【トラン・アン・ユン】、前作が血迷ったかのような愚作だったから、心配して見ましたが、まあ本領は取り戻したかな、大作ではあったけれど一応の成果はあると思った。
というのも映像、演出、音楽、俳優の起用すべて一流どころの結果を見せつけてくれる。敢えて言えば何が問題なのかというと、僕にはそれは大きな存在そのものであり、ある意味壁でもある「原作」なのではないか、と思われます。
お金をふんだんに使った余裕たっぷりの映像と音楽がこれ見よがしに館内を流れ行きます。映像には若く魅力たっぷりの男女が何故か人生を語っています。心地よい映像です。心をくすぐります。でも、まったく僕の心に風が入って来ません。ただ、心地よいそよ風、高原のさわやかな風は映像を通して僕たちの感覚をひたひたと満たしてくれます。
男は青ヘル、黒ヘルなど見向きもせず、ただ社会に背を向け書物にこそ人生があると思っているのか、食べる時間を除いて常に本を読んでいる。何の本を読んでいるかは観客には伝えない。随分失礼な態度だと思う。そのくせ肉体の欲望には忠実で、その他大勢がのたまうような下劣な言葉も躊躇せず女の前でもしゃべり、性行為もすべておおらかに好きなようになさっている。
けれどフツウノ男ではないことを自覚している。何か、人生の大きな悩みを抱えている風でもある。だから書物を読むことでそのうっ屈した心を落ち着かせているようでもある。でも、書物を読むことなんて別に大したことじゃないと僕は思う。この主人公の男もフツウノ男なのである。
分からないのは心を病んでいく女のことである。病気の女を分かろうとするのは無理なのかもしれないが、映画では妄想がちらちら出没するということだから、ウツなんて言うものではなく、今でいう統合失調症という病気なのだろうと思う(この時代は精神分裂病と言っていた)。なのに、映画では性的不感症も原因の一つで病気が進んでいるような印象を持つ。
それはこの映画が性を前面に出しているからそういう印象を持ってしまうのであろうと思われるが、ちょっと違うのではないか。
【菊地凛子】は死を、【水原希子】は生をメタファーしているはずだから、性的なものそのものが彼女たちの苦悩の原因であってはいけないのだ。死にどんどん進む女性にも性はタナトスとなってむしろ喜びの根源でもあるはずだ。またその対岸にいる輝く生の真っただ中にいる女性にとって、性とは先に突き進む推進力のようなものだと思う。
この部分が映画できっちりと描かれていないから、何か心地よいイメージだけが映画として先行します。でもそれって、誰のせいなのか僕には実ははっきりとは分かりません。
映画的にはストーリー以上のものは作品に構築されていたと思います。とすると、原作から飛翔できなかった【トラン・アン・ユン】のせいなのかもしれません。原作なんか、もっと自分のものに近付け、ぐちゃぐちゃにしてもよかったのだと思います。村上春樹に気を遣いすぎたのかなあ、、。
でも不思議とこの映画、映像的、今ある映画テク的に完成度は高いんですよね。私への心への高揚度はほとんどありませんでしたが、、。
というのも映像、演出、音楽、俳優の起用すべて一流どころの結果を見せつけてくれる。敢えて言えば何が問題なのかというと、僕にはそれは大きな存在そのものであり、ある意味壁でもある「原作」なのではないか、と思われます。
お金をふんだんに使った余裕たっぷりの映像と音楽がこれ見よがしに館内を流れ行きます。映像には若く魅力たっぷりの男女が何故か人生を語っています。心地よい映像です。心をくすぐります。でも、まったく僕の心に風が入って来ません。ただ、心地よいそよ風、高原のさわやかな風は映像を通して僕たちの感覚をひたひたと満たしてくれます。
男は青ヘル、黒ヘルなど見向きもせず、ただ社会に背を向け書物にこそ人生があると思っているのか、食べる時間を除いて常に本を読んでいる。何の本を読んでいるかは観客には伝えない。随分失礼な態度だと思う。そのくせ肉体の欲望には忠実で、その他大勢がのたまうような下劣な言葉も躊躇せず女の前でもしゃべり、性行為もすべておおらかに好きなようになさっている。
けれどフツウノ男ではないことを自覚している。何か、人生の大きな悩みを抱えている風でもある。だから書物を読むことでそのうっ屈した心を落ち着かせているようでもある。でも、書物を読むことなんて別に大したことじゃないと僕は思う。この主人公の男もフツウノ男なのである。
分からないのは心を病んでいく女のことである。病気の女を分かろうとするのは無理なのかもしれないが、映画では妄想がちらちら出没するということだから、ウツなんて言うものではなく、今でいう統合失調症という病気なのだろうと思う(この時代は精神分裂病と言っていた)。なのに、映画では性的不感症も原因の一つで病気が進んでいるような印象を持つ。
それはこの映画が性を前面に出しているからそういう印象を持ってしまうのであろうと思われるが、ちょっと違うのではないか。
【菊地凛子】は死を、【水原希子】は生をメタファーしているはずだから、性的なものそのものが彼女たちの苦悩の原因であってはいけないのだ。死にどんどん進む女性にも性はタナトスとなってむしろ喜びの根源でもあるはずだ。またその対岸にいる輝く生の真っただ中にいる女性にとって、性とは先に突き進む推進力のようなものだと思う。
この部分が映画できっちりと描かれていないから、何か心地よいイメージだけが映画として先行します。でもそれって、誰のせいなのか僕には実ははっきりとは分かりません。
映画的にはストーリー以上のものは作品に構築されていたと思います。とすると、原作から飛翔できなかった【トラン・アン・ユン】のせいなのかもしれません。原作なんか、もっと自分のものに近付け、ぐちゃぐちゃにしてもよかったのだと思います。村上春樹に気を遣いすぎたのかなあ、、。
でも不思議とこの映画、映像的、今ある映画テク的に完成度は高いんですよね。私への心への高揚度はほとんどありませんでしたが、、。
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