太宰の映画化って難しいんだろうなあ。特にこの作品はある廃人になったような男の手記を映像化するといった人間の内面に入り込んだ作品だから、相当切り口が大変だと思う。
映画はほとんど原作通りの展開をしているが、省略が多いので、原作未読の人には分かりにくいものになったのではないかと思える。いっそのこと、どこかだけ描くか、あるいは大胆にはしょればまた違った太宰を切り取れたのかもしれないが、一応話の筋はほぼ全部カットしなかったので、逆に何か表面をなぞった感がしないでもない。
道化というオブラートを通してでないと他人と接触できない男の話である。その道化というテーマがこの映画では完全に落箔していると思う。最初の少年時の体育授業にそれらしきものはあるが、それはエピソードに終わっており、テーマの掘り下げが為されていないと考える。
若き青年が結局廃人のような人生を送ったという陰惨でいたたまれない話なのに、女性遍歴が目立ってしまうので、無色のハナシがかなり色彩が付いたかのような印象になって来る。太宰(葉蔵)からすると、女性は男性より不可思議な生き物であり、まか恐ろしい存在だそうです。でも女性からすると、太宰は守るべき存在であり、何よりセクシーで一瞬でも一緒に居たい存在でもあるのです。
そのギャップにも苦しむ葉蔵なのだが、そんな心の慟哭のようなものはどのシーンにも見出されず、まあ、作品と全く別でもいいけれど、太宰の原作ものは、やはり太宰が少しでも匂わないとダメなのではないか、と思う。
オバケが分かる級友に、自分が書いた自画像を恐る恐る見せるシーンがあります。葉蔵が初めて心を許し、自分を吐露する重要なシーンです。その自画像とは、ある廃人の顔だ。これはラストにオーバーラップされ、我々は一瞬だけ太宰の世界に入り込むことができる。
ただ、これまでずっと省略が多いために、太宰の(心の)生身の怖さは廃人の気持ち悪さとなって観客に伝わってくるだけで、一個の人間としての葉蔵の悲しみは伝わって来ない。
【荒戸源次郎】は道化というオブラートは現代人には不要と思ったのかもしれません。でも、道化という概念は現代だからこそ現代人、特に若い人に通じるのではないか、と僕は思う。多かれ少なかれ道化という概念は誰にでもある。だからこそ今でも太宰は読み継がれているのではないか、、。
でも、主役の生田斗真は意外と太宰に納まっている。太宰の無色さを彼なりに理解していたのではないか。その透明感は葉蔵の世俗性としての分身である堀木や、遍歴する女性陣をくっきりと浮き彫りにしている。
なお、三田佳子の強引とも言える夜這いが特に印象深いが、原作通りであり、だからこそ葉蔵は生きながらにして廃人となっている。
「ただ、一切は過ぎていきます。自分は今年27になります。白髪がめっきり増えたので、たいていの人から、40以上に見られます。」
10代のときこれを読んだとき、どれほど陰惨だと思ったことか、、。そんな小説です。
映画はほとんど原作通りの展開をしているが、省略が多いので、原作未読の人には分かりにくいものになったのではないかと思える。いっそのこと、どこかだけ描くか、あるいは大胆にはしょればまた違った太宰を切り取れたのかもしれないが、一応話の筋はほぼ全部カットしなかったので、逆に何か表面をなぞった感がしないでもない。
道化というオブラートを通してでないと他人と接触できない男の話である。その道化というテーマがこの映画では完全に落箔していると思う。最初の少年時の体育授業にそれらしきものはあるが、それはエピソードに終わっており、テーマの掘り下げが為されていないと考える。
若き青年が結局廃人のような人生を送ったという陰惨でいたたまれない話なのに、女性遍歴が目立ってしまうので、無色のハナシがかなり色彩が付いたかのような印象になって来る。太宰(葉蔵)からすると、女性は男性より不可思議な生き物であり、まか恐ろしい存在だそうです。でも女性からすると、太宰は守るべき存在であり、何よりセクシーで一瞬でも一緒に居たい存在でもあるのです。
そのギャップにも苦しむ葉蔵なのだが、そんな心の慟哭のようなものはどのシーンにも見出されず、まあ、作品と全く別でもいいけれど、太宰の原作ものは、やはり太宰が少しでも匂わないとダメなのではないか、と思う。
オバケが分かる級友に、自分が書いた自画像を恐る恐る見せるシーンがあります。葉蔵が初めて心を許し、自分を吐露する重要なシーンです。その自画像とは、ある廃人の顔だ。これはラストにオーバーラップされ、我々は一瞬だけ太宰の世界に入り込むことができる。
ただ、これまでずっと省略が多いために、太宰の(心の)生身の怖さは廃人の気持ち悪さとなって観客に伝わってくるだけで、一個の人間としての葉蔵の悲しみは伝わって来ない。
【荒戸源次郎】は道化というオブラートは現代人には不要と思ったのかもしれません。でも、道化という概念は現代だからこそ現代人、特に若い人に通じるのではないか、と僕は思う。多かれ少なかれ道化という概念は誰にでもある。だからこそ今でも太宰は読み継がれているのではないか、、。
でも、主役の生田斗真は意外と太宰に納まっている。太宰の無色さを彼なりに理解していたのではないか。その透明感は葉蔵の世俗性としての分身である堀木や、遍歴する女性陣をくっきりと浮き彫りにしている。
なお、三田佳子の強引とも言える夜這いが特に印象深いが、原作通りであり、だからこそ葉蔵は生きながらにして廃人となっている。
「ただ、一切は過ぎていきます。自分は今年27になります。白髪がめっきり増えたので、たいていの人から、40以上に見られます。」
10代のときこれを読んだとき、どれほど陰惨だと思ったことか、、。そんな小説です。
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