970年)
 私は、この「ヤポネシアと琉球孤」は、就職した頃だから1975年以降に単行本で図書館で読んだことは読んだのだが、この言葉に記憶がない。なんといういい加減な読み方をしていたのだろう。

 さて本日は、緑内障の点眼薬が切れたので眼科へ、さらに血圧の薬をもらうついでにインフルエンザの予防接種をしてもらった。この二つの診療と予防接種であわせて1万2千円。これは大変な出費。眼科が6千円もする。予防接種が3150円。
 予防接種を受けたら「今日は激しい運動はダメ。また大量のお酒は控えてください」とのこと。大量でなければいいんですか?と聞いたら看護師はニコッと笑って「少量ならば‥」と応えてくれた。妻に話したらそのような医院は信用しないほうがいいよ、との御託宣。それでも缶ビール1本をいただいた。

 夜のウォーキングはやめて、早く寝ることにしよう。

沖縄の印象(その2)

2013年11月04日 20時10分40秒 | 山行・旅行・散策
9.海洋博公園からは伊江島が美しい。米軍との激戦地、そして米軍の土地収容や非行との熾烈な闘いは岩波新書で学生の頃学んだ。阿波根昌鴻さんという方の名も知った。確か107名の住民の死者を出した米軍艦船の事故(1948年)もあった。米軍の土地収用に対する全沖縄の闘いの象徴的な島でもあったと聞いている。
 繰り返すが、伊江島は写真のとおり実に美しい島影を持っている。珊瑚の明るい青の海の向こうに左右対称になだらかで柔和な山の裾野が広がっている。軍用機には似合わない優美さである。自然を楽しむのもいい。いつか行って見たい島である。サミットの時に軍用飛行場を民間共用に更衣したが、軍用であることが優先されている現状で結局は今は民間飛行機は飛んでいない。つけ焼き場では島の新興も、住民の便利さも向上しない。



10.今帰仁城は今回最後の世界遺産見学。石垣がこれまでと違い地上は石灰岩ではなく凝灰岩のため黒っぽい。そして堅いため切ったりしておらず自然形のまま積み上げている。石自体も小振りである。全体の印象がチョット暗い。しかし曲線状石垣というより石積みというようだが、この形状は変わらない。

11.今回世界遺産を巡るということで4ヶ所の城跡を見学した。鹿児島以北の城郭に慣れた目には奇異に映る。私は対馬の金田城の石積みの谷の形に添った形状との類似に思い当たった。この沖縄の山城の形態はどこにルーツがあるのであろう。日本の山城は等高線に沿った石垣のような印象を持っている。朝鮮半島由来なのか、それとも中国の南部の山岳地帯由来なのか、専門家はどのように考えているのだろうか。
 この石垣の描く曲線と石垣の積み方は実に美しい。作った人々の美意識、出来栄えへのこだわりを感じることが出来る。

   

 写真は勝連城の見取り図と三の廓を見上げた物を掲げてみた。石垣の並びは尾根に必ずしも沿ってはいない。
 そしてこの三の廓の不思議な曲線がとても印象深い。同行した仲間は「遊び心がある」と言ったが、にわかには信じ難いがかといって否定も出来ない。見方によるが左右対称の優美な模様に見えることは確かだ。こんな尖がった空間は機能的には意味をなさない。芸術的観点か、遊び心としかいいようがないことも確かだ。構造的、力学的な必然があるのだろうか。発掘・復元はこんな疑問に応えるものであって欲しい。

12.辺野古は美しい海に、先の曲がった三角形状の岬の南側にある集落を指している。岬の形状から陰茎の意味の「へのこ」に漢字を当てはめた地名である。基地建設に反対している方からキャンプシュワブの現状や辺野古の経済問題も含めて話を直接聞くことが出来た。
 そして海に囲まれた沖縄で、沿岸漁業は極めて危機的な状況であるとのことも知らされた。辺野古でもモズクと釣り船が主な漁業資源となっているとのことであった。基地の建設は、このような負の状況の中で進められていく。
 ヤドカリの軌跡がこの浜には似つかわしい。沖縄の浜の砂はどこに行っても細かく、そして汚れていない。

   

13.沖縄料理と泡盛というのは、私にはとてもおいしく感じる。豚の調理など、南方からの影響と思われる料理法と、北前船によってもたらされた北海道の昆布出汁による味付けが融合している。また沖縄独特の魚もおいしい。限られた食材を実にたくみに利用しているとの説明を幾度も聞いた。同時に前後米軍の放出品として出回った缶詰などの食材を実にたくみに利用している逞しさにも感嘆する。

14.沖縄は戦後の歴史を語るときには忘れてはならない重要な地域である。戦後の矛盾・しわ寄せが集中した地域だ。日本の戦後がいろいろと取り沙汰されている今こそ、思い出すことが大切ではないだろうか。
 一歩間違えれば、日本列島はどこの地域でも沖縄のような戦後処理を強いられたら可能性はあった。
 信じた神国日本という国家に放り出され、米国に蹂躙された沖縄では、アメリカという国と軍隊に直接対峙させられた。そして本土では「新生日本」という国家とアメリカという国家と二重に対峙する事を強要された。
 軍隊の本質・戦争の本質として米軍も琉球・沖縄を尊重する気は100%無かったことは、強引な沖縄占領・土地収容・人々への犯罪行為で明らかである。
 正義の味方=アメリカ軍という図式は信じることなど出来ない。戦争に正義の戦争も正しい戦争も有るはずがない。文化を守るはずもないのである。
 軍隊にある唯一の正義は「敵を殲滅せよ」これだけである。これは戦後の米軍の関わった戦争のどれを見ても明らかである。朝鮮戦争、ベトナム戦争しかり、アフガニスタン・イラクすべてに当てはまる。対抗した「革命」戦争も例外では有り得ない。
 そして命を落とすのは末端の兵であり、現地の非戦闘員である。戦争を仕掛けた者、「正義」を語った者、勝利したものだけが命を長らえてきた。

 このような視点で日本の戦後史を、もう一度考え直さなければならないと思う。

深夜のジョギングは不思議でそして怖い

2013年11月04日 12時51分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜22時30分から23時50分にかけて、深夜のジョギングに出かけた。本日の午前中が雨との予報なので、昨夜のうちにジョギングを済ませて起きたかった。さいわい雨も降らずに、10キロほどのコースを回った。8キロほどはジョギング、残りはウォーキング。かなりの量の汗をかいた。

 深夜なので足元に気をつけなくてはならないし、車の前照灯が眩しくて怖い。特に最近の前照灯はとても眩しい。ハイビームのままの走行が多すぎる。街中なので60キロで走行する必要はないのだが、まずロービームにして走らない。
 タクシーは指導が徹底しているらしく、人を見るとすぐにロービームにしてくれる。しかし他の車両ではいつも眩しくてこちらが手をかざして目を保護するようにしてすれ違わなくてはならない。歩行者にとても危険である。
 車の基準をどのように陸運局は考えているのだろうか。また警察はどのように夜間走行について指導をしているのであろうか。歩行者のことを考えた基準、走行方法の指導をして欲しいと思う。特に歳をとってくるにしたがいつらい。目の矯正はきちんとしているが、それでもこの眩しさはとてもつらい。

 昨夜も感じたが、深夜の女性の一人歩きが実に多くなった。昨夜も仕事帰りなのか、遊び帰りなのかわからないが、女性の方が多かった。そして大半がイヤホンをしているか、スマホに集中している。だから私が走って追い抜こうとすると「ハッ」として振り向く。人の足跡が聴こえないらしい。あるいは周囲に対して注意が向いていない。イヤホンをしていない人は、私の走っている足音で事前に脇へ寄るか、それなりの心積もりが出来ているようだが‥。また酔っ払っての千鳥足は、男女問わずである。ひったくりや痴漢の被害が多いと盛んに言われているが、自己防衛がまるで出来ていない。
 女性だから深夜一人歩きするな、という時代ではない。仕事も男女の区別無く終業時間が遅くなっている。また女性だからか弱いわけではない。しかしあまりに無防備すぎる。

 さらに気になるのが、どう見ても中学生にしか見えない女子が道路に一人座り込んだり、あるいは一人で車道を歩きながら大声で携帯電話で話しているのに、5人ほども出くわした。
 道端で一人で座り込んで話している子の声は、100メートルほど手前から聞こえて、私は何か危険を感じて少しゆっくり警戒しながら走った。傍を走りぬけたときにあまりに幼い姿にビックリした。
 団地の傍の住宅街の幹線道路では歩道を歩かずに車道で大声で話し声が聞こえたのでこのときも身構えたが、一人の女の子がやはり歩きながら友人と電話をしているらしいが、もう一人の友人の悪口を周囲の住宅によく聞こえるように話している。
 24時に近い時間帯、周囲の住宅の人はとても迷惑であろうし、よく一人歩きを親が許していると不思議な気がした。高校生であっても私が親ならば許すことはない。
 昨晩は、たまたまなのかはわからないが、中学生・高校生と思われる男子には会わなかった。神奈川大学の横浜キャンパスの周囲を含んで大回りで2周したため、大学生のカップルやジョギング中の大学生とは随分すれ違ったが‥。

 深夜のジョギング、日中には見えにくい今の状況を垣間見せてくれる。私にはとても危険がいっぱいに感じた。

写真整理がほぼ終了

2013年11月03日 22時00分15秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今日で沖縄旅行の写真の整理がひとまず終了した。カメラの映像画像の解像度をブログ用に変更しなくてはならない。また機関紙用に同様な操作が必要になる。これが結構面倒である。トリミングや切り貼りもするついだから特に苦痛ではないが、今回のように利用する枚数が多いとやはり数日かかる。

 ということで朝から今まで、夕方の買い物に付き合って8千歩ほど歩いた以外ずっとパソコンの前に座りっぱなし。これからウォーキングで体を動かすことにする。

 やらなくてはならない作業は残り二つ。まず隔月で出している退職者会のブロックの会報A4の裏表。ひとつの記事は既に記載してあるのであと、3/4が残っている。この旅行記を記載すればほぼ埋める事が出来る。
 次に折角20人で沖縄に行ったので、写真中心の旅行記を参加者に配ってみようかと考えている。A4で4ページ位を考えている。これも写真中心で文章は少ないから特に作業量は多くない。
 この二つは結構楽しんで作ることが出来る。

 本日の日本シリーズの最終戦、妻はやきもきしている。テレビを見ると楽天が負けるのではないか、と落ち着かない。それでも時々恐る恐るチャンネルを合わせている。怖いもの見たさのような具合である。夕食時からかなりそわそわしている。今は、9回表のジャイアンツの多分最後の攻撃中である。妻は、お茶を入れてくれる気持ちのゆとりはなさそうである。
 と書いている間に、楽天が勝ったようだ。


沖縄の印象(その1)

2013年11月03日 20時37分35秒 | 山行・旅行・散策
 退職者会の沖縄旅行に参加して、二回目の沖縄を体験してきた。今回の旅行でもいくつかの印象があるが、今の段階で思いつくままに記してみたい。
 すでに3日間の旅行中にその日のうちに携帯電話からブログにアップした感想も重複するが、記憶を呼び戻すために再度記載してみる。
 箇条書きであり、項目間に脈絡をつけたわけではない。思いつくままに並べてみた。

1.ひめゆりの塔の資料館は以前訪れたときとは展示が模様替えされていた。以前は壕の中の様子が強調されていたと記憶している。それが整理され、代わりに手記や回想がクローズアップされ、見る者に迫ってくる。私は良くなったと感じた。



2.祈念公園はモモタマナという木が礎を守るように美しい。時間がなく資料館には行けなかったのは残念。次の機会があることを願うしかない。今回は前回見ることができなかった「平和の火」を見、「摩文仁の丘」を遠望することが出来た。

   

3.首里城は修復工事が続いている。全体の復元が待ち遠しい。私は初めて訪れた。当時の衣服の案内人などの工夫がいい。琉球王国の盛衰が見て取れる。



 不思議に思うことが2点。
 琉球(あえて沖縄とは言わない)の歴史では、グスク時代が突如出現する。それ以前は考古学だけの範疇になってしまう。国家の成立はもっと遡れないのか、文字資料の出現と国家の成立がどうしてイコールなのか、という疑問がいつもある。
 もう1点は、明治の日本軍隊がどうして首里城を駐屯地とし先の戦争でも司令部を首里城に構えたのか?対馬でも金田城という天智・天武朝の遺跡に、明治から戦前まで防衛拠点を置いている。
 近代戦とはいえ、旧日本軍の発想は古代・中世と変わらないということだったみたいだ。「防衛上重要」とはなにを持って「重要」としたかなのだが、旧日本軍が何をどのように守ろうとしたか知りたいものである。
 戦略上の重要性は古代・中世とは兵器も艦船も大きく違い、都市のあり方や産業の違いも変化している中で、古代・中世の行政・軍事の拠点である城に軍の中枢を置いた明治政府の軍事思想も私には理解できない。しかも米軍の侵攻が迫ったときに首里城に司令部を置いたという。圧倒的な米軍を前にして戦略も戦術もない。ただ乏しい資材と武器で玉砕という戦術ならざる戦術だけが信奉されている。

4.国際通りはずいぶん感じが変わっていた。店が明るく様変わりしている。みやげ物自体も明るくなった。

         

5.嘉数高台は沖縄戦最大の激戦地と云われた地点。私は「かかず」と思っていた。沖縄言葉と「現代日本語」との音韻の対応では「い」はそのまま「い」に対応するらしいから、「かかじ」が「かかず」と発音されるのは、単に「かじ」に「数」という漢字を対応したから生じた誤用のようだ。しかし怖ろしいもので「数」の発音に引きづられて今では「かかず」として沖縄でも通用しているらしい。



6.普天間基地ではオスプレイを目の当たりにした。その異様な姿に圧倒されると共に軍用飛行機というものは、その異様な姿で敵対者だけでなく、民間人をも威圧するということを厚木基地の見学の時と同じく再度確認した。普天間基地の面積も広大である。写真のように宜野湾市の中心にドンと構えている。 基地の周りに人が住んだのではない。人が住んでいる町の中に基地が乗り込んできたのである。世界で一番危険な基地である事態は依然として継続中である。



7.嘉手納基地ではもっとひどい。嘉手納町の83%を米軍基地に占領されている。町が基地の片隅に追いやられている。
 写真で下の灰色の部分は他の自治体をあらわしているのではない。基地の敷地である。中の薄い茶色の部分と灰色の部分が嘉手納町の町域である。



8.美ら(ちゅら)海水族館では、ジンベイザメとマンタの優雅な泳ぎと、ウミガメとマナティーに癒されてきた。時間がなくて海洋文化館を覗けなかったのは残念であった。

   

秋の微かな雨

2013年11月02日 21時35分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 講演会が終わって会場を出たら、道路が雨に濡れていた。気温も低め。天気予報では曇りであったが外れたのかもしれない。でもほんの少しの雨、そのまま東京駅まで10分歩いた。だが、東京駅から品川駅までは歩くつもりだったが断念した。
 東海道線の車内から雨に濡れた線路を見つめていたが、濡れた線路が駅の灯りや街の灯りに照らされているのは、晴れた日とは違い緩やかな光りだ。とても好ましい雰囲気を提供してくれる。雨は春早い時期か、秋の深まった今の時期が静かでいい。他の季節の雨もいいときはあるが、この時期には比べようがない。

 その上4人のボックス席の他の3人が、落ちついた大人だ。向かい側のひとりは50代後半か。ラフな服装でも姿勢正しく静かに読書に浸っている。左横に座ったもう一人も50代後半か。とても物静かなサラリーマン風。思慮深い仕草が漂ってくる。左向かいの40代前半は、目がつり上がってキツそうな素振りを初めは見せていた。しかし腰掛けるときの仕草、前の人への目配せはとても物静かで柔和になっていた。初めは書類を見ていたが、すぐに書類をしまい、目を伏せて畏まったようにしている姿勢がいい。
 東京から横浜までの25分間、いい環境だとほくそ笑んだ。しかし当の私は窓際でウーロンハイを飲んでいる。酔っ払いが他人の品定めをするとは図々しすぎるのだが、外の微かな美しい雨に免じて許してもらおう。むしの良すぎる話だが・・。罰当たりかな?そんな勝手なことを思いながら横浜に到着。
 一気に現実に引き戻されて、今日の外食の店探しに頭がいっぱいになった。

山下裕二氏講演会

2013年11月02日 16時54分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 「"日本美術"誕生!�・幕末から明治時代「激動期の美術」�・」と題した山下裕二氏の講演会に出席した。幸いに珍しく抽選で当たり、無料。幕末の1840年代�・明治初期の1880年代が対象の時期。小学館の「日本の美術」の「激動期の美術」の刊行に即した内容である。高橋由一、五姓田義松、川村清雄、狩野芳崖、川暁斎、狩野一信、月岡芳年などの私のブログで登場してもらった画家のほか多数の画家、そして工芸・彫刻・建築などの分野での作家の紹介があった。
 紹介にとどまらず、作家が何に苦闘していたかの触りにも言及がされたと思う。時間の制約であくまでも"さわり"だが・・。
 この時期の、極めてエネルギッシュで奇矯で、耳目を集めようとす表現には圧倒される。川鍋暁斎もその脈絡で捉えなくては評価は出来ないと実感した。いや全体がそうなのかもしれない。

 歴史的には近世と近代との境は明治維新である。そして日本は劇的な転回を短時間で果たしたことになっている。しかし当の時代に生きた人々はどのように時代を認識し、その転回を受容したのか、講師の問題意識は私のこだわりに近いかもしれない。今の時代もそのような時代かと思っている。自分に引き寄せすぎかもしれないが、人が時代に対峙しようとするときの心構えとしては大切と思う。

 「外来の刺激があまりにも強い時代には、「美しい畸形」ともいうべき造形が生み出される。戦後の前衛美術もそうだし、幕末明治の美術もそうだ。」
 なるほど、心に留めておこうと思った。

 引き続き、時代を引き寄せた先駆者に敬意を忘れないようにしよう。

   

 そして これまでの人生の経緯をふまえて人の意見に耳を傾けるのも楽しいが、 予断・予見なしで学ぶこともまた楽しいものである。どちらも、ゆとりを持って人の意見を聞くことができるようになった自分を褒めることとしよう。


久しぶりに3万歩

2013年11月01日 21時13分22秒 | 山行・旅行・散策
 講座と講座の間の時間を利用して、今日も桜木町駅前から平戸桜木道路を井土ヶ谷駅方面めざして歩いた。前回は井土ヶ谷駅のまでだったが、今日はさらに1キロほど先まで歩いて引き返した。13時少し前から1時間50分、18000歩、約12.5キロ程歩いた。

 講座終了後も横浜駅経由で歩いた。本日の歩程は32000歩、22キロ。久しぶりに3万歩を越えた。これで足慣らしは終って明日は軽くジョギングがしたいのだが、時間が許してくれるだろうか。朝一番で友人に会い、13時からは東京駅の傍で美術鑑賞の講演を聞きに行く。夕方は家族で外食なので、ジョギングは無理かもしれない。講演が終ってから横浜駅に向って歩けるだけ歩いてみるのがいいかもしれない。ジョギングは明後日、日曜日までおあずけがいいかもしれない。
 これだけ歩くと、脹脛の疲労、軽いだるさがとても心地いい。これで銭湯のぬるい泡風呂で30分くらい浸かっていると、足の疲労が抜けていくように感じるのだが‥。家の風呂だと足が伸ばせないのがいけない。と愚痴をいっても直すのはとても無理である。

 今晩はこれから沖縄旅行の写真の整理の続きと、バンフを新しいスキャナーでデーター化することに少し手をつけて就寝することにした。

 連休中は特に予定がない。天気がよければ、どこかに行くことも今から考えたほうがいいのだろうか。どの道、毎日が日曜日なのだから、若い人や子ども連れで賑わうところに出向いて、混雑に拍車を掛けるのは気がひけないこともない。もとより人では嫌いだ。
 どのような過ごし方をしても、旅行で家に行かなかったので家庭サービスに徹するしかないようだ。

        

本日の講座

2013年11月01日 17時06分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日で「船と日本人」と「色で学ぶ心理学」の二つの講座が終了。

 前者はなかなか刺激に飛んだ面白い講座であった。語り口も私の性格に合っているし、示唆に富むものであった。最後の講義は絵馬について。旭日が絵馬に現れるのは江戸の最末期であるらしい。日の丸もこのころ現れたものと推察しても良さそうだ。日の丸の歴史は極めて浅いものであるのがわかる。
 民俗学だから船の構造に関しては厳密な時代考証が無いのはやむを得ないのだろう。でも倭人伝の頃やそれ以降の大陸や半島との交流ではどの程度の構造の船が使われたのか、私は知りたかった。壱岐の博物館に展示されていた立派な復元模型は船の歴史から妥当なものか知りたかったが・・。昆政明教授の次の講座があることを期待したい。

 後者の講座は美術鑑賞の勉強の視点を期待したが、これは残念。私の選択が間違いであったらしい。