Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は忘年会第1号

2018年11月25日 22時21分23秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日でルーベンス展の感想は終了。横浜美術館の駒井哲郎展の感想を始める予定だが、もう一度見に行かないと忘れてしまった作品もある。協力会の会員は会員証があれば、いつでも無料で入場できる。通常展示ばかりでなく、企画展にも適用できるので、とてもありがたい。最初期を除いてずっと会員を継続している。
 年間5000円というのは、入場する回数は年間10回くらいあるので、とても安い。年会費も設立当初から変わっていない。他の美術館・博物館等のチラシも多数そろえてあり、情報を集めるのにも便利である。
 さていつ訪れるか。スケジュール帳とじっくり相談。明日か明後日か。木曜日が休館日である。

 明日は夜に学生時代の友人3名で横浜駅で忘年会を兼ねて、新年会の相談をする。場所は横浜駅のすぐ近く。楽しみにしていた日である。残念ながらお酒は飲めまい。

★忘年会果てて運河の灯影かな    小川濤美子

冬浅し

2018年11月25日 20時44分44秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昼間は暖かでポカポカとした陽気だったが、陽が沈むと冷えてきた。午後は横浜駅まで出かけて、喫茶店で短いながら読書タイム。少し体が重く、帰りは歩く元気がなくなったので、バスにて帰宅。そのまま寝てしまった。
 妻も所用があり出かけて、予定より遅く帰宅。妻も私も料理を作る元気がなく、宅配のピザを注文。久しぶりに食べた宅配のピザ、ボリューム満点で満腹。

 30分ほどの睡眠と食事後は元気が戻ってきた。

★冬浅き靴の埃を払ひけり        川崎典宏
★蛍光灯唄ふごと点き冬浅し       藤田湘子


 第1句、冬の完走した空気で、靴についた泥も白く乾き、目立つようになる。つい指などで払いたくなる。冬のつめたく乾いた空気を感じる。同時にそれほどの寒さではなく、冬とは言っても寒さに対して心のゆとりも感じられる。

 第2句、昨年の今ごろにも取り上げた。その時は「背景には身内の方の死が反映していないか」と記載した。かなり飛躍した感想だが、今もそんな匂いを感じている。因果関係から言えば、蛍光灯の点灯に時間がかかることと、冬は関連はない。寒いから点きにくくなるのではなく、蛍光灯が古くなったか、安定器の不具合である。しかし夕方、日が傾くとすぐに昏くなってしまう冬の夕刻に、早く点いて欲しいという気持ちのゆとりの無さが現われている、と癇癪出来る。そんな気分は初冬ならではであるが、同時に何か不幸がその向こうに隠れていると私はどうしても感じてしまう。

「ルーベンス展」(国立西洋美術館) 追記

2018年11月25日 13時28分58秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 その4まで取り上げた作品のほかに、イタリア滞在中の作品「カスバ―・ショッペの肖像」(1606頃、パラティーナ美術館)が気になった。2013年の展覧会では冒頭に展示されていたが、そのとき意識に刻まれなかったが、今回は肖像画としてその表情に惹かれた。ベラスケスの作品とされたり、ティツィアーノやカラヴァッジョの影響が認められたりと解説には記されている。さまざまな影響を受けた第二次イタリア滞在時の作品と云われる。人物の表情からモデルの性格や履歴が醸し出されるようだ。モデルはプロテスタントからカトリックに改宗した履歴があるそうだが、そのような複雑な経歴が伝わってくるような肖像画であると感じた。



 「エリクトニオスを発見するケクロプスの娘たち」(1615-16)も気になる作品である。しかし複雑な神話世界と多様な寓意が込められており、一筋縄では解釈が難しいようだ。
 このような謎解きや寓意の解明もまた、西洋絵画を楽しむ要素である。すこしくらい私も理解できるように勉強するのを楽しみとしよう。


立待月と冬の星をいくつか

2018年11月24日 22時08分03秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は立待月。先ほどウォーキングに出てみたら、ちょうど東の方向に月がことのほか明るく輝いている。かなり丸く見えたので十六夜の月かと思ったら、立待月であった。夕方の厚い雲は取り払われ、切れ切れの雲が全天の三分の一ほど。

 本日は西の空に火星を見てから、久しぶりに北の空が見渡せる場所から空を見上げた。しかし北極星とカシオペア座のWの形を微かに認めたばかりであった。北斗七星は地平線に近いので確認できなかった。

 月の見える位置から東にかけては雲が多く、月の北側の店長に近い方向にぎょしゃ座のカペラがようやく見えた。また月より地平線に近くオリオン座の右肩のペテルギウスと左肩の二等星、垂直になった小三つ星を見つけた。左足首のリゲルも眼を凝らして確認した。

 シリウスやプロキオンは雲と街の明かりと家の影で確認できなかった。しかしオリオン座とは久しぶりに対面した気分であった。

 オリオン座はいつみても雄大である。本日のように地平線に横たわっていても、大きいというよりも雄大に見える。北斗七星もまた雄大である。どちらが空を圧していると見るか、好みの問題である。

★踏みしめる首都のあかりを寒オリオン  庄司たけし
★立ちあがる力いま欲し寒北斗      高橋克郎


 明日は午前中は団地のことで作業を少々。午後からは特に予定はない。

忘年会の予定が次々と‥

2018年11月24日 20時17分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 忘年会の誘いがいくつか来ている。今月26日、来月の1日ダブり、6日、17日、20日という具合である。まだまだ増えそうな気配である。誘われなくなったら、人生おしまいが近づいているのだ、というので、忘年会・新年会のお誘いはよろこぶことにしている。

 3日が血液検査と薬の処方の日なので、順調にいっても3日以降でなければお酒は口にできない。医師に隠れてお酒は飲めるかもしれないが、妻は騙せない。飲めば匂いですぐにわかってしまう。またこれ以上病気の予後が長引いて迷惑をかけるわけにもいかない。長引けばこの予後の後始末で、死ぬまで迷惑をかけることになりそうである。

 26日(月)は学生時代の友人と新年会の下見でイタリアンの店に行く予定。お酒は無論遠慮する。1日は昼間はみかん狩りとその後の飲み会の誘いがあり、夜は都内での忘年会。昼間は申し訳ないが欠席して体調を整え、夜のみ短時間の参加という予定をとりあえず立てた。入院中に心配をしてくれた友人に報告をしなくてはいけない。
 6日は午後から会議があり、その後の懇親会が忘年会のようなもの。これもお酒は遠慮しようかと考えている。飲んでもビールをコップに1杯程度。たとえお酒が解禁になっても、いきなり外で深酒は自信がない。医師からお酒が解禁になっても、外で飲むのは中旬以降としたいと思う。下手に酔っぱらって、外で立ち往生しては迷惑をかけてしまう。

 医師が3日の日にお酒の再開を許さないとすれば、次回の診察は年明けなので正月のお酒もダメということになりそうだ。

 本日は14℃に達せず、風が冷たく寒い日であった。そして一日中雲が空を厚く多い、夜のウォーキングでも星空は見込み薄す。

 これより少し早めだが、夜のウォーキングに出かけてくる。


「ルーベンス展」(国立西洋美術館) 4

2018年11月24日 14時01分53秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 前回はルーベンスの躍動的な描写について記載した。躍動感、誇張された人間の姿態、情念・感情と肉体の劇的な統一。私の理解の範囲で、バロック絵画である所以を述べた。

 ルーベンスの描く女性のヌードには私は強い違和感を持つ。どうしてこんなに豊満なのであろうか。当時の理想の女性像だという言い方もある。古代の中国・日本でも豊満な肉付きの女性が理想の女性像だったらしいので、それは受け入れるのだが。
 ルーベンスの女性像は二つの種類があるように思える。生身の現実の女性やギリシャ・ローマ神話に登場する女神、旧約聖書の女性たちがひとつの類型。そしてもうひとつは天使なり、キリスト教的な聖性をもつ女性像である。ルーベンスはこれらを明確に描き分けているようだ。
 ルーベンスは前者の女性像を豊満な肉体を誇示するように描いている。後者はどちらかというと、ほっそりとしている。





 かかげた作品は「バラの刺に傷つくヴィーナス」(1608-10、南カリフォルニア大学フィッシャー美術館)と「法悦のマグダラのマリア」(1625-28、リール美術館)。
 前者の解説記事によると「晩年により顕著となる豊満な女性像」という表現がある。それを確かめることは出来なかったのだが、それよりも先のとおりに描き分けをしていると私は勝手に解釈している。

 「法悦のマグダラのマリア」は死の場面ではなく右上の光の存在によって法悦の場面であると、解説記事にも記されている。その当否は別として、法悦と死が不可分のものとして現れるという、「信仰」というものの究極のありようなどを垣間見る作品である。
 この作品はフランチェスコ会の聖堂に置かれていたという履歴を見て、あらためて中世から近世にかけての信仰ということについて考えさせられた。



 今回の展示で、話題になっているのが「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」(1615-16、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション)。ルーベンスと最初の妻との間に生まれた長女の5歳の頃の作品と解説されている。
 全開のルーベンス展で話題になった「眠るふたりの子供」(1612-13、国立西洋美術館)が今回も展示されている。このふたつを並べると、この長女の肖像に私は強く惹かれた。
 神話や伝説的な説話の劇的表現とはおもむきはおおいに違うが、人間の感情表現に卓越した画家の手腕を感じた。

無為の日がうれしい

2018年11月24日 10時48分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今朝の天気予報のメールでは、横浜の最高気温は13℃。予報どおりならば今期一番の寒さである。13℃で寒い、といっているのであれば、さらに寒い地域の方に笑われてしまいそうだ。しかし慣れというものはすごい。私も横浜から仙台に行って、最初の冬は寒いと感じたが、翌年からは特に寒いという感想は持たなかった。逆に仙台から横浜に戻って最初の年はずいぶん暖かいんだな、と思った。しかし2年目からはそれが当たり前で、10℃よりも低くなると、とても寒く感じたものである。

 人の順応性のすごさ、あるいは皮膚感覚の相対性には驚く。

 本日は特に予定が入っていない。無為の日でありたい。無為の日というと何か損をしたような日々だと思うのは現役の頃の思いだ。今は、無為の日が嬉しい。毎日であれば飽きが来そうだが、1週間に2から3日は人に左右されない日、「仕事」に追われない日、自分の好きなこと以外には何もしない日が嬉しい。

 本日はルーベンス展の感想の最終回を仕上げたいものである。繰り返すが、無為の日とは、他人に左右される日ではなく、自分で自分の好きなことに自分の時間を使える日なのである。
 ただし、他人の中に「家族」が踏まれてしまうと、いろいろと問題が生じてくる。これは難しい問いになってしまう。人の世には触れてはならない地雷がある。

夜の東京の空

2018年11月23日 23時14分59秒 | 山行・旅行・散策
 昨晩は十五夜、今晩が満月。
 昨晩21時ころに、南西の空にはだいぶ暗くなった火星とフォーマルハウトと月に照らされながら、3千歩ほどのウォーキングを行った。気持ちの良い涼しさであった。

 本日、目白庭園からの帰り道、西から南にかけての空、それも天頂付近を見ることが出来た。暗くなったとはいえ火星がすぐ目についた。そして夏の大三角である白鳥座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイルがとてもよく目についた。大久保駅から東新宿駅に向かう途中では満月がちょうど建物の上に大きな顔を出していた。しかし一等星ばかりが目につき、星座の形をなぞることが出来ないのは残念である。

 ところが横浜に戻ってみると、空全体が雲に覆われ、残念ながら月も星もまったく見ることが出来ない。本日は昼間タップリと歩いたので、これから夜のウォーキングに出て空を見上げる元気はない。

 明日の夜の天気が気になる。



肥後細川庭園&目白庭園で紅葉を楽しむ

2018年11月23日 22時33分34秒 | 山行・旅行・散策
   

 本日は、副都心線の雑司ヶ谷駅から鬼子母神の表参道を面影橋経由で神田川沿いを文京区立彦細川庭園まで歩いた。服装が薄手のサマーセーターとベストだけだったので少し寒かったが、歩いているうちに暖かくなった。神田川沿いのソメイヨシノの桜紅葉、細川庭園の紅葉、十分に楽しめた。永青文庫では「江戸絵画の美」を開催していたが、これはパスした。「白隠・仙厓から狩野派まで」という副題で会ったので少し後ろ髪を引かれたが‥。

 細川庭園を楽しんだ後は、庭園のそばの水神社や芭蕉案、椿山荘などを外からみてあるいた。こののち東池袋まで都電に乗り、喫茶店で暖まった後、豊島区立目白庭園を訪れ、17時半からの庭園ライトアップを楽しんだ。
 帰りは目白駅から新大久保駅まで山手線。韓国料理を食べようとしたがどの店も若い人で満席、列をなしていたので諦め、東新宿から副都心線に乗り、横浜駅まで戻った。
 夕食後帰宅。ふたりとも2万歩を超える歩数を歩いて草臥れてしまった。

                              


40周年

2018年11月23日 10時33分15秒 | 山行・旅行・散策
 結婚して40年だそうである。いつも間にやら、ずいぶん長い時間が経過した。ウェディング産業では「ルビー婚式」というそうで、「ルビーを贈る」ことになっていると宣伝しているが、私どもにはどこ吹く風の「勝手な」決めごとは無視。
 どこか散歩にでも行こうかということで、これまで行ったことのない目白公園やら目白台あたりを散策してみることにした。
 ルビーどころではない。運賃が安い行き方はどれか、一日乗車券が安いか、そんなことを管変えているうちに出かけるのは昼頃になってしまいそうである。
 決行寒そうである。何を着ていくか、考えていると出かけること自体が面倒になる。

「ルーベンス展」(国立西洋美術館) 3

2018年11月22日 23時12分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ルーベンスの作品は、その躍動感が命だと思う。動きのある人間の姿態は時に劇的にあまりに誇張しすぎるきらいもある。「キリスト昇架」、「キリスト降下」「聖母被昇天」などはどちらかというと抑え気味にした躍動が見るものを感動させる好例だと思う。結構誇張のあまり、危うい均衡を保ってもいるのもあるのではないか。
 1604年頃の「パエトンの墜落」(ワシントン・ナショナルギャラリー)は、人も馬も極めて劇的で現実離れした描き方をしている。しかし現実感が保たれた作品である。
 日本では「イカロスの墜落」としてブリューゲルに帰せられる作品がある。私はこのイカロスとパエトンとの関係はよくわからない。
 図録の解説では、同じくオウィディウスの返信物語に基づいた話として、太陽神アポロの戦車を暴走させたために、太陽の熱で地上が焼き払われ、ジュピターが雷でパエトンを撃ち殺し、戦車の暴走を止める、というもの。
 パエトンと馬車の馬が図の右下側に真っ逆さまに墜落している様子が描かれている。雷が右上から中央をとおって左下に貫いている。馬は墜落しつつ遁走し、女神たちは驚愕している。
 図録の解説によると闘いの場面を想定しながら描いた可能性があり、イタリアでの学習成果のひとつということになっている。この初期のころからルーベンスの躍動的で劇的な作品の特徴が発揮されたのであろうか。
 右下の焼かれた地上よりも雷の光の方が明るくそれで照らし出された光が、劇的な要素をさらに強調しているようだ。その光から外れて一番暗い場面に、雷に打たれたパエトンを配置するという効果が魅力的であると思う。




 1638年頃の「聖アンデレの殉教」(カルロス・デ・アンパレス財団)は今回の展示でいちばん印象に残った作品であった。ルーベンスの死の前年の完成で、ルーベンスが60歳を過ぎた頃の作品である。
 十二使徒のひとりのアンデレがローマ総督によって十字架に磔にされ、取り巻いた群衆がアンデレの教えに教化され総督を脅したため、総督がアンデレを十字架から下すように命じた。しかしアンデレは降りることを拒否し、天から光が射し、昇天したという言い伝えを描いた作品。
 宗教画や神話というのは、信仰しないものには理解が困難な筋も多い。しかし信仰を糧に多くの芸術家がさまざまな解釈を独自に加え、人間的要素、劇的要素を加えて抱負かしたこともまた事実であろう。逆に信仰ゆえに普遍性を喪失したもの、他の信仰を持つものからは敵意を増幅させたものもある。
 ルーベンスなどの作品が現代にまで残るのは、信仰に基づく説話や神話に普遍的な人間の要素を加えものが、現代のわれわれに通じる何かをもたらしたということであると理解している。その普遍性に惹かれるものや、現代性を垣間見ることで、私たちは鑑賞している。
 アンデレという理想や信念に生きようとした人間の意思のありよう、それをとりまく人間の表情、アンデレの思想に共鳴してしまった総督の妻の存在が右端の総督の表情を困惑と逡巡とで目がうつろである。またアンデレは「聖人であること」にこだわり、その矛盾したともいえる生き様に恍惚としている。
 生きて教えを広めるのではなく、死によって思想の正しさを達成せざるを得ない生き方、というのは残念ながら私の選択するところとは違う。総督の右手の力の無さも「どうしてたら良いのか」という逡巡を表わしているようだ。乗っている馬すら戸惑いを見せているようだ。
 左端の女性を除いた人物全員が、この劇的な物語の語り部としてどこかでモヤモヤとしたものを語っているようだ。綱とを解いてアンデレを下ろそうとする人物もその行為が完結しないものかしさにいらだち、総督の妻も助けたい意志と助けられない現実、釈放を決断した夫に対する評価とそれが報われない苛立ち、赤子を抱いて傍観しているような女性の不思議そうな表情、さまざまな人物が描きこまれている。
 なお、左端の青い布をまとった女性は聖母マリアではないだろうか。あらゆる人間の困惑や戸惑いや悩みを引受けるマリア信仰がここに収斂していると思う。天の光と地上の対極に位置しており、その視線は天の神に向いているというよりも、総督を見ているようでもある。総督が救いの対象であるかのようだ。



 ルーベンスの師であるオットー・ファン・フェーンにも「聖アンデレの殉教」(1594-99、シント・アンドリース聖堂)という作品がある。この作品の影響を受けていると解説には記されている。しかし師の作品はあまりに静的で、ドラマ性の感じられない。いかにも中世的な作品である。信仰の場での作品としては成立するのであったろう。しかしルーベンスは、人間としてのドラマを描きたかったのであろう。この作品が現在も生き続ける根拠がわかる。

「トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティックロシア」展

2018年11月22日 19時15分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日の講座は「キーワードで観る美術鑑賞」という5回連続の講座である。毎回美術展のチラシを配布してくれる。今回配布されたチラシに、明日からBunkamuraザ・ミュージアムで始まる「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティックロシア」があった。

 この美術展はノーチェックだった。このチラシによるとトレチャコフ美術館展は約10年ぶり、と記してある。しかしイワン・クラムスコイの「忘れえぬ女」(1883)は強く印象に残っており、そんなに昔だったかと首をかしげた。たぶん画家個人の展覧会以外は図録は購入しないので、このときも図録は購入していない。

 このチラシに掲載されている作品は、どれもが魅力的だと思った。とりわけ、アブラハム・アルヒーポフ「帰り道」(1896)、イワン・シーシキン「正午、モスクワ郊外」(1869)に惹かれた。前者の情感があり、見ていて飽きない物語があるようだ。後者はオランダの風景画を思い浮かべた。

是非訪れたいと思う。

久しぶりに地下鉄の遅延に出くわす

2018年11月22日 18時23分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 講座が終了した後、歩いて横浜駅まで。喫茶店で1時間ほど読書と昼寝。昼寝の方が長かったかもしれない。

 そしていつもの眼科に寄ろうと地下鉄のホームについたら、どうも様子が怪しい。地下鉄の車両が上り・下りともホームに止まったまま動いていない。人はそれほどホームにも電車にもおらず、静かにしている。
 通信系統の不具合で、運転を見合わせている旨のアナウンスが繰り返されていた。ボーっと歩いて改札を通り過ぎたので、アナウンスに気がつかず、さらに改札口にあったと思われる掲示にも注意が向かなかった。
 ホームで待つこと、約20分ほどだったろうか。快速のあとに普通がすぐに来てホッとした。17時を過ぎていたら電車やホームからは人が溢れ、大騒ぎだったかもしれない。20分待たされたのは残念だったが、ラッシュ時ではなかったのはさいわいであった。
 退職してから初めて乗っている電車の地温・運転見合わせに遭遇したと思う。


心地よい睡眠

2018年11月22日 17時26分44秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩は1時過ぎに布団に入った。すぐには寝付けなかったものの、眠剤は飲まずに多分30分以内には寝入ったと思われる。7時半過ぎに目が覚めた。6時間は寝たと思われる。寝る時間をもう30分ほど早めにできれば、いい具合であろう。
 目覚めたときの気分は上々。講座の開始時間15分前に会場に無事到着。

 本日は今季一番の冷え込みであったとテレビで先ほど気象予報士が延べていたようだ。横浜では15時過ぎの14.3℃が最高気温になるようだ。そして13時半ころに少し雨がパラついた。傘は持参したものの、リュックから取り出すことはなかった。
 桜木町駅や横浜駅界隈で行き交う人はすっかり冬支度で厚いコートを着ていた。私はいつものとおり碓井ダウンのコートの下は、長祖での開襟シャツ1枚。桜木町駅から横浜駅まで歩いてうっすらと汗をかいた。

睡眠時間は何時間がいいのか

2018年11月21日 23時07分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一時間ほど前から雨が降り出し、とうとう本降りとなってしまった。

 明日はみなとみらい地区で講座。「キーワードで観る美術鑑賞」(講師:中村宏美氏)の第3回目「仕事と絵画」。みなとみらいのクイーンズタワーで朝10時から正午まで。
 二日続けて9時に家をでるというのは、朝8時に起きる私には厳しい。本日も早目の就寝が必要である。

 昨晩は結局1時半に布団に入った。ここ数日よりは1時間半も早く布団に入れた。さらに眠剤を1/2錠を服用した。7時45分までぐっすると眠ることが出来た。朝、所用で電話があり、それで起こされた形になったが、目覚めはスッキリしたものであった。本当はあと15分は寝ていたかったが‥。

 今晩寝るときは、眠剤を使わずに寝たい。いつもはだいたい1回使えば、早めに寝られるようになっている。今晩は日付が変わる前に寝て、8時に起床したい。8時間寝る、ということを久しぶりに実行してみたい。入院していた時でもそんなには寝なかった。しかし多くの人から7時間から8時間の睡眠を勧められる。

 若い頃は睡眠時間を削るだけ削って生きてきた。これからできるだけ長い時間の睡眠が必要だといわれても、まさか1日に10時間も眠るわけにはいかない。7~8時間の睡眠を確保した方がいいといわれても、条件がどんなに良くても6時間で目が覚めてしまうことが多い。意識のどこかで、6時間も寝ると、何か罪悪を犯したような気分になる。不思議なものである。