B級犯罪者の裁判といえば、遠く「私は貝になりたい」という名作があった。南洋で上司の命令で処刑を決行した下司官が死刑になってしまうという悲劇を彼の人生を踏まえ、淡々とある時は憤りを持って平和の意味と理不尽を訴えた作品である。
本作は主題が最初のナレーションで、国際法と無差別攻撃についての矛盾を問い、そのまま名古屋での米兵処刑の法との関係是非に入っていく。映画の中でも述べられていたが、まともに審議をしていることにまず驚く。こういう裁判はまず、もう結論がありきから入っていくと思っていたので、意外であった。他の裁判ではやはりなおざりの裁判であったらしいことは岡田の台詞から知らされる。
映画はそこから裁判での関係者とのヒューマニズムの高揚が描写される。それは人間岡田の真摯な生き方をダイレクトに感ずるがゆえに当然のこととして捉えられるが、僕にはまず冒頭の主題がなおざりにされているように思わざるを得なかった。
むしろ、この裁判で、国際法と無差別攻撃を裁判の争点にしかかったこと、そのものが立派な裁判ではなかったかと思える。
何故なら今でもこのことが曖昧なまま現在、各国で戦争が行われているからだ。
岡田の自分だけが犠牲になり、部下に罪をかぶせない人道的な行為は本当に立派だ。「私は貝になりたい」ではただ上司の命令を受け機械的に作業をした兵士が死刑になっている。その違いはやはり大きすぎる。
ただ、映画的にはどうも小泉堯史監督、硬いんです。やはりこういう映画は裁判シーンだけではテーマもさることながら単調になりがちだ。人間岡田をもう少し掘り下げた映像も欲しかった気がする。裁判の傍聴の富司純子の姿勢もずっと固まったままで、体での揺れで感情表現も出来たはず。特に、判決時に愛する夫の死の宣言を聞いても全く体が揺れていず、単直な映像になってしまっていることに気づく。
裁判関係者が人間的に結びつき会うシーンも何となく作られている感じがして、どちらかというと唐突なイメージです。言いたいこと、伝えたいことがいっぱいあったんでしょうが、演出的には滑らかではなかった気がしました。
でも、人間岡田を演じた藤田まことの演技は鬼気迫るものがあり、朗々と立派にこの世を去っていく、その散り際の颯爽さには本当に心から脱帽します。
人間の死はいつか来るものだけれど、でもその死は一回しかないのですよね。人間の死に方はその人の生き方でもある、とよく言われることですが、この映画を見てまさにその言葉を思い出しました。
本作は主題が最初のナレーションで、国際法と無差別攻撃についての矛盾を問い、そのまま名古屋での米兵処刑の法との関係是非に入っていく。映画の中でも述べられていたが、まともに審議をしていることにまず驚く。こういう裁判はまず、もう結論がありきから入っていくと思っていたので、意外であった。他の裁判ではやはりなおざりの裁判であったらしいことは岡田の台詞から知らされる。
映画はそこから裁判での関係者とのヒューマニズムの高揚が描写される。それは人間岡田の真摯な生き方をダイレクトに感ずるがゆえに当然のこととして捉えられるが、僕にはまず冒頭の主題がなおざりにされているように思わざるを得なかった。
むしろ、この裁判で、国際法と無差別攻撃を裁判の争点にしかかったこと、そのものが立派な裁判ではなかったかと思える。
何故なら今でもこのことが曖昧なまま現在、各国で戦争が行われているからだ。
岡田の自分だけが犠牲になり、部下に罪をかぶせない人道的な行為は本当に立派だ。「私は貝になりたい」ではただ上司の命令を受け機械的に作業をした兵士が死刑になっている。その違いはやはり大きすぎる。
ただ、映画的にはどうも小泉堯史監督、硬いんです。やはりこういう映画は裁判シーンだけではテーマもさることながら単調になりがちだ。人間岡田をもう少し掘り下げた映像も欲しかった気がする。裁判の傍聴の富司純子の姿勢もずっと固まったままで、体での揺れで感情表現も出来たはず。特に、判決時に愛する夫の死の宣言を聞いても全く体が揺れていず、単直な映像になってしまっていることに気づく。
裁判関係者が人間的に結びつき会うシーンも何となく作られている感じがして、どちらかというと唐突なイメージです。言いたいこと、伝えたいことがいっぱいあったんでしょうが、演出的には滑らかではなかった気がしました。
でも、人間岡田を演じた藤田まことの演技は鬼気迫るものがあり、朗々と立派にこの世を去っていく、その散り際の颯爽さには本当に心から脱帽します。
人間の死はいつか来るものだけれど、でもその死は一回しかないのですよね。人間の死に方はその人の生き方でもある、とよく言われることですが、この映画を見てまさにその言葉を思い出しました。
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