Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

高村薫「作家的覚書 無能のともがら」(岩波書店「図書」12月号)

2015年12月27日 11時54分43秒 | 読書


 岩波書店の「図書」はいつものとおり高村薫「作家的覚書」から読んでいる。基本的に私の政治批判の思いと近い。まったく同じということは人間である以上あり得ないのだが、教えられることも多い。
 ただし私の意見が高村薫に基づいていると云われると、それは心外ではある。私もそれなりに政治の世界の外縁部(それもかなり辺境だと自分では思っているが、他者から見ると極めて内惑星に近いと云われる)に近いところで半世紀近く生きてきたので、自分なりの感性に基づく自分なりの判断は常にしているつもりだ。しかし政治とは違う世界に生きたいと思い、政治的な言語でものごとを綴ることはわざと避けてきた。
 若い頃に自分が発した政治的な言動が自分の心にも他者にも届くことはないという断念から自由になれないまま、この歳になってしまった。だから他者の言語で語らせてもらっている。恥ずかしながら、いつも他人のことばの気に入ったところだけつまみ食いさせてもらっている。「取捨選択も表現の内」と身勝手をとおさせてもらっている。
 高村薫氏は自営業者という作家であるが、雇用問題について言及があるところが気に入っている。

横浜で震度2

2015年12月26日 23時53分23秒 | 天気と自然災害
 東京湾(北緯35.5度、東経139.8度)で深さ20キロで地震が5回続いた。23時21分の自身がもっとも規模が大きくマグニチュード3.4となっている。

 22時12分 M3.1 深さ20キロ
 23時04分 M2.8 深さ20キロ
 23時16分 M2.7 深さ20キロ
 23時18分 M2.7 深さ20キロ
 23時21分 M3.4 深さ20キロ

 最初の時には私の住んでいるところは震度1以下だったようだが、揺れを微かに感じた。同じところで起きてはいるが規模は小さいし、特に心配は無いようだが、起きている個所が微妙にずれている。初めの4回は千葉県に近い海底だが、最後のは川崎市のすぐ沖合である。そんなに近いところとは感じなかった。

→【http://www.jma.go.jp/jp/quake/

モーツアルト「ヴァイオリン協奏曲第4番、第5番、外」

2015年12月26日 23時36分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 年賀状はどんなものにしようかと考えてみたが、うまく考え付かない。かけた音楽が年賀状とはあまり縁のなさそうなモーツアルトだったからだろうか。
 一昨日に引き続きモーツアルとのヴァイオリン協奏曲の第4番(1775年、19歳)と第5番(同)、ならびにヴァイオリンと管弦楽のためのアダージョ(1776年、20歳)の3曲。耳に心地よいばかりではなくね懐かしい曲でもある。特に第4番の出だしは印象的で、一度聴いたら忘れられない。



 一昨日と同じくヴァイオリンはヨゼフ・スーク、プラハ室内管弦楽団、1972年の録音である。
 第4番は第1楽章があまりに有名でそして確かに美しい。私は第2楽章の穏やかな曲想もまた好みである。「軍隊」などといわれるが、第1楽章からつけられたようだが、特にいわれは無いようだ。
 第5番がもっとも多く演奏されるという。「トルコ風」という名で当時はやりのトルコ趣味に基づくということである。5曲の中ではもっとも長く30分近くかかる。第2楽章のアダージョが10分以上要することによる。第3楽章もヴァイオリンが実に華やかである。この楽章だけを独立して聴く、という友人がいる。それも悪くはないと思う。
 この第5番は一番演奏されるだけあって格調高く聞こえる。私などが協奏曲らしい協奏曲に聴こえるということは、後の時代の協奏曲のお手本のような曲なのかもしれない。
 もう1曲の「ヴァイオリンと管弦楽のためのアダージョ」は、第5番の第2楽章との関連かがあるらしいとのことである。「ザルツブルク宮廷楽団のヴァイオリニストであるブルネッティには合わなかった第5番の第2楽章を彼のために書き換えたもの」ということらしい。しかしこれがどのように合わなかったのかはわからない。私の好みで云えば、聴きなれているせいもあるが、元の方がいいようである。


忙中閑

2015年12月26日 21時31分52秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は無事カレンダーをひとつ見つけて購入。もうひとつは大晦日までに購入するつもりで、慌てずに物色することにした。
 横浜駅の東口・西口双方を歩いたが、さすがに年末最後の土曜日ということでものすごい混雑であった。伊勢佐木町もみなとみらい地区も大勢の人で混雑していた。明日はもっと混むかもしれない。しかし関内の駅のすぐ近くの喫茶店は思ったよりはすいていた。あくまでも想定していたよりは、ということであるが‥。普段はサラリーマンで混雑しているが、年末で土曜出勤のサラリーマンは少なかったのであろう。そのかわり若いカップルが多かった。
 さいわい入った喫茶店に空きがあり、1時間ほど読書をすることができた。帰りがけに購入していたカレンダーと野球帽を忘れて、お店の人に呼びとめられたのはご愛嬌。また横浜美術館に寄るつもりも忘れていた。どうもこのところ気が抜けているのではないか、と自分のこととはいえ心配である。どこかで緊張の糸が切れているかもしれない。

 今月後半はウォーキングもしていないし、毎日の歩数も15000歩未満が続いている。明日からは少しウォーキングを行いたい。
 年賀状もまだまったく手を付けていない。

★はらわたの紆余曲折を年の暮   中原道夫
★噴水の丈切り詰めて師走来る   橋本荣治

カレンダーを探しに‥

2015年12月26日 14時01分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 年末になってカレンダーがいくつか足りない。居間と寝室と台所。すでに妻の机の上は猫のカレンダーがかかっている。銀行で貰った1枚物のカレンダーが私のパソコンラックの近に貼ってある。トイレには小さなものを購入した。欲しいものは6枚物のカレンダーである。娘がひとつは持ってくるとのことなので、あと二つである。

 私がまだ学生の頃は年末になると酒屋や近くの蕎麦屋で、年末にはカレンダーを配布していたものである。最近はそのような習慣はほとんどなくなった。「カレンダーは買うものではない」あるいは「カレンダーを貰えないならその店を利用しない」などという商い上の習慣が当たり前ということは私には不思議な気がする。小さな小売店で配布するカレンダーに店名が記してあっても大して宣伝効果があるわけではない。たまに普段行くこともあまりない蕎麦屋さんなどでカレンダー貰ったりすると、私がまだ小さかった頃の商習慣が思い出されて懐かしいが、同時にとても恐縮してしまう。小さな商店にこのようなサービスを求めることは今の時代は酷というものであろう。
 銀行でも最近は配布しなくなった一方で、信用金庫などでは1枚物のカレンダーを配布しているところがまだある。私が毎年利用させてもらっているのはわたし好みである。毎年恐縮しながらも大切に愛用させてもらっている。利用者が多い企業にとっては宣伝効果はあるかもしれない。効果という点で考えた場合、カレンダーの配布・作成費用との兼ね合いで、自ずと企業規模、取引環境・規模によって差が出るものと思われる。
 部下が上司にお中元やお歳暮を贈り、下請け業者が発注者に物を送り、許認可を受けるものが許認可権者にお礼を行い、という弱いものが力を持つものに何かを送るという負の連鎖をどこかで断ち切らないといけないと思う。私の周囲でも「あそこの店はカレンダーも持ってこない」などと怒っている人がいる。いつも「そんな時代ではないよ」とたしなめることがある。また「カレンダーをもらうほど利用しているの?」と聞くと黙ってしまう。「購入してやっている」という上からの目線で人を見下している、ということに無自覚なのである。
 対価はつねに契約の中に明記されていなくてはならないし、それ以外ではあり得ない。信用と信頼は、購入してもらう側からの贈与で培われるものであってはいけない。

 私が一番恐れるのは、人間慣れてしまうということである。貰い続けているといつの間にか貰うことが当たり前になり、さらに相手の都合を顧みずに貰うことを強要するようになる。贈る方もいつの間にか贈っているのだから、と見返りを求めるようになる。特に贈る側は苦しい状況になるとそこに一縷の望みを託すようになる。こうなると商習慣は破たんする。取引の範囲が限定されていたり、地域などで相互了解を前提として、成り立っているうちはいいのだが‥。
 また、印刷屋さんなどのようにカレンダーそのものが商品見本のような場合と、そうでない場合とではおのづと考え方も違うかもしれない。
 私の論理が飛躍しすぎてはいるかもしれないが、私にとっては「たかがカレンダー、されどカレンダー」という思いが強い。

 話はさらに突拍子もなく飛躍するが、私は「もてなし」ということば、いい言葉だと思うがこれが現在の使われ方を見ると「強要」と同義語に思える。
 支払う側が、サービスを提供する側に対して対価以上のサービスを強要する方便に使われていないだろうか。クレーマーの拠り所にされていないだろうか。普段耐えている者が次の瞬間には抑圧する側にまわるという、未成年者の「いじめ」の構造、円環に拍車をかけているのが大人の世界の「おもてなし」という言葉に象徴されているように感じる。
 しかもこの発想が雇用者と働く者にまでいきわたり、ブラック企業がのさばるのだ、というのは牽強付会だろうか。


 さて話をカレンダーに戻して、ここ十数年、いつも大きな書店でカレンダーをいくつか購入していた。しかし今年はこれから必要なカレンダーを探しに関内まで出かけることにした。大手の書店ではそれなりの値段なので、伊勢佐木町通りまで行ってみたい気がする。確か何年か前、伊勢佐木町の5~7丁目の付近で年末に安く販売していた記憶がある。ただし気に入ったものは無かった。今でも販売しているのであろうか。

「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」(国立近代美術館) その3

2015年12月25日 21時03分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 アップするのを忘れていた。



 「アッツ島玉砕」などは私はフジタの画業の中ではひとつの大きな頂点をなすものであると今回感じた。それがプロパガンダであったり、戦争協力画としての位置付けであったりしたことはそのとおりだが、フジタの画業の一環として捨て去ることも、「なかった画業」「隠すべき所業」としてしまうことは到底出来ない。それは政治の問題として別の切り口が必要だろうが、画家の歩みとして、あるいは画業の推移としてはオープンな論議が必要であろう。特に藤田の場合は近代日本の西洋画の歴史の到達点としても、またフジタという画家の頂点としても評価が必要だと私は思う。
 評伝によれば、1946年頃から各界で戦争責任を追及することが始まった。日本美術会という団体でも画家の戦争責任がGHQの指示は無かったにも拘わらず、戦争協力者のリスト作成に乗り出す。私の印象では「GHQの意向を『忖度』してその支持の前に戦争責任の追及、戦争犯罪人のリストを作成」し始めたとのことであるらしい。戦争中には「政府の意向を事前に『忖度』して市民生活に規制を巡ら」し、戦後には「GHQの意向を『忖度』して事前に自己規制する」、末端のファシストと、戦後民主主義者の振舞いは戦前も戦後も立場は違っても同じである。そうであるがゆえに、戦前のファシストが戦後には「民主主義者」に宗旨替えも平気でできた笑えない喜劇がまかり通った。
 ファシズムから「民主主義」に何の根本的な思想の変更なしに平行移動し、権力にすり寄っていく戦後「民主主義」のいい加減さ、戦後民主主義者として振る舞った人間の醜さがそのまま表れている。
 結果として日本美術会書記長の内田巌が「戦争画を描いた画家の代表として出頭してほしい」と伝えたということになっている。後の日本共産党員内田巌の醜悪な戦後の第一歩である。フジタの文章では「私は戦争発起人でもなく捕虜虐待した訳でもなく、日本に火がついて燃え上がったから一生懸命に消し止めようと力を尽くしただが、何がわるいのか判らぬが私が戦犯と言われれば服しましょう。死も恐れませんが、出来れば太平洋の孤島に流して貰って紙と鉛筆だけ恵んで貰えば幸ですと答えて後は一切の話は打ち切って‥」と記されている。
 さらにフジタは内田巌のことばとして「何んなことがあっても私は先生を見捨てたり致しません。必ず私一人丈でお世話をいたします。何うか先生皆んなに代わって一人でその罪を引き受けてください」といったという。これがどこまで真実なのかはわからない。フジタ自身の脚色や誇張があるかもしれない。しかしまったくの嘘とは言えないと思う。真実はわからないが、戦後の不幸な「民主主義」の出発点が垣間見える。
 フジタの描いた戦争画は長らくアメリカに持っていかれ、そして永久貸与という形で国立近代美術館に保管されてきた。この経緯については戦後の「戦争責任問題」と絡んで別の考察も必要であろう。
 私は別にフジタがあの戦争の本質を見抜いていなかったことを糾弾するつもりはない。だが、できればフジタには第一次世界大戦での体験だけでなく、絵を描くという行為の中で、それこそヨーロッパの都市生活の底辺も体験したのであろうから、そこでの人びとのありようや人間観察をじっくりとしてほしいと感じたことだけは記しておきたい。底辺にも近い都市生活者の諸相がどんな人間観をフジタにもたらしたか、それがどのうよ作品に反映されているのか、人間観察の独自性抜きに作品の深化は図ることができないと、私は心の底で思っている。
 フジタの戦争画も1945年の「サイパン同胞臣節を全うす」などになると軍人だけが登場する作品から軍人以外の日本人の「強いられた死」も登場する。国家の滅亡に合わせて死を強制される群像としての死である。だが、フジタと交流のあったピカソの戦争そのものを告発する「ゲルニカ」の普遍性とはとても深い溝のある作品である。
 「サイパン同胞臣節を全うす」と「ゲルニカ」(1937)を並べて比較するのは間違っているかもしれない。しかしあの「ゲルニカ」は、あたらしい時代の新しい表現としてすぐれた作品である。人間がどうしても埋葬することのできない戦争という悲劇を正面から扱っている。あらゆる戦争を告発している。残念ながらフジタの戦争画にはそのような普遍性は感じられない。

 しかしフジタは日本を脱出せざるを得ないことで、そしてニューヨークでは「戦争に加担した画家」として展覧会を国吉康雄などに妨害され、日本から捨てられるだけでなく、戦後世界秩序からも捨てられることになる。私はフジタは日本に捨てられた異邦人というだけでなく、戦争画を描くことによって、戦後の世界そのものから放逐されたと感じる。

「動物宴」(1949-60)


 日本国籍を捨てるためにフランス国籍を取得し、キリスト者となったフジタという精神は、そうすることで戦後の喪失感を何とか埋めようともがいたのだと思う。しかしその彷徨が作品として昇華したのであろうか。そのことが推察できるだけの作品を私は見ていないので断定はできない。しかし国立近代美術館に収蔵されている作品を見る限りは、フジタの作品は戦前に回帰しただけで、戦争画の成果を踏まえた画業はないと思われる。
 日本から捨てられ、そして世界から放逐されたフジタは、この日本からの仕打ちと、日本と世界の欺瞞的な戦後民主主義を見据えた人間観察の深化によって、その危機を乗り越えてほしかったというのが、私なりのささやかなフジタ批判である。フジタは自らの戦争画を超える作品を戦後は創出できなかったと思うのは早計だろうか。

冬の星

2015年12月25日 12時32分14秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 冬の星を眺めながら‥

★冬銀河かくも静かに子の宿る     仙田洋子
★再びは生れ来ぬ世か冬銀河      細見綾子
★生きてあれ冬の北斗の柄の下に    加藤楸邨
★冬銀河わが足下には紅蓮地獄     庄司 猛
★山茶花咲いて系外惑星葉の裏に    藤井誠三
★賀状書く冥王星のハート形      菅原 涼

モーツアルト「ヴァイオリン協奏曲第1番、第2番、第3番、外」

2015年12月24日 22時21分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日はモーツアルト「ヴァイオリン協奏曲第1番、第2番、第3番、ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド」の4曲を聴いている。
 ヴァイオリンはヨゼフ・スーク、プラハ室内管弦楽団、1972年の録音である。モーツアルとのヴァイオリン協奏曲では第3番、第4番、第5番、ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲、二つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネの5曲が聴く機会の多い作品である。
 このCDにおさめられている4曲の中では、第3番は際立っている。第2楽章の美しい旋律を、透明感あふれるスークが弾くといっそう惹かれる。

 明日は8時45分に歯医者を予約している。

武力によらない平和の実現を目指して-世界平和アピール七人委員会アピール

2015年12月24日 21時15分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
★武力によらない平和の実現を目指して―世界平和アピール七人委員会創立60年に際して―
                    世界平和アピール七人委員会  2015.12.20
                    武者小路公秀 土山秀夫 大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 高村薫

 世界平和アピール七人委員会は、下中弥三郎 植村環 茅誠司 上代たの 平塚らいてう 前田多門 湯川秀樹の7名によって60年前の1955年11月11日に結成され、この日に「国連第10回総会に向けてのアピール」を発表し、国連と各国首脳に送付した。これは、その4か月前の7月9日に湯川も参加して発表されたラッセル・アインシュタイン宣言を受け止め、国家を単位とする国連を超えた世界秩序の実現に向けて国連改革・発展を呼びかけるものであった。
 それ以来、委員を務めた者は31名を数え、人道主義と平和主義に基づき不偏不党の立場から、世界の一人ひとりが恐怖と欠乏なく平和に生存できる社会の実現を目指して発表してきた国内外へのアピールは118件に及び、2004年以降は毎年国内各地で講演会を開催してきた。私たちのこれまでの主張には、今日でも繰り返したい内容が積み上げられている。
 今日、世界は安定を欠き、中東では、ヨーロッパ諸国による植民地支配の残渣が解消されることなく、長年の被圧迫者の不満が噴出し、関係者の利害が錯綜している。その中で大国による紛争地域への利己的な武器供与を含む行動が続き、国家と非国家によるもつれあいの破壊活動が相次いで、世界各地に恐怖と憎悪が広がっている。報復の連鎖は、恐怖と無関係に生きることができる安全・平和な世界につながる道ではない。一方、東アジアでは、日本の戦争責任について、いまなお共通の歴史認識をもつに至らず、冷戦の終結は遅れたままで、国家間の真摯な対話が成り立っていない。
 しかし、世界は時代と共に次々に変革を重ねてきたのであって、現在の不安定な状況が、いつまでも継続することはありえないと考える。変化の兆しを見逃すことなくとらえるためには、歴史を踏まえて、未来を見通していかなければならない。
 第二次世界大戦から70年経過した今日、日本では、国民に誠実に説明して納得を求めることなく、日本国憲法も国会も無視し、主権者の国民の意向と無関係に、まず外国への約束を重ねて既成事実をつくる政治が強行されるという異常事態が続いている。
 世界の中で、日本と日本人は、日本国憲法、そして国連憲章の基本理念である“国際紛争を平和的手段によって解決する”姿勢を堅持すべきであって、特定国への過度の依存と癒着を解消し、自立することが必要である。日本は“武力による威嚇または武力行使”を放棄し、交戦権を認めていないのだから、全世界から信頼される道を歩み、恐怖のない安全な世界の樹立に向けて主導的に貢献するために有利な立場に立っているはずである。そのためにも日本は、人口激減が進行する中で本来実現不可能な軍備増強、外交軽視路線を続けることを速やかに転換すべきである。
 日本は、近隣諸国との間で、科学技術、教育、文化、スポーツ、経済などの協力・交流を強め、相互理解を増進することを積極的に進めて、政治の世界における不信関係、敵対関係を速やかに解消させるために貢献することが必要である。国民の多数が自ら考え続け、発言し、行動していけば、アジアの平和は実現できると私たちは信じている。
 戦争は最大の環境破壊であり、いかなる戦争も非人道的である。安心して平和の中で生きていける世界は現実の目標であるが、願望だけでは実現できない。私たち一人ひとりが具体的に一歩ずつ歩みを進め、できるところから基盤を拡大していくべきである。
 我々七人委員会は、創立60年の機会に、武力に依存しない平和な世界の実現を目指してこれからも努力を続けていくことをあらためて宣言する。

         →【http://worldpeace7.jp/?p=819

再度「名画は嘘をつく2」について

2015年12月24日 19時55分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日の「名画は嘘をつく2」に「期待とは離れた方向だった」と記載した。例えばこのページ。ゴッホの「星降る夜」である。指摘によると街の方向と北斗七星の位置が違っているという。街は柄の方ではなく枡の方角に相当するということなのであろう。
 結びの部分で「自分の感情を、ゴッホは自由に構成して描いた」としてるしている。どうして街の位置が左右反対にしたのか、絵画上の効果について踏み込んで記載してほしかった。私の解釈は単純である。街の灯りが右側になれば、星の密度と街の灯りが右側に偏って重くなる。灯りのバランス上、左に街がないと黄色のバランスが右に偏るのである。
 違う解釈もあるかもしれないが、なぜ変えたのか、を記さないと単なるエピソードの羅列ないし「教養」「知識」でしかない。絵画が好きな人の自慢披露のおしゃべりのネタの提供に陥ってしまう。知識ではなく、鑑賞の方法を示唆する書物であって欲しかったというのは私の過大な要求であろうか。
 中学生の美術の授業でも、せめて私程度の判断を示さないと、生徒に突っ込まれてしまうと思う。知識というのはエピソードの羅列ではない。それは事典に任せればいいのではないか。単なるエピソードをたくさん知っていることが専門家ではないと思う。
 作者はそれをひけらかしたいということでこの入門書を記したのではないはずだから、もう一歩踏み込んだ道しるべを記してほしいと思った。そうでないと折角の図版豊富な書物がもったいない。

「名画は嘘をつく2」(木村泰司)

2015年12月23日 22時59分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日昼間にブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴くのと交互に、目をとおしていたのが、「名画は嘘をつく2」(木村泰司、大和書房)。夏に買ってそのままにしておいた文庫本である。
 103点の作品について題名と実際の乖離を指摘している絵画の入門書。エピソードで鑑賞の楽しみを説こうという試みだろうか。全てカラー図版で税込み799円だから安いのだが、私の期待とは離れた方向だったと思う。知らないエピソードもいくつかあったが、私なりの鑑賞の仕方と接点は無かったと思う。

ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」

2015年12月23日 21時34分53秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨年の12月初めにブラームスのヴァイオリン協奏曲を取り上げた。もう1年半以上たっている。そのときに、



 特にブラームスは交響曲のように4楽章制を構想し、ヨアヒムの強い反対で現在の抒情的な第2楽章に変更となった。解説によれば「弱弱しいアダージヨ」(ブラームス)と表現したという。ブラームスは不本意だったようだ。そうかもしれない。ブラームスらしいシンフォニックな構成ではないかもしれない。
 初演はヨアヒムの独奏、ブラームスの指揮で翌1879年元旦に行われた。
 しかし細部までかなり強いヨアヒムの助言とブラームスの主張との折り合いで日の目を見たこの曲だが、初演以降、両者の関係に微妙な影を落とすことになったと云われる。ブラームスはおそらくだいぶ燻った感情を抱いたのであろう。芸術家としての矜持にも触れる葛藤を経験したのであろうか。
 私はこの第2楽章、第3楽章が特に気に入っている。ブラームスには申し訳ないが、私はヨアヒムに感謝しなくてはいけないのかもしれない。

と記した。今でも私は第2楽章が好きである。ベートーベンのヴァイオリン協奏曲と同じく第1楽章が大変長く、第1楽章の雄大な曲想に関心を持っている方や、躍動的な第3楽章が気に入っている人が多いらしい。
 本日は実に30年以上も開いていなかったスコアを見ながらこの曲を聴いた。久しぶりに押し入れの奥深くしまってあるスコアを詰め込んだ段ボールの箱をふたつ明けた。ベートーベンとブラームスを中心にしたスコアである。
 楽譜を見ないで曲を聴くことと、スコアを見ながら聴くのとでは随分と違う。スコアを見ながら聴くのは、目で曲を聴く、といった方がいいかもしれない。曲の響きよりも旋律の流れを追いかけながら聴いてしまう。そして曲の構成や作曲家の楽器の選択に感心したりして、分析的な聴き方となる。この違いはとても大きいと思う。
 このブラームスのヴァイオリン協奏曲の第2楽章に即していえば、スコアなどを見ないで聴くと出だしのオーボエの美しい旋律がそのまま頭に滑り込んでくる。旋律の美しさに素直に反応できる。スコアを見ながら聴くと、複雑な対位法の譜面に目を奪われて、つい戻ってもう一度聴き直したいなどという衝動に駆られながら、譜面を目で追っている。結局音の記憶が曖昧になってしまっている。
 これは演奏する立場で曲を分析しているようなものである。スコアを見ないで曲を聴くと音が広がって聴こえる。音の複雑な絡み合いそのものを楽しむことができるように感じた。
 一方でこの第2楽章のスコアを目で追いながら聴いていてあらためて感じたのが、この楽章を演奏するときの緊張感がよく理解できたような気がする、ということである。
 特に第2楽章の後半部分のソロヴァイオリンは厳しいのではないか。そしてすぐさま躍動感あふれる第3楽章になだれ込んでいく。
 作曲の過程やその後の二人の関係のエピソードを知ると、ヴァイオリンの大家のヨアヒムの演奏する立場と、作曲家の丁々発止の緊張関係の一端を垣間見たように思った。純粋に音の構築物として、音響の効果や曲の構成を考える作曲家の立場と、生身の人間が演奏する立場では自ずとより音を響かせようとするポイントにズレはあるはずである。
 私は少しだけ演奏に携わっただけなので超人的な技法などとてもできないが、精神的な緊張感が持続する限界があるということは何となく理解できる。

 そんなことを考えながら、スコアを片手にこのCDを2度ほど聴いた。さらに2楽章だけを2度、スコアを見ないで聴いた。


休養日に聴きたい曲はやはりブラームス

2015年12月23日 11時55分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜は印刷所にメールを送付するのを忘れてしまった。ブログに送付すると宣言しておきながら、忘れて風呂に入って気分よく寝てしまった。しかし朝になって漢字の間違えがあるのを思い出し、さらに訂正個所もいくつか見つけることができた。先ほど訂正したものを印刷所にようやく送信。これにて取りあえずは終了。
 しかし印刷屋さんも本日は休みのはずなので、見てもらえるのは明日以降になる。遅れたのは年末のためとはいえ、こちらの側が原因なので印刷屋さんには申し訳ないが、年内に原稿が確定できるか、心配である。

 さて、講座の資料の整理のために、ファイルをいくつか購入しなくてはいけなくなった。午後にでも100円ショップに行く必要がある。しかし100円ショップもいつの間にか108円ショップになり、そのうち110円ショップになる。通称百均(ヒャッキン)から、百十均(ヒャクジュッキン)にしなくてはならなくなるのだろうか。

 これから百均に出かけるまではしばらく読書タイムとしよう。活字の大きい、読みやすいものを探すとなると探す時間の方が長くかかるかもしれない。バックの音楽はブラームスのバイオリン協奏曲といたい。

本日の作業は予定どおりに終了

2015年12月22日 23時21分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の作業終了。どうやら機関紙の初稿は出来上がった。本日中に印刷会社へ原稿を送付できることになった。目は思ったほどには疲れていない。助かった。
 本日の夜は抜歯したばかりなので、お酒は飲まなかった。実は本日抜歯するということは妻には伝えなかった。昨日に私の好きなナマコを妻は購入してくれていた。本人は好みではない。抜歯したばかりであまり歯ごたえのあるものはまずいかと思ったが、思い切って鹿児島県産の壺作りの黒酢にこの間いただいた柚子の残りと醤油で味付けをして食べてみた。
 まず程よくコリコリとして食感が良く美味しかった。歯切れがよく、とても新鮮であった。また柚子を入れたので、香りもまたいい具合であった。美味しい日本酒があれば最高のご馳走であったかもしれないが‥。あまり贅沢は云えない。
 このナマコに満足して、あとはアボカドとトマトと千切りのキャベツのサラダに柚子胡椒ドレッシング、そしてサバの味噌煮、そしてお粥。ナマコ以外は特に固いものは無く、食べやすかった。抜歯後の痛みは無く、助かった。
 この分では明日はほとんどいつもと変わらない食事で構わないようだ。

 明日は目の保養を兼ねて、午前中は寝ていたい気もする。布団の中で、メガネを外して大きめの活字の本でも読んでいたい。

ベートーベン「ヴァイオリン協奏曲」

2015年12月22日 21時16分56秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ようやく機関紙の裏表は記事ひとつを除いてほぼ出来上がった。後は見出しの強調、罫線の一部削除などが残っているだけとなった。たぶん23時前までには終了出来そうである。



 本日はベートーベンのバイオリン協奏曲を聴きながら作業を行った。いつものヨゼフ・スーク、チェコフィル、コンヴィチュニーの組み合わせではなく、ヴァイオリンはイツァーク・パールマン、バレンボイム指揮のベルリンフィルハーモニー管弦楽団の組み合わせ。録音は1986年である。いつ購入したのかは覚えていないが、スーク・チェコフィルの次に聴いている回数は多いはずである。パールマンのヴァイオリンの音も美しい。
 またカデンツァは誰のものか解説には明示されていない。しかし主題がよく浮き出ていて音楽にマッチしているいいカデンツァだと思う。
 私がこの曲で重視するのは、以前にも触れた最初の出だしのティンパニーの5連打(そのも初めの4連打)である。楽譜上ではD音の四分音符が5つ並んでいるだけだが、これでこの演奏の良しあしが決まってしまうようなものである。



 そしてその次のポイントは、第一楽章の提示部(89小節~)が始まってすぐの107小節目のソロヴァイオリンの奏でるA♯音である。次のH音の二分音符にかかるまでの表情がとても大事に思える。この四分音符をどのように唄うかでソリストの好き嫌いが私の場合決まってしまう。