私は坂田一男の作品に初めて接した。そしてその作品に対すると、目が離せなく作品がいくつもあった。見つめていると安心できるのである。
抽象画というのは、言葉で語るのは難しい。常に見慣れた「世界」ではなく、画家の内部だけで見える世界、画家にとっては意義のある秩序であり、構成ではあるが、それが見る者、鑑賞する者にとっては異質である。人の数だけ別の世界や秩序がある。どこで共鳴するか、が鑑賞のポイントと思われる。しかし抽象の作品は画家の孤の世界に引きこもってしまうベクトルの力は強い。
内側へ内側へと向かうベクトルを鑑賞者に向っていくベクトルへ変容していこうとする作者の表現意識が問われる。鑑賞者もまた作者の内側へ向かうベクトルと鑑賞者に向ってくるベクトルの合成されたベクトルから、作者固有の振動を読み取ることも必要になる。そこに共感と共振が見つかれば、鑑賞の糸口に立ったことになる。これは意識と無意識とにかかわらない。共鳴すればいいのであろう。
だが、まったく言葉を拒否しているわけではないとも思う。どこかに糸口がある。どうも今の段階では坂田一男の作品からはそれが見つけられない。それでも惹かれた作品、気になった作品、見ていて飽きない作品を羅列するしかないようだ。
左から、年代不詳 デッサン三人の兵士(上)、1921-33 デッサン(下)、1936 コンポジション、1949 コンパス、1955 メカニックエレメント、1956 力学的構成。
解説に次のような文章があった。
「1933年、坂田一男は帰国するが‥日中戦争から多併用戦争へと突入する時局の中で、画家として抽象的思考を持続した‥。戦争は文明も自然も、そして人間性そのものをも破壊しつくす‥人為によるカタストロフである。それは坂田の絵画に、抽象化された構造としてすでに内在していたものでもあった。‥時局に応じた空間的葛藤が破綻することは、構造的に通じっていた。‥この時期‥二つの刮目すべき主題が出現する。ひとつめは手榴弾である。手榴弾の外装が破壊されたとき、外部の空間はもはやそのままではありえず、崩壊するだろうか。破壊されずに画面に留まっている手榴弾の内部に保たれているのは、外部空間に抵抗する、外部空間とは異質な空間の自律性である。ふたつめは冠水である。1944年に‥瀬戸内海に面する埋立地にあった坂田のアトリエが冠水した。‥坂田はその後の制作で、この冠水の影響を画面の構造として取り込んだ絵画の制作を開始するのである。」
わかりにくい文章であるが、短くすると通じるところもある解説である。カタストロフとしてのあの戦争下、どのように画家が時局の圧力に抗して抽象画の制作を続けることが出来たのかを作品だけをとおして語ることは無理がある。画家個人の内発的な根拠だけでは外部からの統制(画材の供給、翼賛画の制作強制‥)にどう対処したかは論じられない。
しかし手榴弾という内部に破壊の意思を持つものが静寂の中におかれ、外部の世界と壁一枚を接して対峙するという指摘は同意できる。
参考として展示されていた坂本繁二郎の作品とモランディの作品との接点を自分なりに直感した。前々からモランディと坂本繁二郎の陶器などの容器と箱型の容器の描き方に接点があるように思えていたが、両者の具象画が抽象的な絵画と通じるものをあらためて認識した。坂本繁二郎の作品の魅力を広げたように思った。
器物の内側には外部世界とは異質な世界が閉じ込められている。例えばガラスの器、それも底が厚いものを上からのぞくと、底のガラスには外部の世界が異様にゆがめられて閉じ込められている。この異様な渦巻くような世界が、外部に流れ出たり、ひょっとしたら宇宙の開始のようなビックバンで外部の世界に衝撃を与えたら、どうなるのか。それを見つめる作者も鑑賞者もその存在自体の存在が危うくなる。
ゆっくりと流れ出たり、爆発したり、時間によって衝撃の度合いは違うものの、破壊としては同質でもある。
破壊の前の静かな均衡、破壊の後の想定不能な現実、それを予感させてくれる作品であった。
さらに私が会場を一巡して気付いたことが二つあった。ひとつは矩形の形や形象、背景の矩形は安定の嗜好が感じられ、曲線によって囲われた不定形の形は安定から不安定への暗号と感じた。私はどちらかというと矩形中心の安定した作品の方により惹かれた。これから起こる破壊と爆発の予感が私の心が共鳴した。
もうひとつは、デッサンにふと現れる人や蜻蛉などの虫用の形象、木の幹に見える形など生物。しかしこれがデッサンから完成された作品になるのはあまり見られない。戦前の「兵士」を描いたデッサンも次第に人間の兵士は角張ったロボットのように変化し、そしてその完成形と思われる作品は見当たらなかった。ことは展示されなかっただけなのか、作品そのものがなかったのか、分からないままである。
「兵士」は生きた人間を、内部には破壊につながるエネルギーや不条理を内包するものとして把握することで、生きた形が失われていくように思えた。そんな解釈が出来るかもしれないが、晩年の木の幹や蜻蛉、人間の形象にまだ敷衍するのは無理がありそうである。
ここまでが今回の展示を見ての感想である。これからも頭から離れずにどこかでこだわってみたい画家である。